「イエズスに出会った人々」(あかし書房、\3,000)より

39 コロザインの美女の治癒。

カファルナウムの会堂での説教

イエズスが、ユダ・タデオを除く弟子たちと一緒に、ペトロの姑の家から出てくる。真っ先にイエズスを見つけたのは一人の子供で、別に知りたいと思っていない人にまで知らせて回る。
湖の岸辺にあるペトロの舟の舷側に腰かけると、たちまちその帰りを祝う市民たちに囲まれてしまう。その騒ぎが天上のハーモニーであるかのように、イエズスはいつものとおりほほえみ、ちょっとやそっとではまねできない忍耐強さで、あれこれの質問に答える。
会堂司もやってくる。イエズスはあいさつしょうとして立ち上がる。二人が互いに交わすあいさつは、いかにも東洋的で、尊敬に満ちあふれている。

「先生、皆に訓戒をいただくために、あなたをお待ちしてもかまわないでしょうか」

「言うまでもないことです。あなたと皆さんがお望みならば」

話の問中ずっと皆が望み続けていたことなので、そのとおり、人々は新たな歓呼をもって答える。
「夕方、あなたのところへ行きます。いまは皆、帰ってよろしい。私を待ち望んでいる人のところへ見舞いに行かなければなりません」

イエズスとペトロとアンドレアが、舟で湖に出ると、集まっていた人たちもしぶしぶ立ち去る。他の弟子たちは岸辺に残っている。

帆を張った舟はしばらく走り、漁師二人がなだらかな二つの丘に囲まれた小さな入り江に舟を進める。絶壁のようなところの崩れた大きな岩に、どうやって育ったのか、からまり合ったオリーブが、岸まで枝を伸ばしている。湖から吹き上げる風にねじ曲げられたオリーブの枝は縮んだように星根をつくつている。その下に、小さい早瀬が波立っている。
アンドレアは、舟をできるだけ岸に寄せるために、どこかの幹に縛りつけようとして水にざんぶり飛び込む。その間にペトロが帆を下ろし、イエズスの足場をつくるためにしっかりと細長い板を置く。
「大丈夫と思うが、私たちがするとおり、サンダルを脱ぎ、服も脱ぐようお勧めします」と、ペトロが言う。
「この気違い川め!湖の水を沸騰させるみたいに、こんなに横揺れするのだから、足元がふらついてしまう」
イエズスは何も言わず、言われたとおりにする。陸に上がってサンダルを履き、丈の長い服を身につける。他の二人は、うす汚れた下着姿のままでいる。

「どこにいるのですか」とイエズスが聞く。

「話し声がしたので、森の中に隠れたのだと思います。

きっと、あばたといままでのこととで‥‥‥先生、あの女に呼びかけてください」

イエズスが強く叫ぶ。
「私はカファルナウムのラビです。弟子もいます。外に出ていらっしゃい」
息をこらしている者からは、何のしるしもない。
「信用していません」と、アンドレアが説明する。
「ある日、『食べ物を持ってきたから出ておいで』と呼びかけておいて、石を投げつけた人がいました。私たちは、その時に初めてあの女に気づきました。というのは、少なくとも私は、コロザインの美女と呼ばれていたころのあの女を覚えていないから」
「そうしてその時、おまえたちはどうしたのですか」
「あの女に、一つのパンと焼き魚とぼろ布を投げました。あの女は裸だったので、私たちが体を拭くときのために取っておいた古い帆の切れっ端でした。しかし、その後で、不浄にかからないよう逃げ出しました」
「それなら、なぜ、また戻ってきたのですか」
「先生‥‥あなたがここにおられないので、私たちはあなたのことをどうやって知らせればよいか分かりませんでした。あらゆる病人、盲人、足なえ、口がきけない人の世話をして‥‥‥あの女のことも考えて、『やってみましょう』と約束しました。
そう、多くの人は‥‥‥おお、言うまでもなく、私たちの要領が悪いからですが、われわれを気違い扱いして耳をかそうともしませんでした。でも、ちゃんと聞いてくれた人もいます。あの女には、ちょうど私が話しました。独りきりで舟をこぎ出し、月夜に何度かあの女を呼んで話しました。オリーブの木の根元の石にパンと魚とを置き『安心して出てきなさい』と言って、そのままそこを立ち去りました。あの女の姿をただの一度も見かけなかったのは、私がいなくなるのを待って、出てきたからだと思います。六度白に行ったとき、ちょうどいま、あなたがいる所に、あの女が立っているのを見ました。
私を待っていたのです。何と、おぞましい姿!しかし、あなたのことを考えて逃げなかった……。
『あなたはだれ? どういうわけで私に同情してくれるのですか』と私に話しかけました。
『私はあわれみの弟子だから』と答えました。

『どなたですか』
『ガリラヤのイエズスです』
『私たちのような人をあわれむように教えているのですか』

『いえ、皆を』

『私がだれだかご存じですか』
『あなたはコロザインの美女、そしていまは癩病人ですね』

『私のためにもあわれんでくださるのですか」
『あの方が、自分のあわれみは皆に及ぶと教えられ、私たちはあの方に倣うよう、皆に対してそうしています』
先生、この時、癩病の女は無意識に冒涜の言葉を言いました。

『では、その方も大きな罪人だったでしょうね』

私は、あの女にはっきり言ってやりました。
『いいえ。あの方はメシアで、神の聖なるものです』
実のところ、“おまえの舌のせいで呪われるがいい”と、のどまで出かかりましたが、“この女はそこまで滅びたので、神のあわれみなど考えられないのだ”と思い直して、口に出しませんでした。そうすると、女は泣き出し『おお、その方が“聖なる者”だったら、美女をあわれむはずがない。癩病人はそうされるかもしれないが、美女はそうされない。望んでいたのに‥‥』
私は聞き返しました。
『女よ、何を望んでいたのですか』
『病気が治ること。世間へ‥‥‥世間へ、人々の中に戻ること。乞食として死んでもいい、人々の中へ……洞穴の中で獣のようにではなく』
『世間へ戻れたら、きちんとした生活を送ると誓えますか』と女に言うと、

『誓います。神は、私のもろもろの罪のために、正しく罰しました。でも、痛悔は私の中にあります。私の心はその償いをしていますし、罪を永久に忌み嫌います』と答えたので、それなら、あなたに代わって救いを約束してもいいと思いました。

すると、女は私に頼んだのです。
『また戻ってきてね‥‥その方のことを、私に話してください。目で見る前に、私の霊魂がその方を知るように舌足らずの私は、その女に、

『あなたのことは話に聞いていた‥‥‥』」

「そして、私はアンドレアの最初の回心者に(というのは、それまで話していたのはアンドレアで、ペトロは小川の石から石へと飛び移りながら、癩病者の女の名を呼んで小川を遡って行っていたから)救いを持ってきました」

やっと、その女がオリーブの枝の間から、おぞましい顔を見せる。人影を見て、女は悲鳴を上げる。

「さあさあ、下りてきなさい」とペトロが叫んで呼ぷ。「石殺しにするつもりはない!ごらん、見えますか。

ラビ・イエズスがいますよ」

女が斜面をすべり下りてくる。ペトロがイエズスのそばへ着くより早く、その女はもう先生の足元にうずくまっている。

「主よ、あわれんでください!」
「私がそれを与えられると信じられますか」
「はい。あなたは聖なるもので、私は痛悔しているから。私は“罪”で、あなたは“あわれみ”です。あなたのお弟子さんが、だれよりも先に、私をあわれみ、パンと信仰とを持ってきてくださいました。

主よ、私を清めてください。肉体の前に霊魂を。というのは、私は三重の不浄です。あなたが一つの浄を与えられるなら、一つだけかなえられるならば、罪人の私の霊魂の清めをお願いします。お弟子さんが私に繰り返していたことばを聞く前は、『世間へ戻れるようよくなりたい」と言っていたけれど、いまは分かっているから『永速の命を得るために、ゆるされますように』と願うのみです」

「あなたにゆるしを与えます。これだけ、しかし‥‥」
「あなたが祝されますように!これから、洞穴の中で、神の平和のもとに、すべての恐怖と苛責から解放されて生きていけます。ゆるされたいま、もう死を恐れません! いまはもう私を赦免した神をおそれません」
「湖へ行って自分を洗いなさい。私が呼ぷまて、そこにいなさい」
むしばまれ、乱れた髪は白くかわり、がい骨のような女はいも虫のようにしか見えない。あわれな女は、この上なくあわれである。女は立ち上がって、ほとんどどこも覆えないぼろ切れをまとったまま湖に入る。
「なぜ、体を洗いに行かせたのですか。確かに、息が詰まりそうな悪臭ですが、私には分かりません」とペトロは首をかしげている。

「女よ、そこから出て、ここへいらつしやい。そこの枝にかかっている帆の端切れを取りなさい」
舟から陸へ上がるとき、イエズスが濡れた体を拭くために使った布切れである。女は言われたとおりにし、おとなしく水から上がる。水の中でぼろを脱いだので、全くの裸である。
最初に叫んだのは、その女を見たペトロである。それに引きかえ、最も慎み深いアンドレアは背を向けていたが、兄の叫びを聞いて振り向き、一緒になって叫ぶ。すべてを忘れてイエズスをじっと見つめていた女はその叫びを聞きつけ、指差されている自分を見てわれに返る。 そして、ぼろ切れと一緒に癩病も湖に残ったと知る。走り出すかと思いきや、自分が裸なのを恥ずかしがって岸辺にしゃがみ込む。あまりの感動に、ただ泣くばかりである。その泣き声は、どんな叫びよりも心を引き裂き、永遠に続くかと思われるほど長い。
イエズスが近寄り……そばまで行くと、布切れを女に投げかけ、そっと頭をなでながら話しかける。
「……さようなら。いい方でいなさいね。あなたの真実の痛悔は、聖寵を受けるに値するものとなりました。キリストの信仰に成長し、清めの律法に従いなさい」
女は、涙にかきくれている‥‥。ペトロが舟に戻すために坂を引きずる音を耳にしたときだけ頭を上げ、腕を伸ばして叫ぷ。
「主よ、ありがとう。祝された者、ありがとう。おお! 祝された者、祝された者!‥‥」

舟が入り江の岬を曲がって姿を消す前に、イエズスは手を振って別れをつげる‥‥‥。

‥‥イエズスは、全員そろった弟子と一緒に広場を突っきってカファルナウムの街道に入る。外のざわめきといろいろな評判が聞こえるので、新しい奇跡の便りはもう届いているらしい。

街道の門のところに、未来の使徒マテオが見える。そこで、体を半分、隠している。自分に向けられたさまざまの目配せを恥ずかしがっているのか、それとも、耳に入るあまりありがたくないことばがしゃくに障っているのかもしれない。

堂々とした二人のファリサイ人は、たっぷりした服がマテオの服に触ると、ペストが伝染するとでも思っているかのように、服を引っ込める。イエズスは、中に入りながら、ほんの一瞬マテオをじっと見つめ、わずかだが足を止める。だが、マテオは頭を下げるだけである。

そこを通り過ぎると、ペトロが小声でイエズスにささやく。
「女の人よりもきれいな巻き髪にして、香りをぷんぷんさせているあの男がだれだか、ご存じなのですか。われわれの収税吏です‥‥。ここへ何をしに釆たんでしょう。初めてですよ、多分。安息日を過ごす仲間たち−無論、女友達−が見つからなかったくらいが関の山でさ。私たちからしぼり上げた金で、女たちと酒盛りをし、遊び暮らしている人です」
イエズスがペトロをどんな厳しい目でにらみつけたことか。ペトロはけしの花のように赤くなってがっくりとうなだれて立ち止まり、佳徒の一行の先頭にいたのが、しんがりになってしまう。
イエズスは席に着くと、集まった人々と一緒に歌い、祈った後で、話そうとして振り向く。

会堂司が、「どの巻物がよろしいですか」と聞くと、イエズスは「必要ない。もう主題は考えてあります」と言って始める。
「イスラエルの大なる王ベトレヘムのダビドは、罪を犯した後で深い痛悔の涙をこぼし、神に向かって自分の痛悔を叫び、ゆるしを頼みました。ダビドはその罪を犯した時、肉欲に目がくらんだので、神の御顔と、そのみこととばを知ることができませんでした。

私が神の御顔と言いましたね!人の心には、神の御顔を思い出す最も優れたところがあります。それは私たちの至聖所、聖なる霊感と聖なる決心を生むところで、祭壇のように香ります。聖火のように輝き、天使たちの座のように歌うところです。しかし、罪の煙がくすぷるとき、そのところがぽやけてしまい、私たちの中の光、香り、歌が消え、低く這ぅ煙のむかつく匂いと、灰をかむような味しか残らない。だが、神のある下僕が、暗闇に迷い込んだその人に光をまたもたらすとき、光は戻り、その人が自分の醜さと地に落ちた状態を見て、自己嫌悪し、ダビド王のように叫びます。

“神よ、慈悲によつて私をあわれみ、
深い憐憫によって、私のとがを消したまえ”
“私は、続いて罪を犯すためにゆるされない”と言わず、こう言います。

“私は不義の中に生まれ、
母は罪のうちに私を身ごもった。
ヒソプをもって清めれば、私は清くなり、
洗えば雪よりも白くなる”

そして、こうも言っています。

“あなたはもういけにえを好まれず、
供え物をしても、あなたはそれを喜ばれない。
神へのいけにえとは痛悔する魂である。
ああ、神よ、あなたは悔い改め、へりくだる魂を
軽んじられない”

罪を犯した後、主の下僕ナタンが回心させてからのダビドはいまのように言いました。主が、一人の下僕ではなく、自分のみことば、贖い主自身を送るいま、罪人はなおさらそう言うべきです。いま、贖い主は、雲一つない澄みきった空に輝く朝日のように、自分の民の中へ出てきたのです。あなたたちは、マンモンの餌になっている人間が、いままで‥‥強いものであったにしても、危篤の肺病人よりも弱くなるのは、読んで知っていますね。

皆さんは、肉欲こ負けてサムソンが空しくなったと知っていますね。マノアの子サムソンが与える教訓を、皆さんに知ってほしい。サムソンは、イスラエルを圧迫していたフィリステ人に打ち勝つ使命を持っていたが、誕生した時から、第一に、人の心に不浄の火をおこさせ、酔わせるものと脂肪の多い肉を避けるべきでした。第二に、ナジルとして、聖別されたものとして残るべきでした。

聖なるものは、外的だけにではなく内的にもその聖別を守る人です。そうしたら、神は聖なるものと一緒におられます。しかし、肉体は肉体で、サタンは誘いです。
人の心の誘惑は、神に反逆するための道具として男を刺激させる肉体に、女を用います。その時“強いもの”の力がなくなり、神からもらった賜物を費やす弱いものとなります。だから、聞きなさい。

サムソンは、まだ乾いていない新しい七本のひもで縛られ、その七本の編み毛で地面にくくりつけられました。しかし、サムソンはいつも勝ち残りました。だが、主のあわれみを空しく試みるべきではない。神は何回もゆるしはするが、罪から脱するという意志を要求します。

“主よ、ゆるしてください”と言いながら、絶えず罪に導く人を避けない人は愚かです。

三回も勝ったサムソンは、ダリラ、肉欲、罪を避けませんでした。そして、聖書が述べるとおり、死にたくなるほど嫌になって、その秘密を明かしてしまいました。“私の力は、この七本の編み毛にある”と。

皆さんの中で、罪による疲れをおぼえて、落胆する人はいませんか。しつこく良心がとがめるとき、人間は本当に疲れ、その時、悪魔に降伏することは、ままあります。だが、あなたがだれであろうと、そうしてはならない。サムソンは、誘惑に、自分の七つの徳に打ち勝つ極意をもらしました。象徴的な七本の編み毛は−すなわちサムソンの徳はナジルとしての己の忠実を指しています。疲れて、女の懐で寝てしまったために負けたのです。自分の願への忠実を破ったので、盲目、奴隷、無力となりました。まことの痛悔の苦しみの中でもとの力が戻った時、“強いもの”“解放するもの”に戻りました。罪人たちよ、痛悔、忍耐、根気、英雄性があれば、己の解放者になれると、あなたたちに約束します。はっきり言って、罪を放棄するという意志と痛悔がなければ、洗礼も、どんな儀式も役に立たない。しかし、罪が自分の心から引き抜いた徳を、自分の涙で新たに生まれさせられない罪人はいないと、まことに言っておきます。
きょう、ある女、罪のせいで神に罰せられた一人のイスラエルの罪の女が、回心と痛悔によってあわれみを得ました。あわれみを得たことを、繰り返して言っておきます。その女に対して、いままで、あわれみもせず、罰せられた者に同情するどころか、いじめようとした人たちは、少しのあわれみも持っていなかったです。こういう人々は、自分の中に罪の癩病を持っていなかったのですか。だれもが、各反省し、あわれみを得るために、あわれみを持ちなさい。死の隔離の後に生きる人々の中に戻る、この回心した女のために私は手を伸ばします。まことの命に戻る、この回心した女のために施しをもらうのは、私ではなくヨナのシモンです。そして、偉ぶっているだれかさんに言いたい。愚痴をこぽすな、不平を言うな。あの女が、美女だともてはやされていたころ、私はここにいませんでした。しかし、あなたたちはここにいました。これ以上、もう何も言いません」
「私たちがあの女の恋人であったとでも言うつもりですか」と、老人の一人がうらみがましく言う。
「だれもが、自分の心と行いとを目の前に置いて見ればよい。私はだれも訴えたりしません。ただ、正義の名前で話すだけです。行きましょう」
イエズスは、弟子たちと一緒に出かける。しかし、ケリオットのユダは、顔見知りの二人に引き止められ、そのことばを私はこの耳で聞いた。

「おまえもあの男と一緒にいるのか。本当に聖人なのか?」

ケリオットのユダが、時として、人をまごつかせることばを発する。

「おまえたちが少なくとも先生の聖徳を理解できるように、私はおまえたちのために祈る」 「おことばを返すようだが、安息日に人を治したではないか」

「いいえ、安息日に人をゆるしたのです。ゆるしを与えるのに、安息日よりもふさわしい日がありますか。あの贖われた女のために、何もくれないのですか」

「われわれは淫売婦には金をやらない。それは聖なる神殿にささげられたものだ」

「ユダは不敵な笑いを浮かべて、そこへ二人を置き去りにしたまま、ペトロの家へ戻ろうとしている先生を追いかける。ちょうどその時、イエズスがこう話しているのが聞こえる。
「ごらん、小さなヤコボは会堂を出たばかりで、いつもは一つなのに、きょうは二つの金袋を相変わらず、あのだれだか分からない人に頼まれて持ってきました」
「それにしても、あの人はだれなのですか、先生。あなたは知っているはずです……教えてください」

イエズスはほほえんで答える。

「おまえが、だれについても悪口を言わないということを学んだときに教えます」

こうして、すべてが終わる。


(1)癩病が治った人は司祭に見せるべきであるという律法を暗示している。
(2) サムエル下11、12章。
(3)詩編51・3。
(4)詩編51・7、9。
(5) 詩編51・18、19。
(6)判事13〜16章。


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