「教会の聖人たち(下)」(中央出版社、\4,500)P448-453より/聖マルチノ(ツール)司教(フランスの使徒)

十一月十一日

聖マルチノ(ツール)司教(フランスの使徒)

「内は修道者で外は使徒」、これは聖マルチノ司教の生涯をあらわしたことばである。実にこの聖者の熱心な布教活動は、内にたたえられた深い信仰と祈りの精神から溢れ出たものと言えよう。
聖マルチノは三一七年、ハンガリーのマルチンスベルグ山の麓に生まれた。この時代は、ローマ帝国内でのキリスト教の歴史が、一大転機を迎えた時であった。三〇三年にヂオクレアヌス皇帝による最後の大迫害があってのち、三一二年にコンスタンチヌスが帝位についてから事情は好転し、迫事は停止され、キリスト教は公認され、使徒の平和は保証された。カタコンブから地上に出たキリスト教の影響力は、燎原の火のようにヨーロッパ全土に広がり、三三〇年には世界最初のキリスト教の都市、新しい帝国の首都、コンスタンチノポリスが、ボスフォロス海峡の地に建設された。
マルチノの父は北イタリアのパヴィアから同地方の守備に転任したローマ軍の司令官だった。マルチノは幼いころローマに遊学し、教会を訪れてその教えに深く感動し、さっそく求道者となった。しかし未信者の父は息子の信心を喜ばず、わずか十五歳でローマ騎兵隊に入隊させ、フランスに駐留を命じた。さいわいローマ軍にはキリスト信者が多くいたので、マルチノは軍務のかたわら教理研究を続けることができた。このころのことだった。三三八年のある寒い冬の日、マルチノが馬に乗ってアミアノ郊外に出たところ、一人の乞食がうずくまって吹雪にこごえているのを見た。情け深いマルチノもあいにくこの日は何も持ち合わせがなかった。とっさの思いつきでマントを脱ぐと軍刀で真っ二つに切り裂き、その半分を乞食に与えた。ところがその夜、例のマントの切れはしをまとったイエズスが天使たちにかこまれてマルチノの夢に現われ、「マルチノよ、おまえがマントを切って着せたのは、私だったのだよ」と仰せられたという。
十八歳の時、マルチノは受洗の恵みを受けたので、退役を決心した。辞表を出したのが偶然にも今のドイツ領ヴォルムスのヴァンダル人を攻撃する前夜だったので、上官から、「マルチノ、そんなに明日の戦争がこわいのか、神に仕えるなんて、ていのいい逃げ口上だろう。ひきょう者!」と言われた。カッとなったマルチノは、「ひきょう者とは何事です。それでは明日、十字架を身につけ、真っ先に敵中めがけて突撃します」と答えた。
翌日、彼は甲冑もつけず、武器も手にせず、ただ十字架だけを唯一の身の守りとして敵陣に斬り込んで行った。いわゆる体当たりの特攻である。しかし敵は、軍使を出して講和を申し込んできたので、マルチノの自爆は、まぬがれた。
マルチノは退官すると、ラインランドにあるローマ帝国の前線基地であるトレベスに赴いた。そこでマキシミヌス司教の下に身をおいて、修業に励んだ。それから修業仲間と共に、当時、聖ペトロ、聖パウロや他の多数の殉教者の聖地として有名になっていたローマに巡礼した。ローマで同じくボアトゥから巡礼に来ていた司教を通して、当時、すでにその聖徳と学殖で聖人として尊敬されていたボアトゥの人、聖ヒラリオに初めて会った。
ローマへの旅は三四七年と三五〇年の間に行なわれたものと思われる。五年の後、マルチノはパンノニアの両親の所に、聖職者として身を立てる許可をもらうために赴いた。その途上にあたる辺りは、たぴ重なるヴァンダル人との戦闘で、野盗が横行し、安全な所とてはなかった。果たして彼は盗族の一団に襲われたが奇跡的に助かった。また、その旅行中、絶えず悪魔がつきまとい、しつりこくその意志をひるがえさせようとあらゆる誘惑が試みられたと言われている。家について両親を説得した結果、母を改宗させることはできたが、父はついにローマ帝国軍人としてその異教の教えを捨てることを承知しなかった。
当時、教会はアリウス派の異端との戦いに非常な苦しみをなめていた。すでに三二三年に、コンスタンチヌスによってニケアの公会議が召集され、聖子キリストの神性を否定するアリウス派の異端は決定されていたが、大帝の後継者コンスタンチヌス二世のカトリック教徒迫害のすき間に、アリウス派は力を盛り返し、正統派のリーダーである聖ヒラリオは東方に難を避けた。というよりは、シリアやエジプトにいる修道士たちの協力を得て、アリウス派と闘うためであった。いっぽうマルチノは当時、西欧の政治的中心地の一つとなっていたミラノに移り、修道院の創設に力を傾けていた。そして、ヒラリオと三六〇年にポァチエールで再会した時には、その修道院は、西欧のキリスト教の歴史中、革命的といってもいいほど重要な役割を果たす活動を始めていた。しかし、それはまだ東方の修道院活動に比べれば、範囲も広くなく力も弱かった。
ライン河の畔り、ポァチエールに立てこもって、マルチノは日ごろの構想による修道院創設の計画をめぐらしていた。すでに、彼の徳を慕う多くの弟子たちをもっていたマルチノは、西欧で最初のリグジェ修道院を建てた。それは修道士が一人ずつ、それぞれの修行の場所として小さな小屋に住み、その小屋の群れが一つの聖堂を囲むという形式のものである。そして修道士たちは、ミサの時に一堂に集まり、共通の霊的修練を行なうのである。初めのうちは規則がなく相互の模範とするものもなく、それぞれ修道士は直接、修道院長の教示を受けて、祈りと黙想、労働、そして異教徒の農民を教化することに献身した。まもなくマルチノは、友人聖ヒラリオによって司祭に叙楷された。
マルチノの聖徳と名声は日に日に人びとの間に広まっていった。その時、ツールの司教が亡くなり、市民たちは、徳望の高いマルチノをその後継者にと切望した。謙遜な彼は固く辞退した。ところがある日、ツールにいるある病気の婦人を見舞ったところが、市民たちが彼をとり囲んで有無を言わさず市中のカテドラルに連れて行き、そこに近在の司教も来ていて、いやおうなしに司教の位につけてしまった。それは三七一年の七月のことであった。
マルチノは五十四歳で司教にはなったが、緋の衣の代わりに、いつも黒い修道服を身につけ、広い司教館に住む代わりに、大聖堂の近くの小屋に寝起きした。また司教と言えば非常に権力があり、多くは総督や知事、市長などと並んで政治にも参与するのが常であったが、マルチノはそれを嫌って、祈りと黙想、そして住民の教化に没頭した。しかし静かに黙想にふけることは許されなかった。連日のように市民たちが彼の所にいろんな問題をもってつめかけてくるのである。
マルチノは新しい修道院をロアール河畔マルムチェの小高い丘の上に建て、八十人にも上る修道士たちをそこに住まわせた。この修道院こそ「大修道院」の始まりである。マルチノがこの大修道院のために定めた祈りと、労働と、学修の規則は、後年、聖ベネディクトが修道会を創立した時に会憲の手本としたものである。この大修道院には、普通教育機関としての学校と、神学校が併設され、少年も入学を許され、幾多の有為な人材を輩出して、キリスト教文化の向上と、布教の発展に尽くした功績は、はかり知れないものがあった。
マルチノは、司教としての仕事と、大修道院院長としての務めのほかに、宣教者としても信じられないくらい驚異的な活動をしている。暇をみては教区内ばかりでなく、遠くに旅した。その足跡を一つ一つ明らかにすることは不可能に近いが、今日のフランスの全土にわたっていることから、その活動範囲がいかに広範であったかが推測できるのである。
ツールの近くに、バルトロマイと呼ばれる所があり、そこに、人びとが殉教者のものと信じている墓があった。いろいろなふしぎなことがあって、地方の人びとを惑わせ、迷信の根源となっていた。マルチノはその正体を明らかにするために、熱心に祈った結果、恐ろしい妖怪の幻を見、殉教者でもなんでもないことが分かった。そこで、墓の上の祭壇をとり払い、亡霊の降伏を祈った結果、ついにいっさいのたたりは後を断った。その墓には死刑になった悪人が葬ってあったのである。
また、オートゥヌに、廃虚になっている異教徒の寺があった。そこに樹齢何百年という巨大な松の木があって、神木として近隣の人から集められ、また、その木にさわるとたたりがあると恐れられていた。マルチノはその木が正しい信仰の障害となっていることを認めて、切り倒すことを命じた。人びとは、どういう恐ろしいことが起こるかと心配したが、何ごともなく、マルチノは、その松の木で大きな十字架を作りてそこに立てた。 マルチノの行なった奇跡の話も数多く伝わっている。
その奇跡は聖主イエズス・キリストが、パレスチナでその公生活の初期になされたものによく似ている。たとえば、パリでらい病患者をの抱撫によつて即座に治した話、シャルトルで□の不自由な娘の唇に聖香油を塗って口がきけるようにした話、また、同じシャルトルでちょうど聖主がナイムでなさったように、亡くなったひとり息子をよみがえらせ、その老母の手に返してあげた話など。
当時ヨーロッパは、蛮民たちの大移動で各地に動乱があり、国の君主もたびたび変わり、政情は安定しなかったが、三八三年グッテンからマキシムが侵入してきて、ガリアを征服したことから教会内に一つの事件が起こった。マキシムはトレベスをガリアの首都としてそこに居を定めたが、トレベスの司教にイタクスというものを任命した。正当な司教はプレシリアンであったが、イタクスは巧妙な弁舌をもって侵略者の心をつかみ、その地位を獲得した。プレシリアンはボリドウの宗教裁判所に提訴して、自分の立場を明らかにしようとし、イタクスは新しい皇帝にプレシリアンとその一派の逮捕を要求した。
そのような状態の時に、マルチノはトレベスにやってきた。そして、マキシムに会った。マルチノは、人びとの恐れるこの侵略者に向かって、最初の挨拶として「あなたは、無道な侵略者だ」と決めつけた。そして皇帝と食卓を共にした時、皇帝から差し出された酒杯にちょっと唇をふれただけで宮廷の習慣どおりに皇帝に返さず、隣の司祭に渡すことによって教会の権威を主張した。その権威に満ちた様子を見て、さすがの暴君も恐れを感じた。たぷんエリヤの再来と思ったことであろう。この会見の結果、事件解決の結論は出さなかったが、皇帝はプレシリアンに対して血なまぐさい処置はとらない、とマルチノに約束した。しかし、マルチノがツールに帰ると、イタクスは、マルチノはマニ教徒でプレシリアンは魔法使いだと皇帝を説きふせ、裁判の結果、正当な司教は支持者六人と共に処刑されてしまった。
マルチノは、この処刑の不正に杭議するために、ふたたぴトレベスにやって来た。ところがちょうどそのころスペインでキリスト教徒の大迫害が起こった知らせを聞いたので、余計なトラブルを起こすことを心配して、マルチノはイタクスを許すことにした。イタクスはその非道を改めることがなかったので、後に教皇シリキウスから破門されたが、マルチノはこの悪司教と、心ならずと言いながらも妥協したことを深く後悔した。
青年時代から寸時の休息もない激しい使徒的活動と、修道者としての厳しい苦行生活の連続にもかかわらず、マルチノは八十二歳の満齢に達した。そして、ある日、カンドの町に最後の旅に出た。そこはヴィエンヌ河とロアール河とが合流する地点であるが、その地方の司祭たちの間に起こったある論争を仲裁することが旅行の目的であった。無事、仲直りを成立させたあとで、さすがにこの頑強で偉大な司教も、その身体からすべての力の抜けていくのを感じた。旺盛な宣教の精神はなお燃えさかっていたが、その肉体は力尽きた感じであった。聖マルチノは天なる神に、完全な従順を示す最後の祈りを献げた。
「主よ、私は、あなたのために長い戦いを続けてまいりました」老いたるキリストの兵士は、声を上げて祈った。「もし、あなたがお望みならば、さらにこの戦いを続けることをお望みならば、どんな労苦もいといはしません。けれども、もし、私のこの弱った身を哀れに思召して、私に休息を与えてくださってもよいとお考えでございましたら、ああ、主よ、私の魂を召してみもとに憩わせていただきとうございます」。
願いは聞き入れられた。祈り終わると同時に静かに眠るように彼は息をひきとった。マルチノの霊魂は大勢の天使に支えられ、妙なる楽の音に包まれて天上に昇っていった。その死の知らせは、たちまち全フランスに伝えられ、その遺体はさっそく駆けつけたツールの市民や聖職者にまもられながら、ロアール河を下って、ツールのカテドラルの基地に手厚く埋葬された。その墓所は今日でも有名な巡礼地の一つになっている。
欧米人の名前や教会、学校、病院、修道院にもマルチン、マルタン、マルチノというように、この聖人の名前をつけたものが多い。


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