「教会の聖人たち(上)」(中央出版社、\4,500)P274-279より/聖マチルダ皇后

三月十四日

聖マチルダ皇后

今から千年前、ドイツのサクソニア地方(今のウエストファーレン州)は、山林、原野、沼地の多い未開地であった。サクソニア人はフランク国王シャルルと長い間戦った。サクソニア侯爵ビテキンドは、シャルルを殺そうと思い、夜の闇にまぎれて、シャルル王の陣内にしのびこんだ。それはちょうど、ご降誕祭の夜中のミサ中で、王とその将兵たちが敬けんにひざまずいて祈っているところであった。伝説によると、ビテキンドは聖体奉挙の時、祭壇上に幼子イエズスを見たとある。それでキリスト教を奉ずるようになり仇敵であったシャルル王を抱擁し、長い戦争に終止符を打った。
この侯爵と、もとデンマークの王女ラインヒルヂスとの間にマチルダといぅ娘が生まれた。当時は修道院に子供をあずけて、教育させるのが上流社会の習慣であった。それでマチルダも五歳の時、叔母が院長をしているヘルフォルド修道院にあずけられた。そして修道女たちの手本にならい、信心深く育ち、一般教養科目はもちろん、家事、労働を学び、奉仕の精神を身につけた。その後、サクソニア侯ハインリッヒと結婚し、三男二女をあげた.ハインリッヒは大へん聡明な方で高い志をいだき、人びとの幸福を常に図り、領内をよく統治し、九一二年ドイツ皇帝に選挙され、マチルダもわずか二十歳で大国の皇后となった。しかし少しもおごりたかぶったところなく、むかし修院で生活した時のように謙遜で従順で、信心業に励み、その地位をよくわきまえ、王を助けて人民の利益のことのみを配慮し、徳を守って毎日貧しい人びとに施し、悲しむ者を慰め、債務のために獄舎につながれたものを救うなど彼女の徳は輝き、人民はこの聖なる皇后を、慈母のごとく慕していた。国王も彼女をし敬い、国事を共に相談し、人民を神の子女と見なして、その幸福と救霊に尽力した。こうした平和な楽しい月日は長く続かず、王は部下の将兵を率いて戦争に幾度も出陣せねばならず、皇后は留守中国内をよく治め良人や息子を祖国のため戦線に送った家族に心を配ったり、貪しい者には、特に優しい母としてふるまった。
拙費が重なる時など高価な衣生や宝石を一惜し気もなく手放し、夜半に起きては、人知れず囲のため祈り明かした。
なお、マチルダ皇后は、修道院が社会や文化に大いに役立つことを思い、王と共に、修道院を幾つも建て、そのうちの一つクエドリンブルグ修道院の墓地を、自分たちの永眠の場とした。
ここに二十五年の月日は流れ、王は大病にかかられ、皇后の手厚い看護も効なく逝去した。信心深い王は何事も神のみ摂理と安んじ、臨終の床にマチルダを呼び、「わが宝、わが希望! おん身とわが子らを全能なる神のみ手にゆだね奉る」と言って、皇后に深く感謝しながら永眠した。皇后は亡き王のため、その場で長いことひざまずいて祈られ、神を賛実し、ミサ聖祭を司祭に願われ、ミサが終わると王子王女らをひつぎの前に集めてさとした。
「そなたたちの父の権威はいかに大きく、天下にその命令が行なわれていたことを知っているでしょう。しかし、国王の生死も人民の生死も神のみ前では異なりません。いつかはみな一度死んで、神のみ前で審判を受けます。高位の者、女人、富者のさばきは一段と厳しいものですから、そなたたちも邪念を払い私欲に勝ち、慎んで天命を全うし、死後の栄福を受けるよう心がけなさい」と。
ハインリッヒ王の訃が報知されると、ドイツでは国を挙げて選挙が始まり、ここに長子オットー派と次子のハインリッヒ派と二つの党派が争った。
ハインリッヒは亡き王が即位されてから生まれた王子であり、また容姿が優雅で武勇に優れていたからであった。父王の死の悲しみも浅いのに、弟は兄に反抗し内乱を起こした。彼ら二人というより、彼らを推す党派争いといったほうがよい。弟ハインリッヒはついに敗北した。彼の母マチルダは、どんなに彼らのために泣き悲しみ、心正しながら祈ったことであろう。その祖父ビテキンドがキリスト教に帰依するお恵みに浴した降誕祭の夜と同じようにハインリッヒもクリスマスの美しいミサ中に謙虚な心になり、兄王オットーに和解を乞い、人びとの前で兄弟は相互いに抱き、涙を流しつつ許しあった。のちに、兄は弟にババリア王国を与えた。
その頃母マチルダ皇后は、別段に隠遁され、神に仕えて徳をみがき、祈り、苦行、断食に励み、余暇を見つけては貧しい哀れな人びとに施したり慰めたり親切の限りを尽くされた。彼女の徳行をねたんだある人が、国庫を母君が空費していると、新王にことば巧みにざん言したので、これを軽々しく信じこみ、母を疑い、調査し、その財産を没収し、母に修道院に行くよう命じ、弟ハインリッヒと共に母君に無礼冷遇した。しかし彼女はこの無情をよく耐え忍び、ある人が同情のあまり兄弟のことを非難すると、「私の慰め頼りとなる子供たちは私から去りました。しかしどうかあの子たちの悪口を言わないでください。すべては神様がご存じです」と、ついに宮殿をあとに静かな地におもむき、祈りと苦行の隠れた生活に入った。
親不幸をなせば、天罰は目に見えるほどで、まもなく内外に乱が起こり、国は大いに荒れ、人民は苦しみ、新国王は大病にかかり、次々と禍いが起こった。平和の天使とも言われる新王妃エディットが夫オットーにやさしく相談したので、彼の心には深い母のの記憶がよびさまされ、急に母が恋しく思われ、「なつかしい母上が帰還されるまで痛悔児にはなんの喜びも楽しみもございません」と手紙とともに迎えをよこした。母マチルダの喜びはどんなだったろう。オットーは妻を連れて出迎えたが、母の姿を見ると走りより、母にすがって許しを乞うた。披女も涙を流しながら母のをこめて息子に平和の接吻を与えた。兄王のことを聞いたハインリッヒも後悔して母に許しを乞いにやってきた。彼が口を開く前に母は彼を抱きしめて、「神様に感謝いたしましょう。みんなを和睦せしめたもうた神を賛美しましょう」と、やさしく言った。そして息子たちにかわって、その不幸の赦罪のため、祈り、苦行を献げた。
その後彼らは母を助けて聖堂、修院を創立し、また慈善病院建築、人民の霊肉の救済など多方面に力をそそいだ。九五五年、マチルダ皇后がクエドリンブルグ修道院に滞在中、ババリア侯であった息子ハインリッヒの死去を開くと、修道女たちに祈ってもらい、亡き夫と息子の冥福を願う目的で、ノルドハウゼンに女子修道院を建てた。
オットーは、その時代の混乱したイタリアに三度遠征しイタリア王を兼ね教皇を助けて保護し、九六二年教皇からローマ皇帝の王冠を受け、ここに神聖ローマ帝国が成立した。オツトー大王(第一世)のことを聞いた母マチルダは、すぐ神に感謝を献げたが、息子が将来教会に対してあまりに剣の力で干渉するのではないかと恐れ、帰国を勧めた。オットーも母の忠告に従ってさっそく帰還し、ドイツ国内をよく治め、英明な王の名声は後世までひぴくようになった。
聖皇后マチルダは九六八年六十余歳で神に召される日まで、幾多の困難苦境の中で、皇后として妻として母として、その使命をりっぱに果たした。そして帰天の時まで修道女のように祈り、苦行、断食に励み、早朝ミサに参列すると終日、貧しきものの母となり病人の看護婦として力を尽くした。


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