前略、聖マチルダ皇后様 (第14通目) 199110201426始めは20ページ近くありましたこの手紙も、よく読むと、無駄な部分や、既にお送りしてある部分が結構あり、それらを整理して、十数ページになりました。
Sさん! またもや私は驚愕の事実(の可能性)を発見できました!!
[中略]私も全く同じ「しるし」が同じ箇所に同じようにあるのです。そして、また、驚いたことに、12月30日(月)の8CHの19:00〜22:00の、「笑っていいとも!年忘れ特大号」で、1991年3月13日(水)OAの吉川晃司さんの所を見てましたら、彼も同じ場所にあり「ここに何かある人は芸能界で成功する」という話があることをおっしゃってました。吉川晃司さんは「芸術」的な人だなとはずっと思ってました。彼のLDの「VOICE OF MOON」[このタイトルは映画監督フェデリコ・フェリーニの90年の作品のタイトルと同じ]も持ってます。ちなみに、ニューヨークの女スパイというテーマに引かれて高岡早紀さんのLD「S'wonderful!」も買いました。[中略]「しるし」に関するエドガー・ケイシーのリーディングのコピーを同封しておきます(中央アート出版社、「エジプト超古代への挑戦」より)。アトランティス陥没後の世界についてケイシーのリーディングに基づき、概説してみますと(括弧の中は、リーディングの番号です)、神官ラータ(エドガー・ケイシー自身の過去世)がエジプトに定住の地を定め(281-41、紀元前1万500年頃)、身体が人間、頭が馬と言うように、身体に様々な付属物を持つ人々が、エジプトに入ってきた(5748-6、281-44)。「美しの宮」が建築され、その中で、一種の政府により、婚姻関係が規定され(249-149)、神の宮としての「人体」が追求され(294-148)、形成されてきました(275-43)。今日、宗教と呼ばれるものの中に見られるよりはるかに篤い礼拝の対象となっていたのが肉体だった(294-148)そうです。神官ラータが人々に目指したのは、青い目を持つ白人タイプの体でした(1100-26、2390-7)。ちょっと気になる感覚があります。上記の「肉体が篤い礼拝の対象であった」という感覚です。ジャネット・ジャクソンのLD「janet jackson」の「love will never do (without you)」を見てますと、当時の感覚が自分の中にあることが分かります。ジャネット・ジャクソンも当時のフィーリングを感じているのだと思います。さて、この本の123ページからは、同封のコピーを参照して下さい。
神官ラータは『外見も行動の仕方も能力もけた外れな人間であった(294-147)』そうです。さて、コピーの124ページの問い1に対する回答(1100-26)で示されている箇所は[中略]吉川晃司氏と私が持っているものと同じ場所です。[中略]私のは知らぬ間に出来たものです。神官ラータの「しるし」かもしれません。[中略]これが「しるし」かどうかは、ポール・ソロモン氏にリーディングをとってもらえば、はっきりするのでしょうが、私の記憶では、彼のリーディングをとってもらうのには24万円かかります。エドガー・ケイシーのリーディングでは、紀元前1万500年の頃に神官ラータが活動していました。活動の途中、肉体を復活させたりと、かなり長寿だったように思われます。[中略]ラータは「自分に関係した人々がお互いを知ることが出来るよう・・・地上界での生涯を通じて残り続けるしるしを体に入れるよう、布告を出した」とあります。1000年前のドイツで兄妹として生まれた理由は、神官ラータ(エドガーケイシーの過去世)と同じ時代に生きた、遠く10500年前の頃まで遡れるのかも知れません。紀元前105世紀です。それから約9500年後(95世紀後)にドイツにも生まれ合わせたことになります。この発見に関しては、これ以上確定的なことが言えません。残念ですが、次へ進みます。
これは私の発見ですが、人間が霊的な存在であることを証明できます。完全な円とか三角形を誰しも思い描き、理解することが出来ます。しかし、「完全な」ものは地上にはないのです。人間が霊的な世界で生きているから人間が思い描くものは常に完全なものです。神への郷愁です。そして、思い描いたものを神様のようになりたくて、神様の真似をして創造するのです。人類は皆、唯一全能の神のもとに兄弟であり、姉妹であると言う感覚を持つことは霊的には健全なことです。地上的には危険なことでさえあります。それが地上でも現実のものになれば良いのですが、物質との関わりに於て、今の人類では難しいかもね。数学とか幾何学とか、誰もが共通に理解できるというのは不思議だと思います。皆、同じ源から来ているからで、霊的には一つなのです。更に、ルドルフ・シュタイナー(シュタイナー教育で有名)によれば、『動物の自我(魂)は、種族で1つだけ』なのだそうです。人間は1個体に1人ですが、動物は1種族で1つなのだそうです。
以下は私の空想です。大修館書店の「ギリシア神話」(コピー同封)に基づきます。昔、ギリシアの東北のThrace(トラキア)地方に人類最初の詩人で、天才音楽家、オルペウスが住んでいました。(少なくとも、紀元前7世紀より前)オルペウスは蛇にかまれて死んでしまった妻、エウリュディケを取り戻しに、死後の世界まで降りて行き、妻を返してもらいましたが「地上に帰るまでは決して妻を見てはいけない」という冥王との約束を地上に達する直前に破ってしまい、妻は2度と会えない人となりました。それからオルペウスはエウリュディケ以外の女性に全く興味を示さなかったため、ディオニソス教の信女たちによって八つ裂きにされてしまいました。首だけになっても歌い続けるオルペウスの首はレスボス島へ漂着し、以来、レスボス島からは沢山の歌の天才が輩出しました。アーリオンもその一人です。それまでの間にオルペウスは冥府に下った話を周りの人に話して聞かせ、人々に死後の生命への希望を与えました。これを「オルフェウス教」と言います。ルドルフ・シュタイナーの言葉だと、オルフェウス教の教理は死後の生命だということです。私も人間が生まれ変わることを主張しております。しかし、私は単独行動を好みます。私の霊名が「オリハル」であることと関係があるのかも。もしかしたら、オリハルである私はオルフェウスなのではないかなどと一人で考えております。
また、6月17日(月)朝に私の頭の中で「オルドリッヒ大王!」と言われたのです。「聞こえる」体験は時々あります。これは何の事なのかまだ判明してません。私は歴史に詳しくないので、本を色々と調べないと分かりません。また、私が芸能界の方と縁があったのは、芸術のオルフェウスだったからなのかとか思っています。しかし、類似性があると言っても、やはり、これ以上確定的な事が言えません。言えませんが、不思議ですね。このような物語を読むだけでこう言っても良ければ、「当時」のフィーリングがフワーッと感じられるのです。こういうことはSさんもよくあることだと思います。なるほどザ・ワールドに出られたときに、最初の席を決めるときのSさんの直感が正しかったりしたからです。
歌番組は必ず録画して全てチェックしています。日曜日の「歌謡びんびんハウス」「ミュージックフェア」「夜にありがとう」「演歌の花道」(時々)、火曜日の「歌謡リクエストショー」、水曜日の「スーパーステージ」、木曜日の「パンティーパーティー」「愉快にオンステージ」、金曜日の「ミュージックパフェ」(サウンドパーティー)「M.ステーション」「G−STAGE」、土曜日の「Video Jam」(たまに)「クイズ!タモリの音楽は世界だ」とかは必ずチェックしています。最近(12月上旬から)は、中継の番組を直接に見ないようにしています。余計な干渉はいけないと思うからです。録画して後で見ています。でも、直接には見たり見なかったりしてました。その結果、多分、私からの触れ合いを期待されていた方を無視することとなってしまいました。これは、私がはっきりと取り決めなかったためかも知れません。その経緯を無駄にしないためにも、今後はSさんが出演されない中継番組は、直接に見ないことにし、これを守ります。この約束はまた、司会者の方の心理的な負担を軽くすると思います。逆に、Sさんの出演される中継番組は必ず見ており、全員の方に触れ合います。何故こんな取り決めをするのかと言いますと、電車の中や町の中とは違い、皆さん、私の事を知っているので、やたらに関われないからです。今まで、M.ステーションや、特にG−STAGEで時々、関わりを持ちましたが、やたらに関わるような事はやめます。「やたらに」と言っても、私が関わってきた場合は、常に理由があり、促しや、正当な動機、緊急の理由があるのです。今のところ、Sさんの出演される中継番組だけとします。明菜さんは、FNS歌謡祭の様子では、あまり関わりを持たないでほしい様子のように思いましたが、以後、明菜さんが中継番組に出演されたときには、その番組を見てはいます。明菜さんには触れ合うつもりですが。こんなに制限するのは、あまり多くの方が私個人に熱狂的になると困るからです。私一人で全員の時間に、すべて対応することは不可能となります。しかし、少なくともSさんが出演されている番組の方には全員に触れ合いますので。人が求めているのは実は神なのです。ですので、本当に求めている方は、私ではなく、神に直接つながってほしいと思っています。私は、神を求める多くの人のためを想って、スブドについて書きます。私の入っているスブド同胞会でオープン(開魂)を受ければ、神の力とつながります。まず、浄化作用から始まって、次第に(人によりますが)霊的な体験をするようになります。「スブド同胞会」のセンターの住所は、〒213 神奈川県川崎市宮前区鷺沼1−9−22(TEL:044-855-4824)です。本当に求めている方は上記の住所まで問い合わせの手紙を下さい。私ともう一人の新人の2人が会員部ですので、安心して下さい[今は二人とも違う]。この2人が対応するからです。入会金はゼロです。献金は「完全自由献金制」です。一銭も払わないで、いつまでいてもいいし、毎月100万円献金してもいいのです。完全に本人の自由意志です。「教義」はありません。「神の力」という事実だけが人間を導きます。本人はただ全てを委ねることだけです。神は強制しないからです。浄化過程がスムーズに進むためには人間の方は、一切何も関わらないで神に任せることが大切です。
去年、冬に、オーランドからの放送で、ニューヨークで撮影したSさんの、「Pearl-White Eve」はとてもいい雰囲気をたたえていましたね。きれいでした。今、アルバム「Precious Moment」を聞いています。私はあなたへの忠誠心を持っています。私はあなたを完璧に信じることが出来ます。10月25日(金)の頃から、Sさんからの私へのやさしい気持ちをずっと感じています。来年春のコンサートでは、神のお許しがあれば、きらきら星をSさんにお伝えします。
12月27日(金)のM.ステーションでは、私は思わぬ事実に直面しました。荻野目さんとは何かあったのですか。もしかしたら、荻野目さんだけに手紙(第2通目)を送ってSさんにお送りしなかったのがいけなかったのですか。私のあなたへの忠誠は変わりません。大丈夫です。この時、私は、Sさんの御歌の途中で、干渉することになるのを恐れて途中で引き下がってしまいました。再び御歌の最後に同調が戻りました。大変に失礼しました。意図したものではないのです。でも、このことすら既に決まっていたようです。Sさんの御歌の紹介の時に「待った」が入って、すぐに回復したからです。[中略]でも、Sさんは正確にキャッチされていることがテレビを見てて分かります。その全く同じ瞬間に私も同じように感じているからです。逆に、最後に皆で歌われましたが、途中、Sさんに、次のような誰かからの怒りの想念がのしかかったのを私もキャッチしました。Sさんは、肩のあたりを手で払っていました。Sさんの誠意を感じました。それは言葉に翻訳しますと「そんな"おっさん"のどこがいいんだ」と言ってたようです。こういう印象からすると、これは男性のようです。私は分かっていますからSさんは、こういう否定的な想念には、テレビでなるべく「答えない」ほうが良いのではないでしょうか。
この手紙(第14通目)で、第2オクターブが完了します。1年で14通ということは約1ヶ月弱で1通というペースでした。この位が私のマイペースです。全体として「よし、完成だ」と感じられるようになるまで文章をいじくりまわしておりますので、1ヶ月位かかります。私は早さよりも確実さを取る人なんです。今後は、明菜さんにもレターをお送りしますので、ペースが落ちることもあらかじめ御報告しておきます。よっぽど特別な事情がない限り、中止することはありえません。
私は告白しなければいけません。私は荻野目さんへの第2通目の手紙で今度、中継番組でお送りしますと約束しましたので、12月27日(金)のM.ステーションの2日後、29日(日)に荻野目さんが8CHの16:00〜17:30にカラオケパーティーの生番組があったので、この時に関わりました。しかし、Sさんに秘密にしてるようで、すみませんでした。「Sさんと同時に出演してる人に関わること」はお知らせしていても、だからといって、ある特定の人に手紙を出すという連絡を差し上げてなかったことは私もちょっと気に掛かっていました。以後、気を付けます。また、生島さんが12月27日(金)のM.ステーションが終わる直前に言われた言葉に勇気づけられて、告白しますが、私は、工藤静香さんにも特に関わりました。1988年4月6日の夜ヒットに彼女も出演してたからで、また、彼女はねじれているように見えたからです。ところが、私自身驚いたことに、彼女のデビュー曲は「禁断のテレパシー」だったのです。12月27日(金)のG−STAGEでも関わりました。彼女が二科展に2年連続で入選したのは、彼女自身の才能を神が祝福してくれたのだと思います。私もつい傲慢な考えが頭をよぎったりしますが、区別をしないといけませんね。入選されたのは、神の御意志であって、私ではありません。私は単なる弱い人間で、神の駒の一つです。10月2日(土)の12:00には青山のスパイラルホールで工藤静香さんの個展を見てきました。絵はがきは「For you」「ニューヨークの夜景」「ニューヨークの夜景U」「未知」「エコー」を買いました。このあと、表参道から半蔵門線に乗ったまま、二子玉川園へ行き、玉川高島屋のおもちゃ屋で、さわるとぴよぴよ鳴く、めじろのおもちゃを買いました。1階の案内の人に「今日はMSさんは来てますか」と聞いたら「分からない」ということでした。恥ずかしかった。1988年4月6日(水)の「夜のヒットスタジオDX」の時に出演されていた方は皆、Sさんと私との共通の縁を持っているのでしょうか。
[中略]
私を通じて兄弟[姉妹]達が喜んでくれているのがテレビを見てて分かる時は、私はそれを利己的に、あるいは自虐的に受け取らないようなバランスポイントを見つけています(マリア・ワルトルタの著作の中で学びました)。つまり、それを見てうぬぼれないように、また、自虐的にならないようにするには「神の概念」を持ち出してバランス[調和]を取ります。彼、あるいは彼女の美を見ながら私は次のように思っています。「ほら、神様、この人は私にこんなにきれいな花を持ってきてくれたんですよ」と神様に紹介しているのです。こんなことを書くと、「君は神を知っているのかい」と聞かれそうです。ごもっともですが、一方、神は全ての段階、全ての理解の中に存在するということも真実です。これも「想念の使い方」のテクニックの一つです。人間は神に至るように造られているからです。そして、神は「在りて在る者」です。人間がバランス[調和]を取るためには「神の概念」は欠かせません。その1.自分の思い通りにしたい気持ちと、人の意見を入れなければならないこととをバランス[調和]させるには、神の御意志に従えば良いのです。その2.人に奉仕するのと自分に奉仕するのは、どちらも欠かせません。それらをバランス[調和]させるためには、自他を越えて「神」に奉仕すれば良いのです。このように、「神」という唯一絶対の概念を以て「想念を整える」のです。「想念」も道具です。「神の概念」と書きましたが、自分自身は神とつながっています。この場合、これは「概念」などではありません。神がどんなに深いかは「愛の力」を通して宇宙を見れば、誰でも感じることが出来ると思います。しかし、しかし、こんな「教え」とか「テクニック」などは不要となるほどの時代となっています。神の力と直接につながり、自然と日常生活の中でその人なりのものが与えられて行くのです。それが最高の道です。危険の全くない、自然な道です。
今日、11月5日(火)15:30の頃、自然に楽しい気分でSさんの「秘密の花園」が頭の中に湧いていることに気づきました。
11月8日(金)のG−STAGEで、WINKが歌われていたのを見ていたとき、「なによ、えっらそうに!」と言われてしまいましたので、私は「す、すいません!」と謝りました。
でも、郷ひろみさんのハリウッド映画の事は驚きですね。郷さんはもしかして本当にオットー大帝だったのでしょうか。
堺正章さんが最初に「東京騎士伝」という松竹映画に出られた事から推理すると、私はSさんの騎士だったことがあるのでしょうか。騎士→スパイ(ダース)→359(孫悟空) Sさんは高校卒業の頃まで、福岡県久留米市におりました。私は荻窪→東久留米市(203)→小平市→所沢市(359)です。「二十三夜」という歌を再認識しました。これは「兄さん」です。また、堺正章さんのお父さんが「月光」に関する映画[旗本退屈男]に出演されていたのですね[額に逆半月の刀傷を持った男が主人公]。
私は自分の頭脳と感情の微妙な動きを制御しながら生活しています。このような制御(微妙なバランス[調和]をとること)は人間に課せられた義務ですね。常に常にいついかなる時も自分の想念をメンテナンスし続けなければ快適に生きることが出来ません。天の愛の法則に同調し続けるべきなのです。その天の方針を地上において実現するために肉体が力を提供します。常に努力し続けるところに「美」が生まれます。コンタクティーだったジョージ・アダムスキーも言ってます。宇宙人も絶えず自分の想念をメンテナンスしており、彼らもたまに間違いをおかす時もあると。
栄光あるザクセン伯ディートリッヒの息子と娘であった私達。正義を曲げることのない真実。愛に基づく、内面を重んずる素朴で厳格なザクセン。イエズス様に感謝致しましょう。「主の祈り」は当時も行なわれていたはずです。(以上は、私の感覚に基づいて、想像で書きました)
天にまします我らの父よ
願わくは、御名のとうとまれんことを
御国の来らんことを
御旨の天に行なわるるごとく、地にも行なわれんことを
我らの日用のかてを、今日我らに与え給え
我らが人に許す如く、我らの罪を許し給え
我らを試みに引き給わざれ
我らを悪より救い給え。アーメン
私はパソコン通信を最近始めました。PC-VANとNIFTY-SERVEに入っています。PC-VANのユーザーIDはBLE35054で、NIFTY-SERVEはGDB00064です。面白いのは、PC-VANのユーザーIDが359ということです。そして、こじつければNIFTY-SERVEの方は23です。Sさんはパソコン通信はどうでしょうか。
私はNECのパソコンPC-9801VX21を持ってます。いつも一太郎でタイプしています。プリンターはNM-9950Uです。
12月1日(日)22:30〜23:00迄、TBSでの「ト・キ・メ・キ旅物語」を見ました。もしかして、Sさんは、以前、私がニューヨークにいたことから、あの番組を作って下さったのですか。本当にありがとう。ロングアイランドの風景で、ちょっと何か感じれました。Sさんが行った不動産屋(Alice F. Mason, Ltd.)は635で、Sさんがパーティーに行った所は529ですね。また、1つ加わり、久我屋、菅谷、ゴヤ、スガ美容室になりました。私は、1960年に新宿に生まれましたが、1960年は、東京とニューヨークが姉妹都市になった年なんだそうですね。
Sさんのアルバム「BIBLE」買いました。歌詞カードの中にSさんの御顔のアップの写真があり、私はSさんと対面できます。でも、本当はSさんと会って遠い記憶に触れてみたかった。12月10日(火)のFNS歌謡祭ではSさんが「きっと、いつか逢える」を歌われているとき、356の日に思いだした、あなたとの出会いの時の遥かな記憶をあなたに伝達しましたが、どうでしたか。何かの「記憶の復活」のような感覚を、歌われているときに感じられたと思います。どうでしたか。歌い終わられる頃です。現実に会うことさえ出来たなら、直接に伝達させていただいて、もっとあなた自身にその感覚を吟味してもらえるのですが。
356について発見! 始めてSさんと関わることになりましたのは、1988年4月6日(水)でした。また、私が始めて明菜さんに関わることになったのは、1991年4月3日(水)「夜ヒット青春時代編」ででした。残る5は私なのだと思います。確かに私の周りには「5」が沢山あります。以前、お知らせしました通りです。Sさんに相当する「9」は「35教」や「53K」や「(白雪姫の開始ページ)35頁に9行」等々から分かるように変化自在です。9はひっくり返って、6になり、6日に思い出したのだと思います。聖マチルダ皇后は、西暦909年に結婚されました。23年間幸せに暮らしました。ここで、気づいたことがあります。「35教」も、「53K」も、「35ページに9行」も、良く見てみますと「対」になっているのは3(明菜さん)と5(私)です。9(Sさん)は、他の文字に変わっていたりして、隠れています。すると、「53話で、144ページ」と言うのが白雪姫にありましたが、対になるのは明菜さんと私で、Sさんはそれをバックアップするかのように関係している、と分析しました。霊的な世界では、Sさんは隠れて働く立場なのかも知れないと思いました。事実として、現実問題としてこのような事を言うことの出来る栄光を私に与えて下さった神の御前で宣言したいのは、事実、1つの神話が3人(359)を通じて世界へ放たれたのです。私が、バブル崩壊になるまで出向していたアジア・コンピューターの電話番号が「3を加えた356は世々にいい」(03-3356-4421)であることから、「3人」にしました。この神話が事実であったと言うことを世々に残したいですね。ミロクの先駆けとしての栄光を体験していると思われる私達3人は、たとえそうでなかったとしても、とてつもない栄光(卍)を身に受け、とても進化したはずです。
Sさんの「BIBLE」の歌詞カードのSさんのP18と19の御写真を見つめながら、「やあ、久しぶりだね。まさか1000年後にこんな風に再会するなんて! 本当になつかしいね」という感じで一人で思っていますと「当時」のフィーリングの断片が、瞬間的に何度も何度も閃きました。
[中略]
竹内まりやさん作詞作曲、牧瀬里穂さん[福岡出身]の「Miracle Love」には全く驚きました。こんなに驚いたのは、荻野目洋子さんの「I Know You」以来です。「こうしてたどりついたのは奇跡」と「めぐりめぐって愛し合う奇跡」というところがすごいと思います。もう言葉に尽くせない程の量と質になってきました。感謝の思いを天にあずけます。安全地帯の「太陽」というCDは笑ってしまいました。ほとんど毎日笑ってます。1月2日(木)の「ヤマモリ音楽ステーション」を全部見ました。安全地帯の玉置浩二さんが「俺はどこか狂っているのかもしれない」と、「SEK'K'EN=GO」を歌われましたが、これを笑いころげないではいられません。JIS配列のキーボード上で、'K'をぬかして「SEKEN」のカナ文字部分を読みますと、「問いの意味」となりますね。
Sさんが「きっと、また逢える・・・」と「赤いスイートピー」を歌われました。Sさん作詞、作曲の「きっと、また逢える・・・」で、Sさんからの具体的なメッセージを受け取ることが出来ました。ああ、マティルデ! この私が分かりませんか。QUEDLINBURGのSCHLOßの上で、あなたと再会したときには、赤いスイートピーも咲いていたのかな。
ノルドハウゼン修道院の事務所の住所が判明しましたので、お送りします。以前お送りしました「聖マチルダ皇后の資料」の「その他の資料」の中に入れました住所録と、差替えをお願いします。
ドイツの資料の中にあったと思いますが、QUEDLINBURGのSCHLOßの近くに、「ハインリヒ1世が王冠を授かった場所」の名前が「Finkenherd」(フィンケンヘアット)として今に伝わっております。現在、そこには民家があります(一応、コピーを同封しました)。誰が王冠を授けたのでしょうか。いや、まったく、客観的に言ってるつもりなのですが、私だったのではないでしょうか。おおいにあり得ると思います。
再度、ここに明記して、宣言しますが、私は何一つ嘘をついてません。自分の体験も実に客観的なはずです。ちょっとした言葉は、誤解されるところがあるかも知れませんが。例えば「近くにいました」とか「きらきら星」とかいう表現です。これは、微妙な言葉です。必ずしも嘘ではないのですが、地上的な言葉の使い方を基準にしたとき、それには当てはまらないのです。物質的観点からは嘘に近くなってしまいます。つまり、物質的、肉体的リアルはないのです。しかしまた、嘘ではないのです。私は、オーラが見えたとか、声がハッキリと聞こえたという体験はめったにありません。あることはありますが。すべて、感覚的に理解したものです。感覚的には、Sさんと同じで、色々なことをよく感じることが出来ます。「きらきら星」という言葉は突然ひらめいたもので、この、与えられた言葉を安心して使うことが出来る、感覚的なバックがありました。今の所、視覚中枢や、聴覚中枢などの肉体的器官を訓練するつもりはありません。そこまで具体化するつもりはまだありません。というのは、神は私にはそういう能力を授けてはいないからです。また、私の性格としては、私自身の人間的な陶冶、すなわち、幸せの実現へと向かうのです。一人の人間が幸せになることは、人類が幸せに近づくことです。人が幸せになることで、その周囲も引き上げられるのです。「自分」だとか「人のため」だとかは関係ありません。自他の区別無しにこれは神の御意志です。だから、人が幸せになろうとすることは全くの神の御意志であり、正当なことです。しかし、「本当の自分」と「神の道具としての自分」を混同して幸せになるべき自分を取り違えると、一時的な幸せとなったりします。それをとやかく言う人には「あなたは何を肯定するために、そんなに否定ばかりするのですか」と質問したい。この言葉は、日本を圧迫している「否定文化」(幻)をひっくり返すはずです。なぜなら、どんな人間も「肯定」しかしてないからです。「否定形の幻表現」を越えて人間の真意=「肯定する本心」をいつも見ることです。愛に忠実に生きて行くことで、大量の卍がその人に流れ込むようになります。
[中略]
今、1月10日(金)スタートの「大人の選択」が楽しみです。
1992年1月11日(月) 08:50 〒359 埼玉県所沢市[中略] 菅谷明夫 目次に戻る.pl?jms14