社会的な認知を自覚せずに最終目的のようになっている性格の人は部分的に生きていると思う。テーマに捕らわれ過ぎ。そういう部分的な人たちの発想は方程式に従って、次のようになって行くと思います。「上っ面(嘘的側面)だけじゃ物足りない」「真剣さや本気(真的側面)を見せろ」と。テーマが「認知される」ことなので、その為に「表で」嘘を付き、「裏で」友人を囲い込んだり。女性の世界だと、「なによ、化粧して嘘付いて」「もっと醜く振舞いなさい」と。何故か醜い=真実だという条件付けをして飼い慣らそうとしている。【この種の発想に自ら(?)従って、わざと自身を貶めている芸能人に「そんなことないのに」「自然にしたらぁ」と言いたい気がしますが、具体名は例として挙げるのは気軽杉るかも知れないので止めときます(200902260023)】

・社会的認知がテーマの人→「嘘・表」と「真実・裏」という強固な分離意識が発生
・社会的認知を脱却している人→常にありのままの真実。常に真実の姿なので、その意味で子供のようであるのは自然の摂理。

 (社会的認知に)捕らわれている人々は、彼らの精神構造がテーマとして持っているものを離れて「思う・考える」ことができないか、非常に難しい。(社会的認知を)脱却している人は、捕らわれ人の言う「裏=真実」の表現をするニーズの発想が(基本的に)湧かない。ただ単に自然体。社会性に性をあえて混ぜ(過ぎ)ることもしない。また、何か表現をする時に「(基本的に)本気に見せよう」ともしない。何故なら、嘘をついていないから。疑われたらそのまんま法治。あるいは「相手の為に」本当なのだと念を押すだけのことはするかもね。上記の分離意識が方程式に従って生じているだけのものである点に多分、人々は気付いておらず、単に情緒的に無自覚に反応していると思われるので、述べてみました。何故なら、社会認知方程式に従って生きる人は、不幸で苦痛な事を奨励しがちだと思われるから。(200902250120)



 世の名声とか知名度というの、単に外的な現象であり、それにドップリと浸かってしまう人もいれば、空しさを感じる人もいると思います。どちらも本人にとって必要なことでしょうね。知名度があるのに空しさを感じる人はそれらが本質的な事ではないと気づいているのでしょうね。死ぬまで知名度に溺れて気づかない人も沢山いる中で若くして気づいた人ですね。精神的・内的な事柄に取り組むことで空しさを取り除こうとしているのかも知れませんね。

 しかし、世の大多数は、まるで本能のように社会的な認知や知名度を高める為に「しか」、ものを考えられなくなっているよね。外的認知や立場を「得た」としても、それは死後も持ってゆくものではないし。では、真に自分の死後も「身につく」ことは何でしょうか。それは外的な社会現象ではないと思う。つまり、自分の為に何かを得ようとすると失うもんですね。こちらの過程は表面的な意味では楽な道(またはあまり考えてない道)ですよね。

 それは、やはり、金銭を得なかったとしても、人の為に何を為したかというような内的な態度であると思います。それは自分の一部として持ち越してゆくものだと思います。つまり、人や社会や神などの為に行おうとすると、結局、自分が豊かに(あるいはある意味で空しく)なるもんですね。こちらの過程は表面的な意味では苦な道(または熟慮された道)ですよね。(200407180031)

 7/31(月)のテレビ朝日の「ビートたけしのTVタックル」という番組で最近の「自己中」の傾向の人々が多い事を挙げていました。その特徴が、「自分に気持ちいい事だけをする」という例を挙げてました。例えば、女子高生でも、(携帯電話で)自分の言いたい事だけ言ってから、何も聞かずに通話を切ってしまうとか、それを確か「ブッチギリ」とか言ってるみたいです。なるほど、多分、この傾向の拡大は下記の主張にも責任の一端があるのだろうと思います。また、従来の「評価希求型の意識」の行き詰まり(=もう、評価なんていいや、という思い)もあって、自然に出てきた部分もあると思います。この現象の問題は、「人の利己性(肉体性)」ですね。では、人は、自分の獣的な利己性をどのように解決すればいいのでしょうか。

 下記の主張以前の人々の意識の主流であった「評価を得たい」という傾向も、利己性が出てくると「成績を上げて、評価を得る為なら人を蹴落とす」という表面的な形・結果だけを目指す傾向として出てきたと思います。「形・結果だけの評価(手っ取り早い)」ですね。一方、「中身・理由の評価(つまり、自己による自己への評価)」も目指す人は、形・結果だけではなく、その中身もちゃんと整えて、評価も得るということになっていたと思います。

 下記の主張以後の人々の意識に加わった「感覚を良くしたい」という傾向は、ここに利己性が出てくると「自己中」と呼ばれる行動になって来ると思います。この傾向は支配者層から見ると、「扱い難い」ということになりますが、良い面を見れば、「社会を(良く)改革する力」ともなります。今の日本人の傾向を見ると、まだまだ馴れ合い(政治)みたいな、しがらみ行動みたいな意識から「抜け出せない」でいるので、政治の改革なども、どんどん遅れて行くのだろうと予想します。しかし、「自己中」人間が、その傾向を「良く」使うようになれば、「周囲が反対しても、正義を貫く」等の、「良い傾向」の性格を実現できます。それが「良い」という意味は、その発想の根本は「基本原則」であって、「しがらみ・つきあい等」に拠って立つような発想をしていない事です。これに拠って立つような発想以外に何も出来ないというのは自由ではないと思います。「良い自己中」ならば、そのような発想からは自由であり、かつ、「考慮する事も全く可能」なのであることは原理的に明らかです。多分、自己中が問題視され始めたのは、その自己中の当事者の発想の中に「反社会(=利己性至上主義)」という二元対立的な発想しか存在してないからではないかと思います。人は、自分の死後の生命について理解することで、自分の霊性への関心が生じるのです。そして、実際に、霊性というものが存在するために、自己中という性質を「良い方向で使おう」という発想へと進化します。自己中という行為は、一種の「しがらみを抜け出した自己確認」のような、「行」のような一時的なものだろうと思います。自己中という時期によって、「自分は周囲の評価から自由に振舞えるぞ」と確認できた人々は、その霊性の進化(これは、自然に起こって来るものです)によって、自然と「社会と調和」して行くことと思います。多分、これからしばらくしてからそのような「自由な人々」が何かを世界にもたらすだろうと予想します。(200008010648)
自己中の発生原因の考察 (200611211922)

以下で意図した第一の事は、エネルギー効率を上げるという事です。その欲求に「突き動かされたり」、そのことを中心に頭が「ループしたり」等のエネルギーの損失を少なくする意図があります。そして、人生の時間を通勤時間は仕方ないとして、もっと有効に使って頂きたいと思ったからです。

例えば、あなたの友人にVさんがいたとします(日本人で考えにくい名前にしました)。Vさんはてっきり友達だとばかり思っていたのですが、実はVさんはあなたの見えない所であなたの悪口を言いふらしていました。あなたの「社会的評価」に、在りもしない泥が塗られてしまいました。ここで普通は、恐ろしい火花が散る訳です(^_^;)。これは、架空の設定ですが、ここであなたが怒るのは正当です。なぜなら、Vさんは嫉妬に駆られて嘘をついてまで友達のあなたを裏切ったからです。

で、ここにはどのような認識があるのでしょうか。「社会的評価」は、誰もが欲しい宝ものです。それは確かにそうなのですが、冷静に認識の目を向けてみましょう。よく見ると「誰もが社会的評価を目指している」事が観察されると思います。A子さんもB美さんもC夫さんもD男さんも皆、求めています。そして、「誰もが心の内では、そのような気持ちを持っている」と、口にはあまり出しませんが、そういう認識を持っています。ところが、この認識が「一面的で危険」なのです。この認識が偏っているために、極端な火花を散らすことになるのです。

では、どのような認識が良いのでしょうか。それは「誰もが社会的評価を得る事による感覚的な快を求めているのである」という“考え方”なのです。この“考え方”で、見てみましょう。まず、「世界中の誰もが“実は”感覚的なものしか求めていないのだ」という認識方法を追加することです。あなたの認識方法に、この認識を追加するのです。A社の社長も、沢山儲かる事によって、感覚的に良好になりたいのです。真の目的は彼の内面です。あるいは、B会長は、たとえ一時的に苦しくとも、後で楽な感覚を得たいから、今を苦しんだりしているのです。真の目的は彼の内面です。部長のC氏がキツイ事を言うのは、部署の業績を獲得する事で、立場が好転して快なる感覚になりたいからです。真の目的は彼の内面です。一見、外的評価そのものが目的のように見えますが、真の目的は彼・彼女の内面です。このようなものの見方は「誰でも評価されたいのだ」という外的で「一面的」な物の見方に一石を投じます。実は「誰でも評価による快楽を得たいからだ」となるのです。人を見る時、内面性への理解が加わるのです。

 では、この“考え方”で、上の出来事を見てみましょう。Vさんがあなたの陰口を知らず知らずの内に言いふらしていました。それを知った時にあなたはどのようにこれを考えるでしょうか? 旧来の考え方では「Vさんは友達だと思っていたのに、私は大変な“損失”を与えられてしまった。名誉毀損で訴えちゃおうかな」とか(^_^;)になります。でも、新しい認識で行きますと「Vさんは、まだまだ社会的状況という外的な事によって自分を規定されてしまう人だし、それが人生の全てになってしまっている人だから、彼女自身の快となるように陰口を言いふらして感覚的な満足が得たかったのだ」と見るようになります。この認識の中には、中心(快という感覚)であるものがちゃんと中心に収まった見方になります。ところが旧来の考え方では、中心に「社会的評価」が収まってしまっているために、「人からの評価」を得るために、いつもいつもいつもいつも努力して、好かれ、認められるようにしていないと不安になります。誰かが「うん」と頷かないと不安です。だから、若い人は、「いつもいつも評価を得るためにとことん努力する」という行動パターンになって来るのです。実際には社長も誰も皆、人間です。そんなに余裕のある人はいませんでしょう。評価してても、心の中ではあれやこれやで大変です。そんなにあなただけに構っている余裕が無い事のほうが多いかも。つまり、「人からの評価」というものは、幻に近い性質があります。人は誰でも自分の事で手いっぱいだから、「ある時には評価してても、翌日には忘れている」こともあるでしょう。このような評価はからは遠いでしょう。それから離脱できている精神状態を追及するほうが遥かに賢明です。ただ、「」は別です。「社会的評価」の中にも勿論、が沢山あります。だから、多くの社会的評価を得たときには、それを大いに喜んで迎え入れて、楽しい一時を過ごすのが賢明です。それは決して否定してはいけない事は勿論です。大いに喜びましょう。ただ、「社会的評価から段々と自由になって行く」事を目指せば、人生からもっともっと多くの事を学べると思いますよ。

「人が目指しているのは“評価”ではなく“感覚”」なのです。













































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