人は高次元からのの力によって内的に、そして外部社会環境から外的に影響を受けていますね。ある意味で半々ですね。今まで私は社会勉強もあって社会環境を良好にする意図とともに、色々関わって発言していましたが、ちょっと行き過ぎの傾向もあるのかも知れません。また、個人的に変化する時期なのかも知れません。やはり、内的に進むことのほうが普遍的であり、大切なように思います。外部環境の良好化・進化ばかりを要求してゆくと、これは私だけかも知れませんが、壁にばかりぶち当たりますね。というか、当然なのかも知れませんが。ただ個人的にはこの意味は、最早、外部の改造・進化へのみちが、(私にとっては)途絶えたというか、そういうこと?(^^; いや、必ずしも途絶えてはいないのでしょうが、そのような認識が私の内に芽生えたということは、私個人にとっての変化する時であるという意味かも。
 諸外国の人々の場合、社会変革とかその種の側面についての関心が非常に高いですね。ところが日本人の場合は、むしろ、内面的な満足があればいいや、という感じで、特に社会・政治についての関心が低いという民族性があるのかも。やはり、王仁三郎師が述べていたように、日本は霊の元つ国なのでしょう。
 以上、とても大雑把な感想です(^^;。(200306180032)

 生き神の正味は激しい(神示より)]に、社会問題を神に委ねる方針転換についてタイプしました。(200209120019)

 以下は、NIFTY-Serveのほうで登録した発言をここに登録するものです。(199804080322)

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 人は先ず「自分の問題」を解決すべきである。社会問題や深刻な問題が発生するのは、それに関わることが必要な人がいるからであると思う。そのような事件に対して「自分の問題」として関わる事になった人が、正しい関わりかたをしていると思う。

 「自分の問題」から逃げるために、もっと深刻に見える社会的な大きな問題をクローズアップして「もっと大事な事がある」と逃げるのは、変だと思う。そのような社会問題は先ず、当事者や「引き付けられる」人にとって意味があります。なぜなら、「自分の問題」と繋がっているから。

 基本的には、「自分の問題」に関わる事でしょう。それがフラクタルに全体の問題と繋がっているのでしょうから。ただ、何か事件が起こっている現場近くを「見て見ぬフリ」で通り過ぎるのは、「現場にいるという自分の問題」すら避けるようになっているという傾向が伺えますね(この部分は、勿論、色々と問題の性質や、自分の状況によりますでしょう)。人がもっと「自分の問題」に目を向けて、自分に関わるあらゆる異常をチェックして解決しようとすることでしょうね。

「社会問題がメイン」なのではなくて、「自分がメイン」です。
社会に価値を持とうとするより、自分という価値に従って問題解決です。
そうなれば、世界は面白くなります。
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