株式会社 大陸書房「光の黙示録」1988.12.21初版発行、\1,800
 ↑四隅の地球のような部分の色は茶色ではなく、金色です。↑(200502080021)
株式会社 大陸書房「光の黙示録」1988.12.21初版発行、\1,800



 1995.12.03に、シュメールさんという方が某フォーラム内で明恵上人についての情報を載せてくれました。このアーティクルが、可能性の一つとして挙げられるものだと思います。結果として教えてもらえたので、良かったと思います。転載の許可をシュメールさんに確認しておりませんので、問題ありましたら(^^;お知らせ頂けるとありがたいと思います。(200203122339)

  秀逸なアニメ「Xenosaga」でも表現してくれたみたい。(200511112114)


- FARION  MES(10):夢鏡/幻紀行 ★ 夢解釈/カスタネダ研 95/12/04 -
01031/01033 MHA01114  シュメ−ル       RE:「夢を生きる」
(10)   95/12/03 12:40  01023へのコメント

おっと。始めましてのシュメ−ルです。
オフ以降、スウさんとの縁が浮上してました。やっとこさ10番をながしよみして
たどりついたたら、明恵ですか。まいったな。明恵って和歌山出身だったんだ。1
5年くらい前に明恵にのめり込んでいた時期があって、河合さんの本も当時読んで
ました。ちょい本だなを探しましたが、見付からない。ま、必要があれば出てくる
でしょう。
 妄想の世界になりますが、ここは専夢もありみたいなんで、書いてみます。明恵
って私はどうも他人に思えない節があって、私が属している記憶系列のなかに明恵
も属している気がしてます。現実の血縁関係においては、明恵が昔修行してた寺
(神護寺?だっけか。記憶不確か)の責任者(?かなりいい加減な表現)に文覚上
人がいるんですが、彼が脂ぎった坊主だったんで寺の増改築をしょっちゅうやって
て、勉強好きの明恵はうるさくて仕方がなかったらしい。その文覚といま私が属し
ている血族とは因縁が深くって、ま、彼との縁で京都あたりから岩手まで移動する
ことになったみたい。(因みに、先日のオフに遅れていった訳がたまたま仕事の宴
会で同席した方がうちのご先祖さんがむかし居た場所に勤めている人だったもんで、
つい話し込んでしまったいう事情もあった。)で、まったく縁が無いわけではない
見たい。
 さて、明恵ですが、彼はある意味ではここに相応しい人だ。明恵関連で、私が一
番感動したのは、明恵春日明神とのチャネリング場面。『明恵上人神現伝記(別
名『春日明神神託宣記』)』という古文書に載ってます。(高山寺資料叢書第1冊
 明恵上人資料第1  東京大学出版会 で読めます。漢文と漢文読み下だしにな
っているので、読みやすい。スウさんにエールのつもりで蛇足しちゃうとこの本も
カスボンです。)バクテイヨーガでしたっけか、信仰を通じての解脱志向のある人
にはお勧めの本。明恵が釈迦に近付こうと、インドへの旅を決意したときに、春日
明神がわざわざ巫女を通じて明恵に日本に止まるよう、説得する。そのやり取りが
実に泣ける。(あるいは私だけかもしれない)
 ちょい読み替えしてみると、春日さん、弥勒に言及してたんだっけ。明恵が春日
明神をどうおまつりすればいいのか尋ねたのに対して、春日明神は丁重に自身への
信仰の不要と弥勒菩薩へのまつりを提示している。明恵はそれを受け。そして弥勒
を中央にして、春日明神と住吉明神を両脇におかせてほしい、と応じている。この
やり取りもいいですね。因みに、私のへやにも弥勒菩薩の半伽思惟の写真が張って
ある。弥勒プロジェクトはどう展開するんだろうか。今回弥勒は覚醒するんだろう
か。最近イメージが掴めてきたんですが、ここの時空の未来って誰もわかんないみ
たいだ。未来も過去も流動的。ちょいと跨げば、明恵が生きている。ここで明恵を
復興させた影響は明恵にも及ぶはず。今頃(いつごろだろ?)明恵さんスウさんの
夢を見てるかもしれないよ。
 さて、メールネタっぽくなりますが、なんかスウさんとの縁には明恵も絡んでる
可能性が出てきますね。800年前。オフが11月24日。スウさんが明恵の本買った
のはいつですか。

01032/01033 MHA01114  シュメ−ル       明恵と春日明神
(10)   95/12/04 00:33

 以下、『明恵上人神現伝記』の主要部分を訳してみます。9割方は原文表現
のままです。



明恵は釈迦への思い断ちがたく、インド行きを決意する。
建仁3年、正月26日牛の刻に、一人の女房あり。橘氏新しきむしろを乞い出
させて、鴨居の上にうちかけると、たちまちにその上に登りて告げて曰く、
「我は春日明神なり。御房(*明恵のこと)西天の修業をおもいたちしめたま
う。この事をとどめたてまつらむがために降れるなり」と言い終りて去りたま
いぬ。(託宣をうけた人はその前7日間一口の食事もなし。しかれどもあえて
気力を整えず常のごとし。心に不善をいとい、潔斎精進して仏前に詣で、礼仏
読経のほか他事なし)
その後實否わきまえがたきによりて、上人自ら善財五十五の善知識の御前にし
てその嘘実を知らむことを祈請す。同行等はまた不断の華厳経の輪読をし、も
し實に春日大明神のご託宣ならば、かさねて霊告をたれたまうべし。もし天魔
悪鬼の障難ならば必ず眼前の治討をくわえたまえ。すると開白の始めに壇上の
中央に燈光があらわれた。そのご、同29日の酉の刻、また御降託あり。その
形普通にあらず。面「?」奇異にして世間にならいなし。その色精白にして水
精のごとし。内外すきとおりて水精の中の糸筋をみるがごとし。いちいちの起
居動転の威儀、大人の相あり。顧視するに面をめぐらせず、挙身ことごとく動
す。出すところの言音哀雅なり。きくものことごとく涙にむせばずということ
なし。また遍身より不思議の異香をいたす。−中略− 威儀端正にしてその形
善神降臨の相を説く聖教の説相と符号せり。およそいちいちの威儀進止言葉の
およぶろところにあらず。端座して挙身動ぜず。その眼さらにましろかず。左
右の御手左右の膝のうえに仰て置けり。上人に対して告げて曰く。
「御房、知恵第一にして世間にならびなし。もし余人御房の知恵を判じて下品
とすとも、我と相対してこの翁が知り奉りたるほどにはだれかはしりそうろう
べき。御房も我は知恵第一なりとおおせられるべし。この翁が前にて少分の知
恵なんとおおせられることあるべからず。御房もし上代に御ましまさましかば、
賢聖向果の道をも証し、不思議の通力をも成就すべき人なり。御房の御過は末
代にぞくす。あえて御房の身にはあずけざるなり。しかれば我いとおしくおも
いまいらすること、一子を思うがごとし。わが哀愍したてまつるがごとく、三
世の諸仏またこの思いに同ずべし。しかるに、疎学の条、我きわめて痛み思う。
他事なく聖教に思いかけて、余事を雑することなかれ。我が思うところはこの
参見の間、今日の学問欠けて聖教に向かわいめざることをなお痛む。いわんや
余事をや。必ず我罷去なむ後、今日の学問そうろうべきなり。たとえ名聞利養
に住して学問せんと申すものなりとも、百千人をもいとわずとりおきてすすめ
たうべきなり。ただし、御寿命きわめて短命にに御ます。四十をなをあやうく
みえさせたまうなり。有縁衆生待ちもうけまいらせてそうろうなり。王城辺に
近く御ますべしをおぼしめしあわすることなり。 −中略− 我思うところは
今一二生も人間におきたてまつりて、人間の導師とせむおと思う。しかれば天
竺の御遊行は我きわめて歎思そうろうなり。たとい天竺へわたりたまうとも、
それも我等こそ守護してその大願をもたすけたてまつらんすることにてとそう
らえども、ただこの日本国に置きたてまつりてこの国の導師とせんと思う。御
房有縁の衆生いくらもまちもうけてそうらわば、彼に対して仏道修行のこと。
−中略−このゆえに我が真相をあらわして降れるなり。」
明恵上人申して曰く。
「今かたじけなく降臨をたれて、慇懃の教訓をうける、いちいちさらに違越あ
るべからず。ただし御形像を[?]したてまつりて還去ののち、御形見とあおぎ
たてまつり、また講演の本尊に懸けまいらせむと思いそうろうなり」
春日明神おおせいはく
「かえすがえすこのこと本意にそうろう。御懐ニモ御ヲロシヲモタフヘク候う。
ただし講演の本尊にはきわめて恐れおもいたまいそうろう。我等がごとき類は
三世諸仏に給仕したてまつるを勤めとするものにてそうろうなり。講演の本尊
にて中央に懸けられんことはあるべからざることなり。便なくそうろう。その
本尊には弥勒菩薩なんとにて御しますべく候う。」
明恵もうしていはく
「中央には弥勒菩薩等を懸けたてまつりてその左右に両明神の御形像を懸けた
てまつらんと思う。」
春日明神おおせいはく
「もっともしからるべく候う。中央にはかえすがえす便なく候うなり。」
−中略−
春日明神仰せ曰く
「御房釈迦如来の御事恋慕したてまつらしめたまうこと、実に哀れに尊く思い
奉り候う。我も釈迦如来の御事を思い奉るものなり。しかるにこの日本国には
御房の御志を友として心慰みてそうろうなり。御房も必ず我を釈尊の御形見と
おぼしめすべし。今は時刻久しくなり候いぬ。罷去なん。」
とて、左右の御手をもって上人を横抱きて御面を合わせて、いとおしくおもい
たてまつりそうろうなりとて、雙眼より涙を流したまう。「必ず必ずわが詞に
違越あるべからざるなりと幾度も仰せられたり。この時上人音を放ちて悲泣し
て曰く
「この夜今はいこうとそうろわじ。今暫く住せし給え」
また諸人この事を見るに、哀傷にたえずしてなきさけぶ。春日明神仰せいはく
「なにかは我が降れる故に諸人これほど泣きたまうべき。世末代になりて日も
漸くみじかく、衆生の信もうすくなり。良き人も皆失せぬ。これによりて仏法
悉く陵遲せり。このことをなげくべし。このことをなげくべし。」
とて御顔をうつぶせて雨の如くに涙をながしそうろう。凡哀傷たとうるかたな
し。諸人弥よ悲泣す。その後去りたまうところに、上人ほとんど失心のごとし。
そののち又降りたまえり。仰せ曰く 
「ここに候うぞ。ここに候うぞ。我罷去るところに悲泣哀傷の緒と耳にどどま
りて、ひきとどめらるるがことくして、まとのまえより又降れるなり。必ず、
春山の社に来らしめたまえ。待ちまいらせてこれほどにて見参をとぐべくそう
ろう。その御心えてそうろへし。」
上人申して曰く  
「我幼少の昔より慈父釈尊に捨てられたてまつりて、滅後数百年のこの辺地に
生まれて、在世の説法をも聞かず、西天處々の遺跡をも拝せず。悲しきかな。
かの諸経の序分をひらくごとに、いずれの生にか明恵房という名字経文に列り
て、親り四弁八音のみのりを聞く生あらむ。この歎き肝を摧き、この恨みはる
ることなし。またかの無量義経のなかに『我起樹王詣波羅奈鹿野薗中、爲阿若
拘隣等五人転四諦法輪時、亦説諸法本来空寂、代謝不住念々生滅等という文を
みるに、弥悲しく羨ましく覚えて年を積めり。何生にか慈父釈尊にまいりあい
て、我樹王より起きく起波羅奈鹿野薗等に趣て、明恵房がために四諦法輪を轉
すということを聞えき。この事を歎思て、たとえ在世の真容をこそ拝したてま
つらずといえども、遺跡西天にとどまれり。それを拝して滅後の恨みをやすむ
べしと思いて、雲遊を思い企てるところに、今大明神春山よりたちてここに御
降臨ありて、慇懃の御教訓を垂れたまえり。これをもって釈迦如来の御形見と
して昔の恨みをやすむべくそうろうなり。」
春日明神仰せ曰く
「必ず必ず釈尊の御形見と憑ましめたもうべくそうろう。云々」
上人申して曰く
「幼少の当初より、如来滅後に生まる悲しみ深しといえども、我等ことごとく
遺法の仏子なり。しかればかりに仏はにくしとおぼしめすとも、我は子と名
のらむと思いそうらいて、如来滅後の子となずけそうらうに、近年宝積経を
ひらくところに、『我之所子、謂諸善比丘、見仏所遊方、昔曾安止處、京行
宴坐地、若石及空閑、集巳咨嗟、為之數啼泣等』という文を見るに、歓喜の心
骨髄に徹して、この文をもてより我如来の授記をこうむれりとおもいて、心を
やすめそうろうなり。」
このときにあたりて春日明神の御面たちまちに哀れにおぼしめせる色外にあら
われて、上人の左右の手をとりあいて、右手をのべて頂をなでて告げて曰く
「その文は御房の事を説ける文なり云々」
仰せ曰く
「なおなお王城辺に居住せしめたまへ。また南京に居住あるべし。また必ず必
ず春山へ来らしめたまえし、待ちまいらせそうろうべきなり」
その後去りたまいぬ。 −後略−


   『高山寺資料叢書第一冊  明恵上人資料 第一  東京大学出版会 
    四 明恵上人神現伝記 一巻   上山勘太郎氏臓 』
   を出典として一部訳



 冷静沈着な明恵にもこれほどに強く深いと飢えがあった。知・ジュニア−
ナとして神を追及したかに見える明恵を支えていたのは、神を二人称として
するバクティの道であった。明恵はインドのラーマクリシュナに匹敵するバク
ティの人だった。これは中世ヨーロッパの神学者トマスアキナスとても同じ。
孤独の根にあるのも神への渇きである。

 春日の翁は元気だろうか………


01033/01033 MHA01114  シュメ−ル       明恵関連
(10)   95/12/04 01:38

カスタネダの勉強中、つづけて明恵関連で恐縮ですが、スウさんの読んだ本、
結局私はたち読みだったかもしれない。いま、シュタイナーの本を引っ張り出
そうとおもったら、明恵の本が出てきました。『明恵上人伝記』(講談社学術
文庫 平泉あきら 訳 )で、明恵について関心がある方はこれが便利でしょ
う。


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