「忍耐」という言葉のイメージは一面的であり、押さえつけるばかりのイメージであることに気付きました。忍耐という行為が必要な場面は沢山ありますが、そのイメージが一面的です。

 私たちはDNAが形成した肉体を持ち、当然、その自我意識の中(の動物的側面)には縄張り意識があります。この縄張り意識は拡大しようとするようです。それが拡大しようとすると、「自分だけの価値観の拡大欲求」や「異性関係で二股、三股をかける」とか「自己利益のみを考えて行動する」というような事になってきます。これは別に非難ではありません。1番目の事は自分の価値観が全体の価値観に合致するように考えていれば問題ないわけですし、2番目の事は、常々周囲に自分は結婚をしない人間だと周知徹底させていれば、やはり結婚しないつもりの異性と二股、三股となってもそんなに問題は無い(?)かもしれないわけだし、3番目だって、定められたルールに則った経済活動なら、それほどの問題はないと思います。こういった問題はDNAの「自己拡大欲求」にあると思われます。それで忍耐という概念が生まれるのでしょう。そのような社会的な意味合いにおいてだけ忍耐が理解されていると思います。

 で、社会的な側面だけではなく、個人的な霊的な発達の側面としての「忍耐」の捉えかたがあります。それは、「全宇宙は神(無私・無我)が支配している」という認識です。世界はうまく出来てるもので、特定のDNA(私人)が宇宙の支配者では「無い」のです。宇宙の支配者は「無我」なのです! ここで例えを出して考えて見ましょう。どこかの会社の職場で、成績が良くて、意見がよく通る社員がいたとします。すると、皆がなんとなくその人の存在を気にして、その人の言葉に従うかのような、一種の「隠然たる影響力」に気が付くと思います。その社員は自己のDNA拡大欲求を満たす境遇にあるので、比較的快適かも知れませんが、彼の存在によってDNAの拡大要求が不満傾向にある人も出てくると思います。ここでは「相手」と「自分」という「2つの自我」だけに目が向っているので見えてないものがあります。それは、「相手」と「自分」の間にある「無我」でした。そのオフィスでは、その社員がいわば支配者のような感すらありましたが、実は、「真の支配者=宇宙支配者」は「無私」だったのです。無私は、電車の中にも会社の中にも出向先のオフィスにも、工場にも至る所にあります。

 では、「無私」とは、体験的にどのようなものでしょうか? それについては、私たちは昔からそれを「無私」とは認識せずにいました。しかし、実際、無我の領域(自我を越えた領域)のものとして経験して来ているのです。それは例えば、夏の夜の静寂の中に感じていたり、あるいは、海辺に押し寄せる波音の中に無私の美しさを感じたり、美しい音楽の中に感じる「無私の法則・宇宙・美」のようなものとして感じたりして来たのである。音楽は、その中に「無私」を感じられるほど、そこには「法則」が感じられる為に、私たちの内奥の法則と呼応して美しいと感じるのである。(例:winkのOne Night In Heaven等) これが私たち「自我」と、「無私」との密かな出会いの場面なのである。このようにして縄張り的エゴを持つ私たちは、無私が全宇宙を「支配」していることを密かに知っているのである。故に、誰かが自分に対して悪念を集中しても、それを気にしたり、煩わしく思う事は今までよりグッと減る事でしょう。なぜなら、その念を集中してる人は支配者でも何でもないのですから。彼は自分が支配者になったような気になっているかも知れませんが、真の支配者は無私そのものだったのです。このことを忘れないでいることです。誰かがDNA的縄張りを主張し始めたら、それに自分が引き込まれない事ですね。そして「宇宙の真の支配者」が、その場をも「支配している」事を思い起こす事です。決して、彼が支配しているのではないのです。注意を向けるべき対象は「自分」「相手」に加えてその間に「無我」があるという話でした。

 このようにして「無我」に帰依する事は、とりもなおさず、自我を越える事につながり、「忍耐」と結果的に同じなのである。ただ、この場合、「自我を押さえつける」(否定的)忍耐ではなく、「無我を積極的に肯定する」意味での(肯定的)忍耐になります。

 ここで、副次的に、「忍耐の本来の範囲」が明確になると思います。「社会的忍耐」という従来の概念の中では、人は耐えて耐えて、むしろ自分を傷付ける程だと人に良く受け入れられると考えがちでした。しかし、これが行き過ぎであることは、ここで言う「霊的忍耐」で明らかになります。ここで言う霊的忍耐によってバランスが取れた認識をもって考えると、必ずしも自我をギューギュー押さえつける必要は無かったのです。むしろ積極的に、自分を越えた無我存在を肯定する態度によって、自我が不必要に考え過ぎたり、勘にさわったりしなくなると思います。多分、外から見たら、「なんだコイツ、無理して超然としちゃって」とか思うのかも知れませんが(^_^;)。結果的には、押さえつける従来の忍耐と同様の行動・結果となります。(199905070436)

 よく考えると、この、無私の認識が、結果的に忍耐になりますが、この状態そのものはもう忍耐というより、無私への「帰依」とか「全託」のような性質ですので、分類上は「忍耐」にするのは適当ではないでしょう。(199905090519)

類似の発言→[地球の心=心の主体](200204141523)


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