The Poem of the Man-God - five volumes
一の法則とは、「人の中心には愛がある。愛が主旋律である」というもの。人によってはそのようなことを人から言われるのを嫌がる人がいるかも知れないが、これは惑星マルデクが違反し、そのために崩壊した原因だと言われている。 少々、おとぎ話の中に入りますと、かの惑星の(多分)支配者達は、マインドが愛よりも上に立って、愛=根本エネルギーを使ったり利用していた。確かに一時的には「使ったり、利用したり」できると思う。しかし、それは神の偉大さ(=愛)の上に人間が土足で立つような態度でもあり得る。それが長期的には許されないというのが宇宙の神秘ですね。そのような考え方・捉え方・態度・スタンスが大きな問題なのである。人のマインドは勿論、愛の下にある。人の全機能、全能力は愛の下にある。なぜなら、人の本性は、(神から見たとして)器に過ぎないから。それが一の法則。だから、この一の法則に外れた(状況にある)人間は、人でなし(の道に片足を突っ込んでいるの)だ。もし、例えば恋愛などで「愛を“使う”」などという人がいたら、間違いなく、人の道を外している。人の道とは、「愛(の力)に“使われる(全詫する)”」ところにあるのだ。では、何故人は愛を「使う」などという即物的な態度になるのだろうか。それは、(マルデク崩壊やアトランティス崩壊神話とか)歴史を知らないし、あるいは、愛の深さとかいうことに想いが至らないのだろうと思う。もし人が人として経験を深めてきたのならば、当然、愛とは「自分の上にあるもの」であるし、「従うもの」であるし、潜在意識の中では絶えずそれは、礼拝し、跪拝し、憧憬する原則のような「人として正しい姿・スタンス」になっている筈です。
以前、私は何故か、ゼータ・レティクルだった時の記憶が復活しました。その時に思い出した2つの記憶の内の片方が「皆で集まって宗教的行為、礼拝行為のような事をしていた」というものでした。宇宙人が礼拝する対象も、勿論、神の力=愛である。彼らの社会が愛を礼拝するような規律・形式を取り入れているのは、一の法則を人類として忘れないように伝承して行くという決意、智恵が読み取れますね。人が人であり続けるための基本が「愛(の力)>マインド・頭脳」という位置関係を忘れない事だからです。礼拝という形式的「行為・気持ちの表現」=(組織の長の為ではなく、個人にとっての)宗教が必要とされるのは、偏に、この一の法則を忘れない為である。宗教というものは一般的に組織であり、組織は一般的にその長に利益を集中します。故に、その点からは宗教組織は必要とは言えない。しかし、「人類として一の法則を忘れまい」という「愛を大切にする決意」が個々人の発想となり、社会の法律となり主軸となって、組織的宗教が消えた後の人類にとって唯一の個人的宗教形式(例えば、愛の力を毎週日曜日に礼拝する為に教会に通う、等の形式)として子々孫々へと伝承されるようになって行けば、人々は決して自然を「破壊する為に破壊する」ようなことはしなくなるでしょうし、そもそも、そんな発想自体をしなくなる。また、日本人の官僚のように「若い人の純粋恋愛を官僚の自己都合物理優先で断ち切ったり禁止したり等」のような扱い方をしなくなる。ただ、性や自然界が人間のマインドによって、例えば即物的に扱われたりするような「一の法則に反するかのような相」が一時的に発生するのもやはり人間である限り“仕方がない”とも言えるものであり、ある程度、自然のほうもキャパシティがある。また、他の人も「一時的な相だ」と理解できる事も必要ではありましょう。だけど、とある大学の学生に配布されたようなグリーンカードのように、「そろそろハラスメントですよ」と提示されてしまう(超えてはいけない)一線もあるのであり、我々のマインドは、自然に許された範囲の内側で一の法則を忘れずにプロセスしなければならないのである。「常に愛に敗北する立場である一の法則」=「人としての立場」からすれば、ヤクザ使いの芸能人や、官僚や、ヤクザのように人の恋愛や結婚・性を、金銭的な物理的都合によって「別れさせ屋」とか「くっつけ屋」のように軽く扱うことをしてはいけないし、自然界に対しても同様である。動(植)物達の住処を物理的・自己都合によって奪ってはならないことは愛の故にすぐに分る事である。その点、最近のドバイで高層ビル群がどんどん建てられながらも、環境には細かく十分な配慮をした上で開発を進めている点は誉められる姿勢ですね。
よく「自分は生かされている事に気付いた」という人の気付きもここにある。マインドは人体のほんの一部、脳の機能としてもほんの一部であり、上辺を漂っている水草のようなもの。生かされている(愛には負けている)に過ぎない。
一の法則は「ひたすら(愛に、神に)負ける精神」という美しい精神を涵養します。これは、(思春期以降)ひたすら勝とうとするような人類集合意識に一つの極を形成し、バランスさせます。
昔から勝とうとする=負けまいとする余りに事件を起こしてしまう人が後を絶ちませんが、一の法則を明確な認識の対象として、教育にも取り入れたらどうでしょうか。つまり、「愛の故に動かされる」=「ひたすら(愛に、神に)負ける精神」のこと。児童虐待が発生するのも、親に「愛を礼拝するスタンス」がなく、身についていないのが理由でしょう。本当ならば、子供とは愛の象徴なのですから。
歴史上、愛を最も深く美しく体現・表現されていたのがイエズス・キリストだと思います。当ページのトップにあるマリア・ワルトルタの著作([推薦図書]にもあります)を読むことを当ホームページ「愛の奇蹟」から、(夏)休みの宿題として課します。(200806202216)
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