戦争終結への道

 人が自己の動物性に自覚的=人間的であれば戦争は起きないのです。人の精神(魂)が(7の区分に於ける)人間段階になれば戦争は起きない社会が実現します。そのために必要なのは(3の区分に於ける)力から離れる事です。筋はとても簡単です。以下に、このことを詳述します。

人間の基本的性質

 人は、自己探求をして行く存在である。エドガー・ケイシーのリーディングでも「カルマとは、自分に直面する事」と言ってます。人にした事は自分に返って来るというのは、自分自身に直面するという事ですね。ルドルフ・シュタイナーによれば、これは人間単独の性質という限定的なものではなく、宇宙の宗教なのだそうです。人は死後の生活の、再誕生の時点に近い、生れるまでの間の後半部分において、霊界に「人間理想像」が立っている事に気づくそうです。人間という存在は神々の宗教であり、人間と神々が追求するのは人間性だそうです【→阿修羅発言 ←「宇宙創成と人間原理 (日経サイアンス、2007年4月号)」(200705162118)】。「人間理想像」は永遠の時間の彼方に立っているそうです。このことは言い換えれば、全時間軸(第4次元)を越えた第5次元を示唆しているように思います。すなわち、(神々の)意図ですね(参照:次元と重力の話)。永遠の彼方にあるものはきっと、時間そのものに対する神々の意図そのものなのでしょう。その意図(人間理想)に人を近づける事が神々の宗教活動なのでしょう。

 このように、人が「自己や真実を探求する性質」は時代や文化や教養や経験や知識などに立脚したものというよりも、生れつきの性質です。この性質こそが戦争を回避する為の基礎なのです。この、「人間であるという性質」がその人自身の中に充分に開花しているならば、余計な観念や知識でその善良な本性(真実を守る性質、自己を見つめる性質)に反する行動を取る事は少なくなるでしょう。故に、教育はやはり大切な事です。「自己・真実(愛)を探求する性質」を充分に開花させ易いような教育をすることが大切です。詳しくは2031年、「獣」は出現する!?にありますが、戦争回避の智恵を666(黙示録の獣)が将来、本にすることによって彼はその初期の活動で世界から戦争・貧困をなくすそうです。それが元で、彼は全世界から信用されてしまうのです。それを回避するためにも時の流れに逆らう力によって、以上のような目的(獣の舞台を狭くする事、教育として、人の本性の開花の為、真実を探求する性質の為)を満たすような試みをするつもりです。

カバラの創造の光

 さて、カバラには「創造の光」という不思議な考えがあり、それは左のような中心点の1から外側へ3→7→12と展開しています。伝承されて来た智恵というものは、もうそれだけでは訳の分らない形骸になっています。ただ、ここで述べようとしていますのは、この形骸の中に含まれている智恵です。人が自己を認識する為の基本的・普遍的な物差しがあるのです。それが3と7と12です。それについて以下に簡単に提示してみようと思うのです。このような数の展開は、将来的にはカオスとかフラクタルとかの分野で数学的にも証明される日が来るのではないかと思います。

3の法則

 「愛と智恵と力」については戦時協力関連法案にも少し書きました。智恵(質)と力(量)は直交しており、その交点を愛が第3の軸として直交しています。愛は「上の世界」と繋がっています。エネルギーにはこのような3つの側面があります。エネルギーは力だけではないし、それを制御するための情報も伴っており、その奥には愛もあります。例えば、光は単にエネルギーなのではなく、それは直進するという性質・情報を持っています。そして、その「性質」は、更に上位の立場にある「愛」から制御する事ができそうです。つまり、「性質・情報」を「愛」によって制御し、曲進する光も有り得るかも知れません。

 人は色々なものと自己同一化して生きています。特に例として挙げなければならないのは、「力と一つになる人間の姿」です。しかし、世界はエネルギーが物質化した所ですから、このような側面(力=量という側面)が出てくるのはむしろ必然的です。しかし、人には力を離れて向かうべき方角があるのです。

 例えば、マフィアとか暴力団なども力と一つになった人々でしょう。しかし、「力と一つになる人間」は、このような集団だけではなく、日常的に色々な人が力と一つになって暴力化します。それは無自覚にそうなるのです。「自分が今、力と一つになっているという暗示によって力として振る舞っているのだ」と気づきはしません。なぜなら、そのように認識させる知識がありふれていないからでしょう。
 他には「金銭」もそうでしょう。金銭はこの世で巾を利かせる価値なので、それを動かす自分には力があることになり、その「力という側面」と一つになった暗示によっていつのまにか、その人も力として振る舞います。しかし、その判断が雑な時は、それによって動かされる大きな金額によって分断される周囲の世界は悲劇ですね。
 また、「権力」も同様です。権力の「力の側面と一つになって」気づかないで自己利益に向かうと、いつのまにかワイロ漬けになっちゃいます。これは良くない政治家をイメージしてタイプしたのですが、「権力」という点では他にも例が出ますよね。例えば、何等かの小さな組織、グループを取りしきっているヘッドの人が、その立場に「力」を感じて、それと一つになると、その立場を「利用」し始めます。自分の個人的利益へ走るのですね。
 「神」も同様ですね。神、神、と言う内に教祖が「力の側面」と一つになって気づかずにいると、いつのまにか宗教という「利益を当て込んだ群れ」が出来て、金銭トラブルになっています。そのようになってしまうのは、そもそもこの世のものでないものを、この世に見つけたと思ってしまうのが間違いですね。限定的でないものを、特定の教義や集団だけにあると思ってしまうからなのでしょう。そう思ってしまうのは、その教祖が無自覚に「常に利益を目指す」という無意識の傾向に気づかないままでいるから、それを満たすように行動するのですね。宝の山は植物的な「利益を求める自己」にとっては神なのでしょう。

 では、智恵(質)の側面はどうでしょうか。それは、この世や力に対する執着が平坦になり、かつ、肉体的にも力とは縁遠くなっている人達(ご老人)を見ると分ると思います。しかし、いわゆる若い人は(肉体的な)力を持ってますが、必ずしも力と一体化しなくていいのは明らかです。

 例えば、力(量)の発想だと「一刻も速く」という仕事のやり方になろうかと思いますが、それだとケアレスミスも多くなって行くのは必然です。結果として2000年問題と似たような問題が起こってきて、結局、手間が増えてしまいます。人間関係でも力で押し切るようなやり方をすると、その後の関係がまずくなり、結局、問題が増えるのと似ています。智恵(質)の発想だと、最初から「ゆっくりでもいいから確実な仕事を」という判断になろうかと思います。智恵の発想であれば、人間関係でも「力で押し切る→その後、何も無かったように振る舞う」みたいなバカなやり方は最初から、というか、そもそも発想しないでしょう。そこに「愛」があれば、一層、良いでしょう。
 ここで、人間関係に「力で押し切る方法」が向かないのは誰もが同意されると思います。しかし、世の中には力と一体化して力として振る舞う輩がどうしても出てきます。そのような人が多いと、場合によっては「戦争」となります。智恵から見ると、戦争などとは、バカなことをしていると思えるのですが、力と一つになったために憎悪、怒り、復讐に燃える大勢の人々が群れを作っているので、どうしようもありません。しかし、彼らが客観的に自己を見るならば、「力と一つになって、発想も感情も“力”に導かれている」事が分るでしょう。どちら側の人も多分、自分達は正しい事をしていると信じて正義に燃えているのだろうと思います。不正を嫌い、正義を愛する事は良い事です。シュタイナーによれば、それは霊的にも良い効果を生みます。シュタイナーによれば、「良い考えを心に抱くだけで天にも登るような気分になれるような能力、及び、不正を嫌悪する気持ちを持つ能力」は、大切であると述べています。ただ、同時に「寛容さ」も必要だと言ってますが。で、ここで言おうとしたのは、そういう傾向は人間として良い傾向なのですが、それが「具体的な対象」と結びつくと、そのXさんや、あるいはX国やX教に対する憎悪となってしまうのです。しかし、そのようにして力まかせの行動をしてしまうと、やがてカルマとして戻ってくるそうですから、その憎悪や復讐心は、具体的な対象との結びつきがなくなれば、良い人間性を促進させるものということになります。つまり、具体的な対象から離れていれば(そんな簡単じゃないですよね)、カルマも作らず、そして自己理解が進んで外面的にも人間性が向上し、認識は内面へと向かうという事ですね。ですから、不正そのものを憎むその次に、枝葉としてのXさんやX国やX教を憎むという順列が守られているならば、「良い」のです。これが逆転するとまずい訳です。だから単に「X教が憎い」と言う人が間違ってると判断するのは、まだ順列を知らない内の判断なので、軽率でしょう。

 神一厘の仕組とは、弥勒十字(設計者は神)を通して、人類に「愛・智恵・力」の3区分を気づかせるためだったのかも知れない。もしも気づく事ができれば、666の獣の活動として予定されている事を少しでも食い止める事が出来るだろうから。今回のこの文章はそのような意図による試みです。というのは、人の中に芽生える「憎悪」「復讐心」を解決するような人としての人類になれば、戦争は一層、起こりにくくなるからです。「復讐」というのは一見正当に見える(相手に原因がある)のは、悪を嫌うのは正しい感情の持ち方だからです。しかし、その傾向がいつのまにか具体的な対象と結びついてしまうことに常に注意する必要があるでしょう。具体的な対象は神が処罰して下さる事を期待しましょう。神の代りに自分が処罰してしまうのを畏れましょう。

 ちなみに、シュタイナーが「不正を嫌い、正義を喜ぶ性質」が霊的な成長にとって好ましいと述べたのは何か特殊な行法を示唆しているのではなく、実は、人生のごく普通の経験そのものが霊的な成長へ繋がっている、という点を明らかにし、示唆しているのです。しかし、霊的な発達にとって、通常に生活して喜んだり苦しんだりしているだけではあまり「効率」がよくないので、その効率をあげる為の認識ということが言えるかも知れません。シュタイナーの「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」(イザラ書房)など読まれると分ります。

 「憎悪」「復讐心」を解決するための第2の方法は、神を信じる人達に通りやすい考えかも知れません。というのは、例えばイスラムでは、「悪人は永遠の業火で責め苦を味わうのだ」という章句が随所にあり、絶対の神が復讐を達成してくれるからです。このような宇宙のシステムがあることで、人間は「具体的な対象」から「復讐心」を分離する事が出来るように思います。「具体的対象から離れた復讐心」は、人間として正しい「不正を嫌う(正義を喜ぶ)性質」ということになります。

7の法則

 さて、次の「自己理解の為の次のものさし」は、7です。すなわち、自分という人間存在に触れ合い、関わっている7つの力の認識理解です。スブドの創始者は、この7区分をシュタイナーの言うインテュイション認識によって、つまり肉体を離れて霊的に対象の中に入って体験されたのですが、これらは何も、そうしなければ理解できないものではないのです。宇宙はフラクタルになっているので、どのような次元でも理解できる幅の広いものです。そのような意味から、通常の認識しか持ち得ない私(たち)は、日常生活的な観点からのアプローチとしてタイプします。

物質(力:情報):言うまでもなく、この世界は物質で出来ているために、その単なる物質的性質が人間にぶつかって来る時に、人間性に対する暴力になって来ます。例えば、今の所、金銭である程度動く世の中ですが、そのような金銭に基づくやり方は力まかせのやり方であり、「赤ん坊がいるにも関わらずお金の為に働かなければならない」というような乱暴な状況の原因となります。突然の物と物がぶつかる音は、その物質性に対応する乱暴さを人の心に想起させます。

植物(力:情報):人間の中には、肉体を成長させ、維持・修復する働きがあります。精神的な作用の中では、「もっともっと自分の周囲から利益を得て成長しよう、もっと成長しよう、裕福になろう」という傾向として働きます。「利益」「利己主義」などと結びついた働きの元になってます(フラクタルな断定)。これも、自分の利益しか考えない点を見ると、人間的な性質に対して、乱暴ですね。また、利己主義が乱暴な側面を持つのは、植物的な性質の中には物質的性質(自分と他人を分断する意識)が含まれるから利己主義なのですね。

動物(力:情報):動物は主に、その隣接する植物的な力によって多大な影響を受けます。すなわち、「(利益の為の)縄張」とか、「(利益の為に)群れる」とか、「(将来的な利益の為に)勝とうとする=負けまいとする」とか、「(利益の為の)上下関係(先輩・後輩関係)」とか、動物の性質はかなり植物性に動かされたものでありますが、そのこと自体が動物性になっています。人間の中の動物性は、上で挙げた傾向に対応するものがあります。「動物性」は「人間性」に隣接する位置にあるので、人間はそれから影響を受けやすいのです。
 例えば、人は人と仲良くしようとします。しかし、人間としてあってはならない事を見て・知ってしまった時に、その人はどうするでしょうか? 「それでも群れる」でしょうか? それとも「群れを離れて人間としての正義を行なう」でしょうか? ほとんどの人が前者を選んでいることは明らかと思います。人類は、その魂(シュタイナーの定義によれば、それは我々の通常の精神作用の事です)のほとんどが、スブドの創始者が会員だけに語っていたように、「人間的な人」がほとんどいない事が分ると思います。人間的な人は群れる事もあれば、群れない事もあり、その目的に応じて行動するのですね。このように動物性が、人間存在に対してどのように影響してるか見て行くと、とても興味ある色々なポイントがあります。
 例えば、論理的に筋道たてて何かを主張するのは人間的ですが、自分の利益を獲得しようとして、動物的な人はがむしゃらに「縄張」を確保しようとしたりします。
 彼(ら)はまた、群れを作ります。群れていると利益に近い気がするし、動物的に安心できる訳ですが、群れずにはいられないのが99%(象徴的表現)でしょう。このような意味で、社会に認知される事が何よりも大切であり、そのためにはどのように人を利用したり被害を与えてもかまわないという即座の力の発想で行動をする人がほとんどなのかも知れない。
 また、私に勝とうとして殊更にぶつかってくる男性が結構いるのを見て来ましたが、いつも例に出しますが、私は環境調査の為に魚を取る人です。近くに来て競争されても、私はそもそもあなたと「戦っている」意識がありませんので、そのような乱暴さを見るにつけ、人間的に考えれば、「彼(ら)に人間的な対応をしても、彼らの意識に訴える事はないだろう」という判断になります。動物的に考えれば「勝ち負けに拘らないことで勝ってるから楽しいなぁ」(^^;ということになります。しかし、私もつい最近、自分の動物性を自覚し始めたのです。弥勒十字によって「3(愛・智恵・力)」が示されて「力と一体になる暗示」に気づいたのですね。力のイメージと一体になるとランボーになりますね。力とは加害的態度であり、勝利であり、そのため、動物性と深く結びついたものです。力に自覚的になることで、動物性の中に「埋没(付き動かされたり)」は、しなくなりますし、人生の理解も容易になって来ます。ただ、動物性等、地上的な諸力は、人の精神に「常に影響を与えて」いるものですから、また、そうでなければならない(それがなければ正常な生物にはならないと思います)のでしょうから、人間としての位置を保つためには、「常に自覚的であること」が必要ですね。
 でも、群衆としての人間を見てると、「目的なしに群れている」ような気がします。その潜在意識には何等かの「利益」に通じる思いと快の感覚「欲求」に導かれて群れているのではないでしょうか。それままさに本能ですね。結構、本能的な行動だけをしてるんですよね。
 また、「(色々な意味で)弱い人を助けよう」という傾向が人にはあります。「強い、弱い」という区別は動物的ですが、それを「どのように使うか」が人間性に関わって来ますね。
 動物性は人間性に隣り合った位置にありますから、人に及ぼす影響はとても大きいものがあり、一朝一夕に行くようなものではないものがありますね。そこらへんが(精神的な意味での)人間の弱さと言われるところですね。でも、この部分は人間が進歩しつつあり、何かを獲得しつつある部分であるのでしょうし、大きな可能性が残っている位置だとも捉えられるのでしょうね。このような動物的な面を抑えたり開放したり色々と試行錯誤、工夫をして努力している姿が人間性になっています。神霊の詩篇の言葉には「阿鼻の冠を受けた者よ」とか「勝ち得て喜ぶ者よ」とかあります。動物性と下記の人間性を隔てる大きな違いの一つとして、「相手が血を流していても気にせずガリガリ食べた上に散らかして去って行く」みたいに表現できるものがあると思います。(200611140032)

人間(力:情報):これは明らかに、物質・植物・動物性を統合する段階です。それらの低次の諸力を統べるのが人間ですね。つまり、それらの傾向を暴走させることなく、また滅してしまうことなくうまく手綱をさばくことだと思います(→動画一覧へ(200403151847))。上記でも、動物性が悪いみたいに書いてる感がありますので補足しますが、例えば、愛する人が殺された為に復讐を誓って、それを実行する等のことは、むしろ、大変に高貴であります。このような高貴さはそのうち、具体的な(復讐の)対象から離れて「悪を嫌い、善に喜ぶ」傾向そのものの強化へ繋がり、純化されて行くのでしょう。すなわち、殺されたからと言って力に頼って即座の復讐行動に出るよりも、神を畏れ、神を信じる事で、そのような者の上に神の永遠の懲罰が下ることを期待しながら、「待つ」という事になって来るのでしょう(つまり、「力」よりも「智恵」を信じるようになって行く)。とかく即座の「力を信じる」と、ろくな事はないと思います。じっくり時間をかけて「智恵(法則)を信じる」ほうが、ずっと「お得」です。動物的な傾向は人間の生活の至る所にありますが、動物的だと言って否定するのではなくて、それはそれとして人間関係の上で好ましいような使い方をすればいいわけで、そのような統べる立場を確立して高貴な精神が持てればいいと思います。力との一体化(自己暗示)を自覚的に避け、智恵=質を追求するのが人間的と称する事ができるでしょう。皆がそうなれれば、「自分がやりたいことを、とにかくやってしまう(やり逃げ)」ことで周囲の人々に迷惑が及ぶようなことをする人間は少なくなって来ると思われます。
 動物性を抱えた人間存在が、うまく動物性を生かしながら活動するのは、例えば、宅急便の肉体労働とか、あるいは、歌手としてかっこよく歌ったりとか、あるいは激しい論戦を行うとか、あらゆる人間活動の中に動物性が混ざってます。しかし、それは動物性ではなく、制御された動物性=人間性というものの特徴ですね。

至聖三位一体(愛):スブドの創始者によると、人間より上に小天使・大天使・神という3段階の生命力、合計7段階あるそうです。多分、この上位3段階は愛の中にしか見つからないのでしょう。一方、物質・植物・動物的性質は、力と一体化すると増長して来るので、智恵というのは人間に特有の性質ではないでしょうか。智恵は愛によって活性化し、力によって見失うようなものなのかも知れません。

12の法則

 12は、7と組み合わせてオクターヴの法則(MSさんへの第2通目参照)として理解する事が出来ます。7は白鍵で5は黒鍵ですね。オクターヴの法則から明らかなのは、動物性から人間性へ進む時に困難があるということです。でも、それは「力」に自覚的になることによって進む事が出来るように思います。戦争が起こってしまうのは、全て動物性によって突き動かされているのですから。例えば「群れること」「勝とうとすること」「縄張を広げようとすること=ある種の価値観を標榜すること(宗教など)」などです。全てが動物的であると分ります。これらの発想の全ては「どれが力強いか」というものです。群れていれば、「利益」が得られると思って・感じてる事を自覚してますか? 嘘をついたり噂を流したりしていれば「勝てる」と思って・感じてる事を自覚してますか? そのようにすれば「縄張り」を拡大できると思って・感じてる事を自覚してますか? そもそも、なぜあなたは「縄張を広げよう」となどしてるのでしょうか? その理由・目的について明確ですか? あるいは突き動かされているのですか? そういう無自覚で本能的な振る舞いは動物的なのです。
 最近、ASIAN KUNG-FU GENERATIONの「十二進法の夕景」という歌が出てきて気付きましたが、そういえば、今は無き高文社の「空飛ぶ円盤の秘密」(トルーマン・ベサラム著、[故]久保田八郎訳)に確か月の裏のクラリオンから来たと表現する女性機長によれば、「宇宙は12進法の数学で動いています」とのことだった記憶があります。「月の裏にあるクラリオン」という表現は、最近出てきた「量子トンネル効果推進法」のアイデアと関係するような気がします。つまり、量子レベルで微視的に見ると物質(宇宙船)は同じ場所で現れたり消えたりしていますが、それを、「消えたら違う場所に出現させる」ことで宇宙船を航行するというアイデアのようです。こういうバックボーンがあって「月の裏にあるクラリオン」という表現をされているのだとすれば「なるほどな」と思います。参考 (200606300024)

まとめ

 人が自己の動物性に自覚的であれば戦争は起きないのです。力に頼って即座にその場で決着をつけようとはしなくなるからです。智恵に頼って時間を掛けて真実を追求する事が多くなるからです。情報の海の性質にもタイプしましたが、「物質(力)の世界」と「情報(智恵)の世界」は性質が正反対です。物質の世界で喧嘩なり戦争なりをすると、ぶつかりあって破壊されてしまいます。力は使うほどに減るものなのですね。ところが、智恵(情報)は、使えば使うほど増えるのです。例えば、「話に尾ヒレがつく」という事がよくあります。人から人へと伝わる間に情報が変化して行きます。これは、人の精神というものが創造的な力の一つの現われだからでしょうね。パソ通などで議論などすると話がどんどん拡大したりします。情報そのものは破壊されようがないですね。その創造的な傾向の為に、情報はどんどん拡大する傾向があります。従って、X国とZ国が一触即発の状況にあるならば、戦争(力も物もすり減るような事)など止めて、情報の世界(インターネットなど)で激論を戦わせればいいのです。どんなに戦っても、新たな知識、新たな参加者、あらたな視野、そのような創造力がどんどん開花して行くのです。最悪の時でも、片方あるいは両方の間に壁が出来るだけでしょう。これは、「情報の世界」に「力の論理」を押し通したから出来た壁ですね。情報の世界では問われたら答えるのが人間としての当然の義務でしょう。私はインターネットの世界で憎み合う人や教団、組織、国同士がどんどん「戦うのが良い」という考えを持っています。物質世界で戦うのは愚かですが、情報の世界では「戦うべき」だと考えます。この2つを混同して考えているから、人は情報においても戦うのを避けてしまうのだろうと思います。「力は別個」という認識があれば、どんなに激しい議論をしても、動物的に勝とうとする余り、物質世界へ舞台を移すようなことはしなくなるのだろうと思います。「考え方が動物化」してしまうと、「君は命を賭ける事は出来るのかい?」みたいな脅迫的な「動物的発想」が出てくるのでしょう。そうやって「力」と一体になってしまった発想は最早、人間性ではないと思います。それは例えば「議論に負けたけれども、物質世界では、自分のほうが「力」があり、破壊できるのだから自分は強いぞ」という動物的主張なのですね。「いつのまにか」力と一つになってしまいましたね。

 ちなみに、グルジェフに関して触れておきたいと思います。グルジェフはトルコあたりにある僧院で伝承されてきた智恵を学び、それをウスペンスキーなどに伝えてはいたのですが、彼は「3の法則」については+と−と第3の力という視点しか伝えておりません。私は、必然的に、神御自身から示された弥勒十字によって自己理解の為の「愛・智恵・力」の3区分を示されたから分ったのです。また、グルジェフの伝えた7の法則(オクターヴの法則)については彼がいなかったら知り得なかった事でした。

 また、よく「人も動物の一つである」という分類を「科学的に」説明したりしてますが、人間も自然の一部であるという「謙虚な姿勢」は人間にとって必要ですが、それは「人間にとって」のものです。人間は創造主にたいする謙虚な気持ちを自覚的に持つ事は大切なことですね。シュタイナーも人間は動物とは違う存在である点を示しています。

 弥勒十字に関して言えば、力=量、智恵=質という理解が今は在るのだから、ここで一つの視点が生れます。すなわち、横軸のMOON=WINK=ROSE=57は数字という「量」だけで構成された軸なので、「力の軸」と言えそうです。また、縦軸はその9の位置にある中M明菜さんも松M明子さんもその母親のお名前が「千恵子」さんであるところから、「智恵の軸」と言えそうです。智恵の軸の上端=3で、下端=千ですから、智恵の軸である縦軸は3千(道、御智、未知)の軸とも言えそうです。弥勒十字は、私個人に対しては「カルマの返済」という姿を1998.03.03に現わしましたが、人類に対しては「戦争終結への智恵=3の法則」を示しました。とても奥が深いなと思います。シンクロニシティーなどで弥勒十字の仕組が大本教の「神一厘の仕組」以外の何ものにも見えなかったのは間違いだったと今まで思っておりましたが、これは改めたほうが良いと気づきました。つまり、神一厘の仕組であった側面があったのです。安易には決められないなと思います。王仁三郎聖師が3000個にもなる器を晩年焼いておられました。それらは未来の為に召喚されて生れてくる器であると捉えるのが通例です。近未来における獣の活動を弱体化させるための神一厘の仕組だとしたら、まさに弥勒十字で示された「3の法則」が、666の『世界の平和と繁栄のための開かれた道』を先取りしたものだと思われます。「所有」の植物的観点から言えば「お株は、頂き」です。神一厘の仕組とは、神が直接に何か指示したり明言する事ではなく、飽く迄も地球人の自由意志としての行動に掛かっていたのだ。地球の未来にはいかなる存在も干渉する事ができない/してはならないというのは、本当に宇宙の法則だったのですね。

 結局、人が目指すべき「方向」は、愛(天意:[小天使、大天使、神]:第1の軸)と智恵(第2の軸)であり、力(地から:[物質、植物、動物]:第3の軸)との同一化から離れる事です。智恵を選ぶならば、時間をかけた長期的視点に立ちます。例として「霊的な事と物質的な事を混同しない事は大事」という事を考えてみますと、それについて「智恵の」長期的視点に立って「霊(ここでは愛と智恵)を地上・物質的世界へ徐々に顕現させる」こととなります。しかし、「力関係を考慮して」近視眼的視点も必要であり、その視点からすれば、「とりあえず今は霊的なことと物質的な事は混同しない事」となります。このように発想が智恵に導かれるか、力に導かれるかで違ったりします。
 ここで一つの問題があります。完全な愛の中に入って行く事は人間には能力的に不可能なのですが、仮にそのような指向性を持っていいのか、ということです。それを認識するためにはシュタイナーによる人間の使命に触れようと思います。シュタイナーによれば、人間を霊化させようとする力としてルシフェルがあり、物質化させようとする力としてアーリマンがいるとのことで、人が死の直後、ルシフェルからの誘惑「おまえは今すぐ神になろうと思えば神になれる」とささやくそうです。これは、神々の宗教であるところの人間という存在を、その道から引き離そうとする誘惑になっているそうです。永遠の彼方にある「人間理想」へと、人間の大いなる可能性(まだ宇宙それ自身も未知の事なのだと思います)が待っているのです。その特性を途中で放棄して直ちに神になっても、結局は「神々の宗教」の「真意」を理解した時には「時、既に遅し」ということになっていると予想されます。もう彼は「長い時間をかけて獲得」することができなくなってしまった。もはや彼は時間も空間も越えてしまうからである。つまり、人は人(4)の道を進むべきであって、完全無欠の愛の中に入って行くのは天の意に反するのかも知れません。ただ、愛の中に入って行くのは、機会が「与えられた」時だけに限られるのであるから、逆に言えば、そのような高い生命力の中に入って行く事は「出来ない」ように造られているのですから、どんなにそれを指向しても危険はないのですから天の意に「反する」とは言えません。逆に言えば、人が愛の為にどんなに尽くしてもいいのですね。愛こそは智恵や力の指標ですね。それを管理し、人間をそのように造ったのも天ですね。人間にはどうすることも出来ない領域であります。そのようにして人間は人間であるようにと「守られて」いる訳です。そのように神霊・神々が人間に注目していること自体が、神々の宗教活動とのことです。
 人が目指すべき「方向」としての理解は、物質(1)、植物(2)、動物(3)的精神から離れ、人間的精神(4)に留まり、可能ならば・機会が与えられるならば、愛(天の意3つ)に入って体験できればいいね、ということでしょう。ここでオクターヴの法則を想起してみますと、進化が困難な箇所が、「動物(ミ)→人間(ファ)」と移行する時と、「神(シ)→?(ド)」と移行する時になりますが、後者は必要ないし、分らないですね。「動物→人間」と移行するのは確かに大変に困難な事です。丁度、動物が、自分が食べて行く為に「所有」する縄張を放棄させるようなもので、人間にとって直下にある動物的傾向を捨てる訳にも行かず、うまく理解し、付き合って行かなければりません。動物的な傾向はほとんど全て「力と一体化した傾向」です。「自分が今、力と一体になってるな」と気づいていれば、その「力のままに行動してしまう」前に、うまく必要に応じてコントロール出来る可能性が発生します。だから「力に自覚的になる」ことは、人間的であるために必要なことです。傾向としては、オクターヴの法則(7の法則)が中心にあり、それに3の法則と12の法則を加味して認識すると、より良い理解が出来ますね。

 しかし、獣(動物的)とはよく言ったものである。2031年に世に出てくると言われる666の獣の精神は動物的であるということなのでしょう。

 1なるエネルギーの、このような展開(3→7→12)についての理解は、子供が無自覚に暴力的にならないようにするための「人間的教育の基本方針」を明確にすると思います。多分、カバラが発祥した場の周辺にいた古代の人々はこういう事を知っていたのかも知れません。全く驚いたもんだ。(199912250319)

 将来、黙示録の獣(666)が「世界から貧困を無くす」という点に関しても先取り記事を載せておきます。(200001070523)

 最近のイスラエルとパレスチナの民間衝突の長期化を見てて思ったのは、イスラム的発想でした。それは[精神]>[肉体]という発想です。日本人または法治国家(社会的コンセンサスが基礎)の発想は、この逆で[精神]<[肉体]ですね。彼ら経典の民には神の言葉があり、いわば、神治国家(神の法則が基礎)なのですね。
 このことを日本の政治に例えてみると分かり易いと思います。政治家が党内での政治「生命」を守るために、その言葉を変えてしまい、公約を破ったり、変節したりします。これは「肉体(政治生命)を守るために魂(精神)が澱んだ」ような状態ですね。政治の世界だと分かり易いのですが、これがいざ人の生死に関する事となると、肉体を守る事は日本では、ほとんど「絶対善」に近いコンセンサスがあります。しかし、イスラム世界では、肉体以上に大事にするものがあり、それは単なる「文化」というだけではなく、現実でもあるという人達も多いのでしょう。コーランに「背信者と同じテーブルについてはならない。彼らと戦え」とあるのを忠実に行動に移す誇り高き民族だと思います。誇り高いというのは、彼らは[精神]>[肉体]だから(どんな場合でも、全員がそうだとは言いませんが)。政治的に考えると、彼らは政治「生命」を捨ててでも、公約を実行する高い精神性を持っているのです。
 コーランは人間の命を超える存在からの言葉ですから、人の命を「扱う」存在者達の意志が記されています。人は人の命を扱うべきではありませんが、コーランでは人の命を「扱っている」。全世界のイスラム人口も相当のものですよね。コーランでは、「正義の為に戦って死んだ者には、死後、楽園が与えられる。真に幸いなるかな」という旨の言葉があります。イスラムの民にとっては、必ずしも「和平=正しい」訳ではなさそうですね。しかし、コーランは「戦わなければ殺される」という状況の地域と時代に下されたものだとのことですから、それはまさに必死だったという状況はあるのだと思います。やはり、人が死ぬということは、それだけ可能性が断たれる事を意味します。今の争ってる状況だって、後世からすれば、「何故、所有権ごときで争っていたのだろう。いかに聖地といえども、霊的側面と物質的側面を混同していた」と思うようになる時代が来るかも知れませんよね。その時に始めて、「当時のイスラム精神は、実は、何程の事でもなく、一つ二つの価値観の衝突により、肉体を失っていた時代が長く続いた」と認識されると思います。これはもしかしたら、ムハンマドの存命中の初期のイスラム世界より、精神性が低くなっているのではないでしょうか。「複数の価値観の共存を許す=殺すほどの衝突はしない」という点では、日本人のほうが、無意識的ではありますが、賢明かも知れません。やはり、人にとっては、肉体を失うという事は、それだけ失われる可能性の大きさが重大です。その場で、精神性の為に戦って死んでしまう程の誇り高さがあるならば、一生をかけて色々な事・道筋・可能性に対して「誇り高く取り組む」事のほうが好ましいのでは?(200011300607)

1の法則

 以前、[次元と重力の話]でも述べましたが、改めてタイプしてみます。

0次元:大きさのない点であり、位置です。言い換えれば、「存在している」と言えます。

1次元:0次元を積分したもので、直線です。(数学の世界では、直線がぐにゃぐにゃ曲がったりし始めると次元は1.1次元とか1.5次元とか次元が上がるそうです)→分数の次元について (200408311511)

2次元:1次元を積分したもので、平面です。(数学の世界では、平面がぐにゃぐにゃ曲がったりし始めると次元は2.1次元とか2.5次元とか次元が上がるそうです)

3次元:2次元を積分したもので、立体です。

4次元:3次元の直交した3つの直線の全てに直交する「時間軸」に沿って・従って、3次元世界は「運動(=積分)」しています。

5次元:かなりの方が気づいてると思いますが、時間は単に物理的に流れているのではなく、時間には「意図」が働いており、それは「時間をコントロールする立場」に位置しています。つまり、「意図(5次元)」は「時間(4次元)」に直交した立場から作用を及ぼしているのは明らかです。逆から見ますと、全ての「時間(4次元)」を積分して行きますと、全時間軸に作用していた「意図(5次元)」が見えてくると思われます。

6次元:「意図(5次元)」は単なるデタラメな意図が時間に作用してるのではなく、「(宇宙の)目的(6次元)」を満たすような「意図(5次元)」として働いているのは明らかです。従って、「意図(5次元)」を直交した立場からコントロールするのは「目的(6次元)」です。逆から見ますと、全ての「意図(5次元)」を積分すると、「目的(6次元)」が見えてくると思います。

7次元:なぜ宇宙の「目的(6次元)」が目的たりうるのかというのは、そのような目的を発生・発想・発祥させた「存在(7次元)」がコントロールした(している)からであるのは明らかだと思います。逆から見ますと、宇宙の目的を積分して一箇所に集めてみれば、この宇宙の「存在」が明らかになって来ると思います。7次元において我々の生きている宇宙が「1つの存在」として統べられています。8次元以上の次元が存在することは数学上からも考えられる事ですが、シュタイナーによれば、人間には7階層分の地平線内しか見えないそうですから、それ以上をどうこうしてもあまり意味が無いと予想しますし、無理です。そもそも3つの3次元軸の全てに直交している時間軸=第4次元からして、我々にはなかなかイメージし難いですし。

 被造物の全ては「存在して」います。つまり、今、存在している全ては神(存在)を表現しています。これが「1の法則」と言えると思います。唯一全能の神とは聖書にあるように「在りて在るもの(YHVH)」ですね。人格神ではないのは明らかだが、人格的要素を含まないはずは無い(欠けた部分は何も無いのが神の定義だから)。
 また、人が「自己の(相対的ではない)存在感・リアリティー」を感じる覚醒意識の瞬間がありますが、それは全てのバランス・ポイントが平衡した0ポイントに立たなければ感じられません。人はリアリティー(覚醒への接近)を求めて過激な事を言ったりしたり、あるいは音楽を聴いたり本を読んだりするのでしょう。人は本来的に覚醒を求めています。また、性欲が本来的に持っている中心テーマというものがあります。それは「覚醒意識」です。対して、性欲の中心テーマに拮抗するものとしての「社会的な認知欲求」があります。詳しくは[性とは]を御参照のこと(黒文字部分)。要は、人間という存在は幸せ、すなわち覚醒=リアリティー=存在=神を求めている訳です。
 一方、「多神教」の世界は人間の目や耳などの感覚器官として捉えられる「分断の世界」の中に把握される「別個の存在」であり、それらは明らかに「在りて在るもの」によって、我々と同様、存在せしめられているのも明らかです。そもそも、「有限の形」や「有限の色」や「有限の能力」などの有限的存在を「神」と呼称するのは神の定義からしても間違いではある。ただ日本では「八百万の神々」と、慣用句的に人間ではない存在を「神」と言ってるから人が文化的にそう思ってしまうということですね。神は土地や文化を超え給う。しかし、それらを含み給う。神が有限の体積を持った体など持ってるはずがない。ただ、有限性の中に自らを顕した存在としての人間だと思います。神には不可能はない。不可能が無い為に、特定の方法を採られる。人の魂の為に、真実の為にと思うならば、多神教が正しい筈がない。多神教を推す人々は、社会的組織的な側面で宗教を捉えていると思う。「人には“自分の意見”として色々な意見があっていい」という立場と「(自分以外を崇拝する)多神教の立場」は違うものである。意見というものは「自分の意見」を意味するが、多神教の立場は「自分以外に心身を任せる」ものです。一方、「一神教」は、「在りて在るもの(YHVH)」へ向かう事であり、自分の中心にあるバランス・調和ポイントへ向かう事であり、覚醒という幸せへと向かう事である。これが真実である。「一神教」の立場とは、「多神教の中の一つ」では全くない。構造的に全然違う。全てを含み、全てを超越(拒絶)した立場が一神教の神の立場である。人間存在の幸せの為には、目で外的に見えたり耳で外的に聞こえたりしてはならないのである(コーランで偶像が禁止されているのはここらへんの事情だと思います。ただ、バーミヤン石窟の大仏を見て、崇拝してしまう人など現代にはいないと思う。文化財としてなら見るとは思う)。が、しかし、神がそうされるのも可能である事は明らかである。

 人間を神(全宇宙)と見立てて考えてみれば分かりますように、筋肉だって、「足を前に動かす筋肉」もあれば、「足を後ろに動かす筋肉」があります。同時的に動かないから戦争にはならないだけです。細胞だって一旦生れた細胞はいつかはアポトーシス(死ぬこと)してもらわないと体が生きて行けなくなります。拮抗する力は宇宙システム維持の為に必要と言える側面があるのだろうと思います。大切なのは、「拮抗する力がどのように動くか」というソフトではないかと思います。(200111131836)

 「存在・覚醒意識」>「道徳・倫理・価値観」]のほうに書いたのですが、自己想起により覚醒意識の瞬間を得る事によって、自分が変わって行くのですが、覚醒という(自分への)愛は、憎しみという(他者への)愛を越える事が判明しましたので、タイプして置きます。ただ、眠りに落ちて憎しみに捉われないためには常に覚醒への努力(自己想起)は必要とされる訳ですが。また、覚醒でなくとも、下線部の認識・思考内容は覚醒意識から出てきた結果的認識なので、使うだけでもある程度可能ではあるでしょう。でも、下線部のリアリティーを増した、もっと違うレベルで実現するものが覚醒意識です。根本的には覚醒するのが良いのです。覚醒意識の瞬間を一体、どのくらいの人々が実現できるようになるかという社会的側面はどの位期待できるのか分かりません。グルジェフやオショー並みの人々を大量に生み出すという事は、全く「各個人の自覚」にかかって来る訳です。その意味では可能性は大いにあります。しかし、当ホームページを含めて、正しい情報を発信しているところはどの位あるのだろうか。正しい情報が信頼され、注目され、大勢の人がその真相を理解し、体現するという前例・歴史は作れないものだろうか。(200201222309)

 「存在」を意味する1の法則について、一つ気づいた点を魂の指針【=覚醒意識】のほうに登録しました。(200301131753)

「愛」を意味する1の法則について、別ファイルのほうに登録しました。(200806202110)

 KKベストセラーズの「イルミナティ 悪魔の13血流」【THE TOP 13 ILLUMINATI BLOODLINES】の邦訳版のP77に、スイスが永世中立国で居続けられる真の理由が明かされています。それは、イルミナティが(様々な魔術的)血流を取り込み、それを千年近くも温存して来ているイルミナティの本拠地の国だからだそうです。彼らは、自分たちが世界を支配し続ける為に、世界中の人々が「自分たちのことだけで手一杯」になるようにさせるための手段の一つとしての戦争ではないかと思います。自分たち以外の人々を疲弊させておく事が彼らにとって必要な手段らしい。
 また、金銭による社会システムを極限まで推し進め(→阿修羅発言 (200603212256))、金銭だけで必要なコントロールが可能となるように着々と準備しているのではないか?(なぜ日本の小渕首相は突然亡くなってしまったのだろうか?)

 スイスが永世中立だとしたら、日本も中国も台湾もインドもパキスタンもイスラエルもそれを真似して、「単に永世中立を宣言するだけ」でその立場を堅持して行けば良いことになりませんでしょうか? もし、それが(世界支配機構により)「認められない」時には、スイスのそのような立場がなぜ認められるのだろうかと思います。(200303172338)

 阿修羅にも発言したのですが、ここにも載せておきます。

 私は人を十字に捉えたりしています。戦争になり易い傾向は、水平の線に相当する意識状態が強いからだと思います。垂直の線に相当する意識が強くなれば、努力を情報的な側面へと注いで行くようになると思います。つまり、実際に「物理的な力の行使・衝突・戦争」へは行き難くなると思います。

・縦の軸は、天と人の繋がり=真実を追う人の姿であり、情報等に努力を注ぐ傾向(目に見えない側面)(垂直発想)
・横の軸は、人と人の関係性=相対的であり、競争や衝突が起こり易く、力で領域を確保の発想になる傾向(目で見える側面)(水平発想)

 現在は、人の意識は水平の線の側が優勢と思っています(水平発想の人が多い)。つまり、戦争を起こすかどうかは、人の意識の持ち方ではないでしょうか。あるいは、一部の金持ちが「都合」に応じて戦争を起こすという実態もありそうですが。(200308062159)
 「外向きの自我=水平発想」で、「内向きの自我=垂直発想」の対応も理解を深めるでしょう。(200308070301)

 田原総一朗氏曰く、『戦争は力で勝つことが出来ても、平和は力で作れない』(→動画一覧へ)(200308260005)→これは、ジョセフ・ナイ氏の言葉でした。(200406232304)

 快適な社会にする方法]のほうに、パレスチナ問題に関して、「神の正義“だけ”に基づき審判を仰ぐ戦闘方法」に関して述べました。(200310242226)

 最近、私の裏で言われているらしい事に気づきました。私は常々、「戦争の代替だいたいとして、インターネットの掲示板の世界で「戦う」ような情報戦・議論戦に移行したらいい」と述べております。それに対して「議論が熱くなってきたら、人は必ず暴力・実力行動に出てくる」という意見があるようです。しかし「必ず」とは言えない事は明らかだと思います。多分、そのような場合、暴力行動に出てくる人は、先ずは少数派であると思えます。情報戦は物理戦の代替であるので、「自らの魂を掛けて、神に誓って物理的暴力に出ない」と取り決め、そこから出発するようにするべきだと思います(←これは当然のことです)。 [ この種の一刀両断は某神霊の言う『剣』なのかもしれない(200704052244) ]
 こういう最初の取り決めは私は当たり前の発想だと思っていましたが、そうではない人もいるようです。故に、ここでさらに補足しておこうと思いますのは、「情報戦」において、なるべく新しい概念、斬新な情報が出されて、人々の選択の幅を広げるような知的な方向性を採るように推奨されるものの、情報戦は「物理的戦争」よりは遙かに良いと思うので、「氏ね」とか、そういう言葉も、一切、何の制限も設けないほうが自由度が高くなるので、そうすべきだと思います。つまり「情報の内容に制限は無い」ままで私は結構だと考えます。飽くまで「戦争に比べたら遙かに良い」という発想の基点を忘れるべきではないと思います。

 「株式日記と経済展望」の2004.10.03の発言で「いささか逆説的ですが、世界中が核武装すれば世界から戦争はなくなるだろう」と述べておられますが、それは一面(=一時的、短期間)そうですが、そのように「意図すべきではない」と思います。(「株式日記と経済展望」の人に言うのではありませんが→)私の主張に対して個人的感情を発奮し、それを満たすことを第一目的として発想した上で、世界をそのように牽引けんいんすべきではないと考えます。人類全体として意図すべき発想の方向性は、私は「人々が情報で繋がれば(=家族のような関係性を想起します)」その緊密性の中で、相手をミサイル攻撃しようという発想自体が湧かなくなるという心理的な到達点を目指すことを提案します【一般的にはそうでしょうが、これが暗転すると地獄なのでしょうが、割合としては非常に少ないのも明らか】。もし、家族(=情報的な自己緊密度が75%^^を超えている他者)に対してそんな発想をする人がいたら、精神異常者だ。参考動画:[力(=権力・軍)による支配:情報(=ジャーナリズム)による支配
 いささか逆説的ですが、あのスカル&ボーンズでさえ、「自分の性をメンバーには情報公開して、秘密が一つも存在しないようにしている」がために、一種の家族のような関係性を実現している。これは暴力団とてそうである。一般人より「悪い」というこうした人々でさえ、彼らなりに「一種の情報家族」を構成し、身内の中では何も起こらない工夫くふうを本能的にとっている【まあ、身内以外に対して冷たい攻撃を行う傾向には気を付けてもらいたいところですが。また、北朝鮮のような、相手を脅しながら“家族”を維持するというやり方は、そんなに長く続くものじゃないし、続けるべきではない】。ならば、世界中の「一般人」同士がインターネットなどで情報を共有緊密化し、家族のようになって行けばどうでしょうか。そのような方向に顔を向け、意図するように示唆するのがここでは必要だと思った次第です。(200410160006)

 こういう連合(世界の人々の「心の連合」by増田俊男氏)も結構良さそうですね。(200501252329)
(→阿修羅発言
(→阿修羅発言 (200604082021))

【VOICE発行の「ウイングメーカー」(\1,900)、「ウイングメーカーU」(\2,100)、「ウイングメーカーV」(\1,900)の中で強調されるワールドカルチャーも、趣旨は同じものでしょう。要は、時間旅行が可能な未来人は、過去の地球人である我々に、そのようにして精神的に一つの家族を形成するように提案しているのです。(200604022151)】

 聖性(この世への執着を[ある程度]超えていられる精神、平安が[ある程度]乱されない精神)に至る道には宗教があります。スブドの創始者によると、イスラムは動物性を表わし、キリスト教は植物性に該当するそうです。ちなみに仏教は物質性に相当するそうです。このイスラムとキリスト教の互いの理解が及ばないことから相手を叩く発想に繋がってくるのではないかと思います。

 自分の大切なものを奪われたり破壊されたりした時に、2種類の人がいる事は容易に察しがつきます。「怒る人」と「悲しむ人」です。前者の感情特性を持つ人はイスラムに親和的で、後者はキリスト教に親和性があると分かります。前者のタイプの人は強烈な復讐心・恨みを持ちます。強烈な被害を被ったときに、もはや、誰も彼/彼女の心を癒せません。そのような性質を持つ人間存在を作った神は、実は人間を見捨てはしませんでした。それがイスラムだと思います。コーランを読んでみれば分かるように、神は約束しておられます。「悪人には死後、痛烈なゲヘナの懲罰が待っている」という約束です。悲しみ、怒る人々の心はこの神の約束でその心が救われます。人は強い恨み・復讐心という道を通って「聖性」に至る道があるのです。なぜなら、彼/彼女の恨みに満ちた態度の中心には奪われたものへの「愛」があるからです。だから、神はコーランの中で「戦え」と命じておられます。「復讐心を持つな」ではなく「戦え」ですよ。神はその被造物が心の中に復讐心を持ってしまう存在である点を決して否定されないのです。たとえその人が社会生活の中で「過激」に活動しても、つまり、社会が混乱しようとどうしようと、神は心の中に真実(愛)を持った者を見捨てる事はない(事を私は[も]経験して来ました)のです。人は、その復讐心を手段[パワー]として用い、正邪を厳しく区分けすることになります。彼は利益や都合や周囲の世論によってコロコロ変わるような判断は(勿論、例外は個々に色々とあるでしょうが)しなくなって行きます。彼は、その「強い怒り、恨み、復讐心」をバネにして、「揺ぎ無い善悪判断」をします。周囲によってフラフラしないこの時点で、彼は既に「聖性」に一歩足を踏み込んでいるのです。これはキリスト教も同じだと思います。キリスト教の場合は、自分の意志で忍耐を貫き、そのまま大きくなって大輪の花を咲かせるのでしょう。最早、このような人も世間によってフラフラしないどころか、迫害を受けてさえも、その不動の信念を貫きます。彼も、やはり聖性に至っているのでしょう。
 また、イスラムから分かるのは、「神の優先順位」です。「魂(本人)>社会的な安定」という不等式です。神は魂の世界と社会的状況が衝突するような時には社会的状況を守ろうとはしません。神は心に真を持っている個々人を優先されます。こういう選択、優先順位は人間には判断がつけられないところですよね。
 多分、キリスト教文化の中にいる普通の人々にとって、イスラム的な発想(社会的な混乱が生起し易い発想)が「あり得ない」とか「理解できない」という感想を持つのだろうと思います。しかし、信頼できるチャネリングやスブドや、多くの偉い方々の話の中でイスラムが邪教であるとされているのは私は聞いたことがありません。だから、コーランにあるように、イスラムは預言者の系譜、経典宗教の系譜の中にあると分かります。多分、キリスト教の人々(例えば、アメリカ人)は、「社会的側面」しか[見ていない/見えない]のではないかと思うのです。

 以上のようなことを申しましたのは、アメリカが「民主主義を世界に広めよう」として、「暗にイスラム諸国の存在を問題視している傾向・可能性」が推理できるように思われたからです。勿論、イスラム国家が独裁国家である必要はどこにもないのでしょうが。ただ、イスラムの精神というものは、私の思うに、[社会的な関係性<真実]な精神だと思うのであります。社会的状況よりも精神・魂を優先する宗教であると思われます。先ずは魂であって、社会状況ではないという側面への気づきを、アメリカのキリスト教の人々が先ずは持っていただくのが必要ではないかと思いました。(勿論、社会的に平穏であるにやぶさかではない)
(→阿修羅発言 (200612030810))
(→阿修羅発言 (200611300541))
(→阿修羅発言 (200612020232))
 反面、イスラムの人々も、例えば、(多分)残党勢力の人々が、「選挙」だとか「アメリカの統治に反対する」だとか、社会的・政治的な側面に対してガップリと噛み付いて、取り組みあっていますよね(→阿修羅発言 (200601041808))。
 こういう社会的状況は「支配欲とか、そういう精神」の側と関係するのだから、単に利権が奪われて怒っているというのが発端ではないかと思ってしまう。イスラムの人ならば、「神への道が妨げられさえしなければ誰が支配しようと構わないさ」という風になると私は思うのです。故に、一般に「自爆テロ」と呼ばれる行為を「させている者達」はイスラムの衣を着て成りすました、「単なる戦争屋」ではないかとも思う。こういう少数者が状況を悪くしているのかも知れない。(200411030249)

 以前、[集団的自意識過剰]のほうで述べましたが、意識の世界の「プラス=融合・統合」であり、意識の世界での「マイナス=分離」です。物質世界での電荷のプラスとマイナスはよく知られている通りです。ここでは意識の世界でのプラスとマイナスについて述べます。

 某神霊によれば、女性の性はマイナスだそうです。これは意識の世界のマイナスだと分かりました。すなわち、「分離」です。女性は子供に「形を与える」わけです。それは世界とは皮膚で分離した肉体の形を形成するということです。一方、男性はその肉体形成の刺激を与えたのは勿論、その子供の生まれつきの個性という形のない領域を決定したと思われます。

 このような「意識の世界での+と−」は宗教の世界にも拡張できます。すなわち、「宗教・教義の“本質”を大切にする」か、or「宗教・教義の“形式”を大切にする」か、という2つの道が(宗教から)常に派生するものであることが分かります。意味も分からずに形式ばかりを守る姿は、マイナス=女性的な宗教ですね。反対から言えば、本質が忘れられて失われている宗教です。私も以前から、宗教の本質については興味があったものの、いざ特定の宗教に入ると、そこの形式を守る事が何か絶対的な事柄のように扱われるのに辟易したものです。私はそういう形式とは無縁でありたかったので、どの宗教にも入信はせずに、それらの本質的な部分に関心を持っていました。形式や教義を持たずに、神の力と直結することが基本であるスブドは男性的な(謂わば)宗教ですね(私はスブドの人間関係的に迫害を受けたので離れましたが)。

 こういう宗教、特に「形式を絶対に守る宗教」というものが紛争の原因になっている側面も大きいと思います。ユダヤ人が神殿の丘にちょっとでも立ち入ると、そこをイスラム勢力の土地であるとする回教徒たちから猛烈な反発を受ける、というのもこの種の側面が関係しているのでは? こういうのは形式的な側面ではないかと思います。確かに「自分(達)の聖なる領域が他の宗教の人間によって荒らされた」と感じてしまうのは嫌なものです。しかし、それは形式的に=物理的な意味で荒らされた(ように見える)だけであって、「真に聖なる本質的部分が汚された訳でも何でもない」という修正ソフトを中東の人々の頭の中にインストールして使っていただく必要があるのかも知れません。

 しかし、実際には形の問題だけではなく、根はもっとずっと深いのでしょう。例えば、互いの宗教教義の事を「邪道だ」と考えているかも知れない。多分、キリスト教、ユダヤ教の人々がイスラムのことを「邪道だ」とする割合は、その逆よりも高いだろう事が推測できます。それによって被害を受けてきたイスラムの人がキリスト教、ユダヤ教の人間達を毛嫌いしているとか、色々あると思います。これは宗教的側面だけで考えれば、イスラムの人がキリスト教を理解し易いが、キリスト教の人がイスラムを理解し難いという事ですね。この点について私からキリスト教の人に理解してもらいたい点は既に上記に述べましたので、読んでみて下さい。(200411202050)

 第三次世界大戦について(これはファティマ第三の預言の内実かも知れない) (200601031828)

 戦争が起き難いのは「真の民主主義社会」です。→[国家のあるべき姿だと思います]へ (200602010033)

 最近は中東での衝突に関して「これは宗教による衝突ではない」と、真相を突く発言がよく聞かれます。宗教を偽装しなくなった事は「戦争の真の原因を探る」上で良い兆候だと思います。それで、私は最近、個人的な発見がありました。それで「衝突の真の理由」のかなり大きな要素の一つだと思われる人間精神のある側面について述べてみたいと思います。最早、原因は宗教ではないのだから、生身の人間の精神について述べてみます。

 全ての人間の基盤も勿論、「存在」です。人の頭脳というのは物事について、常にその両極端を想定しつつ、想像を働かせます。最善の事も最悪の事もマインドは想定しています。もし、人が人を嫌いになると、この想像能力は、嫌いな相手の「存在という極の消滅・破壊・解消」に集中しがちです。なぜならば、これ以上の極を想像できないからです(想像できないということは、それは無いのでしょうね)。ところが、容易には嫌いな相手の存在を消す訳に行きません。この欲求不満が「絶えざる破壊欲求」として、その人間の中に潜在し、蓄積して行く事になります。自制心のある人ならば、この破壊欲求を悪事への破壊活動へと振り向けることが出来るでしょう。しかし、(例えば)半分の人は、何の関係もない第三者を破壊したり迷惑を掛けたり等の行為になってしまうのでしょう。

 これは、人間の認識が単純であることを意味していました。つまり(私も含めて)お馬鹿さんだったのですね。相手の「存在への破壊欲求」を単純に持つ人が多いから戦争が起き易いのですね。では、嫌いな人を客観的に見てみましょう。その物理的存在は他の人と一様に同じ物理的存在です。その人が悪いのは、その人に付随し、起因し、発生してくる種々のプロセスが(人としての)悪事であった訳です。もしその人が、全然「別の存在(つまり、別の人)」だった時も、もし同じようなプロセスを生み出す存在であったならば、「同じように嫌われる」ことになります。つまり、人が人を嫌う時、嫌っているのは「そのプロセス」だったのであり、相手の「存在」は、実は対象にはなり得なかったのです。なのに、人は嫌っている人の「固有の性質」を嫌います。でも、その「固有の性質を持つ別人」も沢山いると思います。あなたが嫌っているのは、「存在」ではなく、「プロセス」だったのです。

 故に、もし、人を嫌いになったら、相手の「存在という極性」にばかり集中しすぎてしまう認識能力の単純さに「最初から流されないでいる」ことが大切です。一挙に「相手の存在という極」に対する想像能力の馬鹿な集中から離れ、「自分が嫌って反感を感じる対象は、反人間的プロセス(を生み出す脳内ソフト)だ(特定個人に集約されない)」と、嫌う対象をプロセスで留めて、「存在という極」にまで想像力を及ばせないことですね。なせなら、それが真相だからです。認識能力が動くときに「存在」と「プロセス」を分けて捉える努力が大切なのでした。最初に人が、この事実を知っていれば、人を嫌うようになった最初の最初から、「存在」と「プロセス」を混同しないで済むでしょう。そのようにして「存在を破壊したいという欲求不満」を(以前よりは)持たなくなります。日本には「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があります。この言葉の真相はこういうところにあったのですね。ただ、この言葉の難点は、一種のドグマっぽく聞こえることです。論理的にキッチリとした人を納得させるには、説得力に欠けると思われるので、「(悪の)プロセスを憎んで、(人の)存在は原理的に対象ではない」と言い換える事を私は提案します。

 軍事侵攻が「大好き」なイスラエルの右派と呼ばれる人々や、アメリカの右派(ネオコン)の人々は、皆さん、「嫌いな人」が、それぞれいるためにその「存在」に対する破壊欲求が満たせない不満が潜在意識の中にあると思う。「存在」と「プロセス」に関する認識上の区別の問題を、今回私がタイプしたソフトウエア文章をダウンロードして(読んで)使用して頂ければと希望しております。日本国内においては、乱暴運転とか(振る舞いとして)ヤクザに豹変する人とか減るかも知れません。(200607231359)


【2006.07.26(水)の「報道ステーション」で、昭和天皇陛下がマッカーサー司令官と会談する2日前の1945.09.25 10:00にアメリカからの新聞記者二人からの問いに答える形で、文書により「平和は武力を突きつけることでは成し得ない」との考え方を表明され、日本が戦争・武力を放棄する憲法九条の礎になっていた事が報道されていました事を述べておきます。(200607291149)】

 2006.12.31(日)にTBS「サンデー・モーニング年末スペシャル」で戦争についてのかなめとなるようなディープな分析・知識・智恵の提示を集中的にされてました。これを人類の記憶から薄れさせてしまうのは真に勿体無いと思う。(これって著作*?という権利を鬼のように主張するようなものではなかろうと思えたのです)download
(→阿修羅発言 (200703202312))

・かつて1970年代に核を保有し、それを自主的に放棄した南アフリカという実例の場合を紹介
・軍事に使っている予算をポジティブな世界復興へ回せば世界は一度に良くなりそうだという試算結果
(→阿修羅発言 (200701182238))
【→阿修羅発言 ←ペンタゴンが基本的な戦略を変えたそうです。(200802241715)】
【→阿修羅発言 ←『考えられないことが起きる時代に突入する予感(天木直人のブログ)』(200803181649)】
・アイゼンハワー大統領が軍産複合体の将来の拡大の危険性を訴えていた(この時に彼らの力を防げていれば…)=武器の拡大(武器の負のスパイラル)が起きてしまう資本主義(これを許してしまったのは、実は市民の無関心)
・権力に服従してしまう「人の性質」を自覚しよう
・軍隊を持たないコスタリカの実例(国民に力がある場合の実例)
・スイスが永世中立国になったプロセス
・アフガンで日本が武器の回収作業を行うことが「可能・有効」なのは、日本には「まだ」憲法九条があるからであり、この立場は世界にとっても日本にとっても極めて貴重


武力を使わずに、激戦地帯に積極関与し続ける方法

 以前、アフリカのどこかの国の内戦(クリントン時代?)で国連が手出しできない戦争状態が収まるのを待つしかなく、その間、虐殺を待つのに等しい時期がありました。

 これに対する解決策として、当該地域の上空に飛行船を浮かべてデジタル電波の簡易中継局とし、地上には超硬合金で出来たロボット(インターネットから制御する)を置きます。既に鋼鉄より硬いガラスも作れるし、電子線を衝突させて超硬合金も作れるのですから、銃や手榴弾などではビクともしない「武器を持たないロボット」を、パソコンとマウスを使って操作して、敵と味方の陣営に直接歩いて行き、現場で直接の交渉を行わせる、という行動を取ることも国連は出来るのではないでしょうか。(200705030051)
【これは最初の着想を述べただけのもので、データを取ったり実験したりしたものではありません。こういう可能性について示唆する趣向の発言です(200705040056)】
(→阿修羅発言 武力を使わずに、激戦地帯に積極関与し続ける方法 (200705030108))


 私個人の性格としては、「復讐することは正当な権利である」という感性があります。ただ、それは被害を受けた当の本人に対して「個人的に」なされるべきであり、無関係の第三者に対して「復讐する」のは間違いです。それと同じように、それを組織と組織の戦闘や戦争に発展させるのも間違いだと考えます。その意味では、ビン・ラディンが攻撃対象を「アメリカ」にまで拡大させてしまったのも一つのミスではないかと思うのです。勿論、そもそもの最初はビン・ラディンを利用して裏切ったアメリカだったと言われます。具体的な個人がいるはずだから、ビン・ラディンはその人や指揮命令系統に連なる個々人に怒りの教化を施すべきだったと思うのです。

 同様に、ディック・チェイニー副大統領主導でイランとの戦闘モードを導こうとしているようですが【→阿修羅発言 (200803181658)】、チェイニー氏自身はイランやイラクの何を恨んでいるのか全く私は知りませんが、仮にコントラ事件【→阿修羅発言 (200705242101)】の時の恨みがあるのなら、その時の主要な個人に対して行うべきだと言わせて頂きます。無関係の個人に復讐するのは間違いだし、組織的・国家的な動きにしてしまうと、その種の同様の間違いをさらに拡大してしまうので。

 それがたとえ個人対個人の戦闘であっても、一定のルールがあるほうが良いのではないかという提案( 日本国内向け )をしたことはあります。(200705160416)


 基本としては、「善=創造(真に創造目的の破壊も含む)」で「悪=破壊(真に創造目的の破壊を除く)」だと思います。善なる力は創造(修復=維持を含む)し、維持するので、常在であり、一方、悪なる力は一時的な作用を及ぼすだけであり、それは継続には馴染みません。例えば、武力がそうです。絶えず武力を使いながら生活など出来ません。飽くまで破壊の力を「(護身など)善用する」為の武器である筈です。しかし、破壊する力なので、その効力は一時的です。もしも、それが創造的な力を出す「健康光線銃」だとしたら、絶えず光線を浴びていてもいいかも知れません。なぜなら、創造的な力は常在し、宇宙を維持しているからです。(200706060244)
【→阿修羅発言 ←「EU:死刑問題について日本と対峙せよ = アムネスティ・インターナショナルEU事務局」(200706070017)】


 リサ・ランドール著の「ワープする宇宙―5次元時空の謎を解く」という本が出て、科学者としての立場から詳述している優れた本が出たそうです。第5次元の概念的な捉え方を説明しているそうです。私も読みたいのですが、お金が出来てから(^^;。ところで(^^;、ブリトニー・スピアーズ(Britney Spears)の「Overprotected」の中で、第1〜第7次元の全てが網羅されている点に触れておこう(^^;。彼女は第1〜3次元を「I need space.」で、次の第4次元を「I need time.」で、第5〜7次元を「I need me !」とまとめて述べておられます。この曲は2001年11月5日〜11月12日にリリースした3rdアルバム「Britney」に収録されているそうです。多分、日本人か誰かファンがいて、彼女を独り占めしようとOverprotectしていた様子が伺えますね。彼女はそれに抵抗表現をしていたのでしょう。美人は過激だ(^^;。え?芸術は爆発だ!?(200708201947)

【2007.08.21(火)の夢で高額をヨーロッパ人から請求されましたが(^^;、上の事実を提示するのは、リサ・ランドール氏に対する如何なる否定的意味も存在しません。つまり、リサ・ランドール氏に対しては人類の理解を拡大してもらって感謝を表明します。当ファイルに単に事実として記録しておくだけの発言です。私が何か積極的に出てゆく積もりはありません。(200708211027)】

























































目次(生まれる想い)に戻る