[教育について]のほうに、社会性に対して、性を不当・不正に扱う必要は無いという真実について導入口となるものをタイプしました。要は、イメージではなく、細かい事実関係に拠って性を捉える事で養なわれる感覚を持つようになれば良いと思います。(200702061658)

 ドクター中松氏の説(^^;では24才までにSEXをすると「頭が悪くなる」そうです。私みたいに「人間が壊れて悪くなる」とまでは言わないところに意匠性がありますね(^^)。二重マル。(200501312303)

 これも言わずもがなですが、備忘録的に記しておこうと思います。人の性格が社会一般に対して「破壊的破壊の方向、苦しみのための苦しみを増すようなもの(=迷惑と総称)」であった時に、その個人の性格は矯正することを求められます。そうして、社会への迷惑となる[行為>発言>発想(意図)]を持たなくなるように生理的・生物学的変化(矯正)をするよう求められ、そうせざるを得なくなり、また、そうして行く事になるのが一般的で、ほとんどだろうと思います。

 逆に、ある社会が民に対して「破壊的破壊の方向、苦しみのための苦しみを増すようなもの(=悪政・迷惑と総称)」であった時に、その社会のルールは矯正することを求められます。そうして、民への迷惑となる[行為の発動>発言>ルール・発想(意図)]を持たなくなるようにルール変化(矯正)を求められ、そうせざるを得なくなり、また、そうして行く事になるのが時々起きるのだろうと思います。

 社会よりも個人が矯正を受ける場合のほうが圧倒的に多いのは明らかだと思います。

 このようにして、人の性格は社会からの矯正を受け、逆に、社会の悪法・悪ルール(または権力者)は、民からの矯正を受けます。以上は、「分かり易い例」の基に述べました。

 個人が矯正される場合のほうが多いのであるから、気をつけるべきは、「分かりにくい個人の場合」ですね。例えばある人の社会活動が「創造的破壊の方向、喜びのために一時的な苦しみを仕方なく増すようなもの(=社会変革と総称)」であった場合は、その個人の性格は正しいのであり、変化すべきは社会(周囲の人々・個々人)のほうである、という点ですね。

 また、「正しい人」のその正しさに対して「形ばかり正しいじゃないか」とか「そんな社会的な振る舞いばかりの正しさは本当じゃない」とか「言いたくなる」性質の人々がいます。その「社会的に正しい人」は、社会から矯正を受けたり自己反省をしたりして変化して来た人だということを意味しています。だから、正しい人は一般的には「社会的に正しい」事になります。一方、社会的に正しい人に我慢ならない種類の性格の人(々)は、もしその不満を[行動>発言>意図]するのであれば、社会から矯正を受ける対象になろうかと思います。正しさに対して不満を持つ人(々)は、最終的にはそのような不満感(意図の根)まで消し去ることが求められます。あるいは、不満感を生じるような物の考え方を変更するように求められます。少なくとも行為そのものは、止めることを要求されます。不満を持つ人(々)は、「社会的に正しい人」の社会的ではない[個人的な側面(=性)]を取り上げて「見よ、彼にも社会的ではない(という表現で“反社会的”だと匂わせたり)部分があるぞ」と進んで言う事によって、「社会全般に益する者」を、醜い動機によって社会から切り離そうと画策します。その種の画策(=正しいことを間違いだとし、間違いを正しいことだとする発想・意図)の根っこの部分には、人間的なものは何もありません。「正しいことを間違いだとし、間違いを正しいことだとする」のは、人間性という「縛り」に反発し、攻撃する性質です。これは単なる動物の動きです。故に、動物の視点から「自由」を唱えることは人として社会として間違っていると言うことが出来ます。非があるのは、これらの動物的な精神モードでうごめいている人(々)の側です。そのようなことを社会全般(または権力者)が理解すべき点だと思い確認し、主張します。(200401020243)

 「感じたい」と「表現したい」は、実際には、あらゆる「中間領域」にも展開されています。「感じたい」の場合は、五感として色々な感じ方が細分化しました。「感じたい自分」を発端・根として成長した木の最終形・結果であるそれら目や耳や口や鼻などの外形配置が「顔」という、「表現する自分」の形を形成しています。
 人が人間社会などの環境の中で自己を表現しようとする意志を発端・根として展開した色々な言葉や組織や人脈などの最終形の表現結果の中に自分を感じます。そのように実際には「中間領域」が世界を占めていますね。
 二つの極は、まさに極だと思います。(200311242024)

 先日、[快適な社会にする方法]のほうで、「2つの善なる極性がある」と話題も出ましたので、そろそろ、まだ述べたことがない人型の秘密を明かします。

自己を表現したい(xyz):外向

 あなたの両腕を水平面上で90°の角度にして、真っ直ぐ伸ばして下さい。すると、あなたの胴体−首−頭部ラインと直交して3次元座標軸のxyz軸がそこに現れました(胴体=縦軸なので、z軸ですね)。それは、もともとそうだったもので、人に気づかれるのを待っていました。その原点オー(声帯)からは、美(=自己[高次元が連なる])が「表現」されます。言葉(左脳)も歌(右脳)も声で表現されます。既に[戦争終結への道]を読まれた方はお判りのように、原点オーには、第4次元以上の全次元が含まれていますが、隠されています。故に、高次元の(自己・神霊の)意図(5)や目的(6)や存在(7)が言葉やイントネーションとなって現れてくるのも自然であると分かります。物理的第3次元全体を動かすパワーが第4次元としてみなされるわけでした。声=表現された高次元ですね。
・自己の存在(7)は神によって与えられたもので、人にはコントロール出来ません。
・自己の目的(6)は、360°全方向に全く自由に設定する訳には行かず、自分の傾向や感性などの制限内で、自分が満足できるような目的を持ちます。
・自己の意図(5)については、これは比較的自由に、自分が興味の無い事柄に関しても、ある一定の意図で行動できます。人がやりたくない仕事を遂行出来るのも、この意図(5)の自由度があるからですね。

自己を感じたい(XYZ):内向

 あなたの両足を水平面上で90°の角度にして、真っ直ぐ伸ばして座ってみて下さい。すると、あなたの胴体の鉛直線と直交して3次元座標軸のXYZ軸がそこに現れました。その原点オー(性器)では、美(=自己[高次元が連なる])を「より深く感じたい」わけです。原点オーには、第4次元以上の全次元が含まれていますが、第4次元軸が人によって「使える」ように具わっています(社会的には隠されています)。その第4次元軸とは、性器です(男性も女性も、まさに“軸”です)。男性と女性が、お互いに「深く感じたい」と交わっていても、第4次元軸は隠れており、見えません(物理的3次元空間内の出来事ではありますが、4次元軸の象徴として理解できます)。第4次元は時間という「3次元を進めるパワー(→阿修羅発言)」であり、そのため、そのパワーが人生の原動力なのかも知れません。また、それは単なる原動力ではなく、高次元が内包されています。第4次元【自己存在(=第7次元の“方角”は、第4次元を入り口とするその背後の方角:内へ)を感じたいという覚醒に向かうパワー、原動力】は、第6次元(生殖という目的)を満たすような促し=第5次元(交わりたいという意図)を内包しています。

 (xyz)が外向的自己(顔=表現したい)であり、(XYZ)が内向的自己(性器=感じたい)です。この両面で「2重螺旋」をイメージさせますね。また、表現・表情(顔+声など)においても、積極性(高周波[=高エネルギー]音=女性)と消極性(低周波[=低エネルギー]音=男性)という両面で「2重螺旋」をイメージさせ、性器においても、積極形態(男性)と、受身形態(女性)の両面で「2重螺旋」をイメージさせると思います。あらゆる側面で「2重螺旋」をイメージできるようです。

 基本的に、人には自由意志があり、侵害しないように気をつけてタイプしたつもりなので、私の文章によって「〜されてしまった」人に対して私から述べる言葉は、「その意図は私の中に存在しません」となります。私の意図は「原理(だと思ったもの)を明らかにする」だけです。(200311222100)
 もしかしたら、エンシェント・アロー遺跡の第24室に書かれてあった壁画の中央の緑色の人物の「性器」が宇宙に繋がり、「喉」が他の人々に繋がっているという意味合いがあるのではないかと思った。このページからリンクされたファイルとしてあったものです。(200410230006)

 私は最近、「嫌悪の壁」を突き抜けたばかりの段階にあります。それによって多少、変化しました。クライオンの翻訳を、ちょっとやった時の変化がさらに具体化したのかも知れません。どんな変化かと言いますと、「認知されたい」という気持ちが伐採された、という感じです。人は、自分の善意が悪意に解釈されて10年も「解釈攻撃」を受けているとそんなふうにもなるんですね。70歳や80歳を超えているような人の振る舞いや言動を見ていると、「認知欲求=周囲への依存精神」を発揮する方が沢山おられますので、まだその一線を越えていらっしゃらないのだと分かったりします。それに、私はほとんど意識もしていないのに、「あちらさん」は、私を加害者にしようと必死になっているけれど、加害者にできなくて説明に窮していたりするのを見てても、「認知を受けるために大変ねぇ」と思うだけです。

 そんな時、私は、今までの自分の中の「実態とはかけ離れた思い込み」に気が付きました。その「間違った思い込み」とは、「結婚や恋は人間的に行われるべきである」というものです。ところが、実態としては、結婚とか恋の時期にある20〜30代の男女は、人間的な関係の上で、「(人として)最低のこと」をする傾向もあります。例えば、人の結婚を言葉巧みに妨害したりすることです。何年も経ってから、どんな(自分の)作り話が(周囲の人々に)信じられていたのか、それを知った本人は、愕然とするかも知れません。

 それで若い人に私が伝えるべきと思ったのは、「恋の時期にある20〜30代の男女」は、もし、結婚や恋を成就させたいならば、「動物法則」によって物事を予想し、対処しなければ成就は難しい、という点です。
 私は以前、スブドという会にいた時に、自分よりも10才以上年の離れた男性が、私の気になる女性へアプローチを始めたりしたのを見て、自分は自発的に「引き下がった」という側面もありました。それは単なる側面の一つでしたが。でも、そのように人間的に振舞っていては、恋・結婚は成就しないのです。でも、ほとんど全てのこのような場合、実態としては、人は弱い(この場合、年上の男性の)立場の者を押しのけて自分を優位に立たせようと動物的に振舞うのでしょうから、心配は要らないのかも知れません。ただ、生真面目きまじめな人が、このような場合に、自分を無にして弱い立場の者に譲ったりするかも知れません。そのような判断は、「“相手に認知されたい(動物的な)段階”にある恋・結婚というもの」においてはふさわしくない判断だったのですね。そもそも、そのような判断は相手の異性にも失礼ですね。それに、それは「二人だけ」の事なのだから、周囲の社会が「口出し」したり本人達の知らないところで「コントロール」したり、ヤクザを雇ったりするのは(もし、あったならば)全くの間違いですね。私の場合、以前から、このように人々が(私個人の恋・結婚を妨害しようとして)「色めきたって仕方がない」ですわ。つい最近では、社民党が色めき立ったりしましたね。既婚者が未婚者の結婚妨害をするというのは、どういう神経なのだろうかと思う。それで今回の発言は、「生真面目な人」を、ちょっと心配に思って「動物的に勝ち負けで判断し、振る舞うべし」と伝えようと思うのです。(200310092354)

 阿修羅発言にありましたが、ブータンでは、テレビが普及した途端、国民が道徳的に荒廃した事例があるそうです。それで思ったのは、私もかつてその「ネック」を渡った記憶でした。

 学生の時に宗教とか倫理的な自己規制を行っている人もいるし、特にそうしていない人(まあ、人によっては宗教とは老後の事となるようですが)もいます。ただ、何らかの意味で自己規制を行っている人のほうが多いのではないかと予想します。その後、本人は社会に出て、企業やら組織に所属し、給料をもらうようになります。ここで今まで宗教人間であった人達は大きく2つの道に別れて行きます。

・片方は、今までの宗教活動は幻想であり、趣味であり、表面的な自己満足であった人々。(大多数)
・もう片方は、さらに宗教を深めてゆく人、すなわち、会社で決まった時刻になると床に絨毯を敷いて「アッラーフ、アクバル」とやり始めるタイプの人です。(まれ

 私は後者のタイプでした(私がイスラムの礼拝をしていたという意味合いではありません)。勤め先でもスペース・ブラザースとのコンタクトの事実を自然に話していたものでした。ある勤め先では、研修が終わる頃に、「嘘をつかなければ仕事が出来ない」事実を初めて知ったために、その場で辞職しました(皆がこのようにすれば、「悪い仕事」は世の中から消滅するのと思うのですが…)。こちらのタイプの人は圧倒的に少数派なのです。ほとんど大部分の人は前者の大多数タイプであります。宗教団体や精神修養の組織にいる人も、半分程度の人は嘘を付き、人に嫉妬したり妨害したりするものだと思います。私のように人の恋や結婚を妨害したことは一度もないという人間は「まれ」なのである。その点、グルジェフ氏は、60人を超える弟子達全員の生活費を彼一人でまかないつつ第四の道(知[ファキール]だけでもない、情[修道僧]だけでもない、行[ヨーガ]だけでもない、3つの道を統合した道のこと)を伝授するという、まさに超人でしたね。

 ブータンの人々もテレビが生活の中に入ってきた事で、今までの自然的生活の中での自然的人間性が影響を受けたのも、これは自然な成り行きですね。その自然的成り行きを如何に超克してゆくか、というのがテーマになる宗教的・倫理的な人(稀)と、テーマにならない普通の人(大多数)がいますね。ホルモン・ショックを経ずに成人した人であり、かつ、高い道徳・倫理(・宗教)教育(及び自己教育)を受けている社会(個人)であれば、稀な人を多くできるだろうとは予想します。

 また、7/11(金)にはNHKの「特報首都圏」(19:30-19:55)で、日本国内にいる中国人が犯罪に走るのは何も蛇頭だけではなく、中国人の一人っ子である人が多いのだそうでした。一人っ子は比較的甘やかされて育つので、自己の意志・判断が軽い傾向があって、ちょっと誘われただけで犯罪に手を染め、それが悪いことだとも特に思わずにその後も悪い人に誘われるままに犯罪の為に利用されたりして罪を重ねてしまうようです。多分、一人っ子の人の精神は、自然的成り行きで流れる場合が多いのでは? 確たる自分の判断と意志で運用するようになる教育→自己教育の過程が教育には必要ですね。

 なので、私としての結論は、社会が道徳的荒廃という「現象」に至るのは、精神的な教育を受け、その上で自己教育できた人が少ないからだと思います。ホルモン・ショックを経ていてもいなくても、大多数は自然的成り行きの判断を超克して自己克服して行こうという精神性・意志は特に持たない場合が多いのだろうと思いました。ただ、ホルモン・ショックを経ずに成人すれば、道徳的荒廃現象は起きたとしても、道徳的精神的自己荒廃(=人間が腐ること)までは起こさないのではないかと予想・期待します。(200307122253)

 下記にも一度述べたことがありますが、最近私は、“英語圏の人が何か物事を「悪く言う」時に「Fucking〜」という言い方をする”のが気になります。この前のイラク戦争のときも、アメリカ軍の人がイラク人の手を頭の上に組ませて「Fucking〜」と言っていた映像が思い出されます。FUCK=SEXなので、人生を最高のものにも最低のものにもするパワーを悪く言っている傾向が英語圏の人々にはあるのだと思います。でも、性を常に良く考える傾向の文化のほうが良いとは思います。そうは思いませんか? だけど、それは、ホルモン・ショックを経験せずに安定的に成人できた人が多い進んだ社会でしか実現できなさそうですね。なぜなら、ホルモン・ショックを経験して精神が奇形になった「性」格の悪い人々が、「性」格の良い人々に危害を加える場合が増加するだろうからです。これでは、性を悪く考えがちの社会のままだろうから、社会は「進歩しない(進歩できない)」ということになりそうですね。

 多分、SEXの前後における両性(それとも片性?)の心に抱いた想念というのも、それによって生まれてくる事になった子供の精神(魂)の傾向をある程度決めるのではないかとも思います(仮定)。だとしたら、Fucking中に、それを何か悪いものであるかのような想念を心に抱かないのは、個人としては当然・必要だし、社会・文化としても、「性=善」なる環境・傾向に包まれているほうが良いと思う。

 で、そのような「性=善」なる進んだ社会が実現したらしたで、今度は、「いくら性=善と言っても、誰彼構わずSEXしても良い」などというカルトが複数出てきそうです。社会全体がそのようにカルト化しないためには、自分が一個人として「(なるべく)強く磁化した個“性”」であることを維持・強化すること・であることを絶えざる指針にする必要があるのではないかと思います。自分が特定の異性だけに強く惹かれ・(異性に)磁化されるという経験は多分誰にもあると思います。いつも自分に磁化している人は、相手から磁化された部分を忘れずにずっと維持するものだと思います(簡単に言えば、一度好きになった異性を長期間好きでいる・覚えている事)。そのように強烈に「自分に磁化した個“性”」という性質が、進んだ社会・文化の中で、「不特定多数との“良い行い(SEX)”」を避ける防波堤になると思います。なぜなら、ある決まった(系統の)異性しか選ばなくなるからだと思います。

 ちなみに、なぜ「不特定多数との“良い行い(SEX)”」を避けるべきかという理由は、そのように行動してしまうと「磁化」の面でシャープさがなくなって来てしまい、多分、「自分という個性での磁化」を維持する力も弱るだろうと思うからです。「自分で在る」というのは覚醒意識ですが、社会的な「意味」においても、「自分である」というのは色々な場面で感動したり堪能したり等々の側面で大切な事・基礎だと予想するからです。これはつまり、そのような基礎が弱まってボーッとする(^^;事ではないかと思います。これでは人生に意味も意義もましてやリアルさも滅多に感じられなくなってしまうと思います。

 それから、暴力団対策法を守るとか、中国の蛇頭の日本への流入を阻止するとか、その種の方向のみよりも、全世界的に「ホルモン・ショックを防止する」だけで、人類社会は、「かなりの改善」を見せるようになってくると思います。(200307050105)

 阿修羅掲示板発言:【日本は?】禁欲教育が米で広がり(世界日報)
 これで、アメリカでは「人間的」な人財が育つことでしょうね。「東京新聞」「産経新聞」では即掲載したが、日本版「ニューズウィーク」には掲載されなかったそうですね。日本版「ニューズウィーク」編集長とかが童貞を失う時期が早かったのが真の理由かも?そうではなかったとしても、日本人って、物事の判断や考え方が「極めて自己中」ですよね。日本の教育に欠けているのは「客観視点」を活性化するような要素ではないか?と思いました。(200212212128)

 以前、私は@Niftyのどこかの会議室で「歌を歌うのは性欲ではない!」と主張した事を最近、思い出すので、誰かがそういう批判を行ってるのかな? その答えは、簡単です。当時は未だ、下記のような総合的な視点を持ってなかっただけの話です。歌手が歌を歌うのが「社会的認知欲求」としてであったらば、それは外向きの性欲の延長のようなものでしたね。でも、それが「美をする心」としての歌であったならば、それは覚醒へと向かうものですね。当時は後者の意味合い「だけ」で主張したのだと思います。性欲(社会的認知欲求)の観点が欠けており、半分だったと思います。(200111301836)

 ルドルフ・シュタイナーによると、物質に対応する物質体があり、植物に対応するエーテル体があり、肉体の生命維持・成長・修復の働きをしている。動物に対応するアストラル体があり、人は内的精神作用を持つ。人間に対応する「自我」は、内向きと外向きの2種類あるのである(シュタイナーもその旨言ってる)。この2種類があることにより、人は「自覚(=覚醒意識の意)」を持てる。ただ、これらは「内向的」とか「外向的」という意味ではない事に注意喚起したいですね。「内向き」と呼んだ側面は「自主独立の霊的自我」であり、「外向き」と呼んだのは、「(感覚器官により)周囲依存の肉体的自我」という事です。以下の文章はそのような意味合いで読んで記憶、そのうち理解して下さる事を希望いたします。
 動物と同様、人にも性器がある。アストラル体より上の自我を個体内に持たないのが動物なので、性欲をコントロールしているのは種としての自我(1つ)であり、一種の法則のように動物個体の性欲がコントロールされている。人間の場合、1個体に1つ(1組)の自我がある。故に各自の性欲は各自の自我でコントロール可能。
 人の性欲を言葉にしますと、それは「もっと自分を深く感じたい」というものです([MSさんへの第8通目]参照)。これが人生で満足や不満足を感じるベースとなっています。ここで、

1)外向きの自我が主導権を握ると、人は「もっと感じよう」として、過激な事を言っ(て、目や耳で確認し)たりもします。「感じる」為に、外側へと満足を求めようとします。これはまた、子孫繁栄の為の(外界の)異性を求める衝動としては必要なものです。しかし、「幸福を外側へ求める」のを突き詰めようとするのは人の道とはチョッチ違います。お金持ちになったり、立場が上になったり等、色々「外側の幸福」は一時的に得られるでしょう。中でも、外向きの自我が優勢な人が好きな人と結ばれたりした時には「幸福の絶頂」と感じる反面、「SEXとはこんなものか(=充実し切れない感覚)」とも感じるのだと思います。これは本人が常に「内向きの自我として生きてない事」を感じていることが顕在化したのですね。「SEXが満たされても感じるこの不足感は何だ?」という事になるのでしょう。
 そういうものの正体が分からないまま人は組織や社会等の外側のものを作って、自分の好む刺激を外側に求め続ける側面があるのですね。だから社会的な認知を欲さずにはいられなくなるのです。この場合、周囲社会に対しては、「不必要でも自分の満足するまで」主張し続けるのでしょう。
 また、このように外側の自我だけで生きていると道徳というものの「社会的な側面」しか分からなくなるので、「そのように見えた道徳律」を不必要だと判断してしまうのですね。それで「過激なまでに自由を求める、振舞う」みたいな間違った方向付けをすることになると思います。発想が「力」によって方向付けられがちとなると思います。

2)内向きの自我が主導権を握れるならば、人は「もっと感じよう」として「自覚を深める(覚醒)」でしょう。これは性欲のテーマを満たすものとなります。反面、外向きの自我も持っているため、異性と交わる(子孫繁栄)事をオプションとして満たしたいのも当然です。ただ、突き動かされたり、深刻な事態ではなくなり、飽くまでも「オプション(選択肢)の一つ」というものとして性欲やSEXが理解されるようになると思います。
 そうなると、社会的認知欲求から自由になると思います。この場合、周囲社会に対しては、「必要な事だけ言っておく」というような対応になると思います(多分、無駄を省かない性格でない限り)。
 また、内向きの自我で生きていれば「道徳律は、かなりの程度、霊性の発達と調和的だ」と、なんとなくでも分かってると思います。道徳律(例:謙虚さ、親切、善意等々)は、基本的に、人が「弱さの中に美を見るように仕向ける」と思います。だから、道徳律によって「自分の自由が縛られる」とは感じず、道徳が自分の感性と調和して生きれるのです。(私はそのような霊性から考えることで、社会は必然的に整うと思うので、直接、社会のルールとかの発想はしません。道徳律がどのように人間の霊性、すなわち、シュタイナーの言う「蓮華の開花」に関係しているかという具体的な詳細については、イザラ書房の「神智学」や「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」等を御参照のこと)

 人は覚醒(自己)を求めているのです。自己が体から離れると、性欲を含めた全肉体機能が停止します。自分>性欲です。性欲が人生の全てと捉えていると、人生の何処かで齟齬が生じて来ます。性欲にそのようなパワーを与えているのは「自分」なのです。
 また、社会的側面から言えば、このような人間の性を「利用」して、「囲い込み」を意図するという側面に気づいていることも必要な事だと思います。また、外向きの自我には社会的な価値しか見えないので、「自分に素直な性欲と、自分を締め付けるプライドのどちらを採るか」みたいな、「両方とも初めから」社会的な概念を人々に提出してぶつけ・比較させることで、霊的な道に従う者も「同様の比較や価値観しかあり得ないのにプライドだけを守っている」かのような印象を、何も知らない人々に対して作り出すような(意図を持つ)人々にも注意したほうがいいでしょう。浜崎さんも言ってるじゃないですか、「そんな質問(質問の種類が違いますが)は止めましょう、あなたが咲くのなら」と。そのような欲望の強さは、彼ら(?)[そういった人たち]自身の性欲が、外に求める種類の「自己確認(自分を感じたい)」だからですね。その本質は異性を求める自然な要求から発するものです。ならば、社会化せずに素直に単に異性を求めればいいのである。更に言えば、その自然な要求自体、「性欲や肉体をも」生かしめている生命力(自分)によって更に下支えされているのである。つまり、外側に異性を求める前に、先ず我在りきなのです。これは真実・事実であり、プライドというものではありません。また、結婚(特定の異性とのSEX契約)している人間がその種の社会的展開(=自己の主張)をし過ぎることは相応しくない事にも注意を払う必要があるでしょうね。これは勿論、「必要な主張や論」を否定するものではありませんよ。道徳というものは一つ一つ明文化するよりも、自然な内発的理解によって各自が根拠を自覚しつつ行動して行くようなものでありたいですね。そのためにも、「正しい人間理解」が必要です。未だに「彼は人に認められたい気持ちが無い」とか言う言説を本気で信じる(フリ)人も結構いるような気がします。「フリ」と書きましたのは、そのような人は潜在意識の中で、「そんなことはありえない」と初めから分かっているからです。(200102010031)

 内分泌系が完成する20前後の頃までは(つまり、若い頃は)、人は性を遠ざけ、SEXに対する恐怖心が働くのは自然な傾向です。身体が完成し、その意味で大人になるとSEXへの恐怖心や回避を、それほどしなくなって行きますよね。また、精神的には、この頃は、自我が外界からの支配やしきたりを嫌がるという一時的な時期が重なっています。自分の事は自分でしようとし、自分の考えは自分の考えになって行くでしょう。(普通の意味で)自分であろうとする時期ですね。でも、まだこの時期は、性悪説の時期なのです。内分泌系が完成するまでの間は、性悪説は必要です。ですので、話題を(本当は)避けたりしたいし、SEXが怖い感じがします。だから、性欲だけが何か悪いもののように思えたりします。それで性欲と戦う事で、自分の意志と性欲のどちらが強いか試そうとするのでしょう。

 ここで性欲(まだ性悪説)に勝つと、自己認識として、彼は自分が自分の支配者となります。そして、今まで長い間、悪く見て来てしまった性の大切さを理解します。ここで一大転換があります。彼の潜在意識が性善説に変化するのです(大人になる)。
 ところが、性欲(性悪説)にいつも負けてしまうと、自己確認が出来ないまま、自分で自分の支配者になれないままになります。すると、彼は自己認識として、性悪説から抜け出せないままになり、本来は自己確認のはずの性を他の人に持ち出し・当てはめて、相手の人も彼自身を支配できていない事を確認しようとします。そのように仲間を見つけて安心するのでしょう。しかし、彼自身は性悪説を脱しきれないままでしょう(子供)。

 よく、「彼だってやってるはずだ」とか「彼女だってしてるはず」とかいう事を言ったりしますけど、これはまだまだ性悪説の立場から抜け出せないでいますね。

 また、補足しておけば、性善説と言いましても、「人として与えられた自由の範囲」があり、どんなことでも社会的にOKという内容の事を言ってるのではありません。(200006210406)

 芸能界など見てると、簡単に処女・童貞を亡くす人が多い理由の一つに、そのような事柄に対する「軽い考え方」を見て取る事が出来ます。馬肉に関してちょっと聞こえて来て知ったのですが、馬肉などでも、童貞の雄の馬肉は、そうじゃない馬肉とは「明らかに違う」のだそうですね。これに関してシロートの私などが考えても明らかに判ることは、最初のSEXによって、お互いに、免疫系が相手の自我によって「磁化」され、以前の自分(免疫系)ではなくなる、という事でしょう。多分、自我の強いほうが、弱いほうの免疫系を「支配」するのだろうと予想します。そうやって免疫系における鍵と鍵穴の関係も、ピタリ一致するようになるのでしょう。免疫細胞が皮膚において神経系と接触しているというのは厳然たる医学的事実です。また、女性の子宮内に宿った子供が、その女性の免疫系によって異物として排除されないということがまだよく判ってないそうですが、SEXによって相手の免疫系に磁化される(一般に、女性側が)体験を経てから受胎するからではないかと予想します。(この点で、人工授精はどうなんだろう。拒否反応は起こらないみたいだけど)
 SEXは内分泌系が安定化した20才頃以後であればホルモン・バランスを破壊することはありません。ただ、年齢的な問題がなかったとしても、最初のSEXで「磁化」されることには違いないと思います。そうなってしまった人は、最初の相手以外の人から見ると、「汚されてしまった」という事になります。(勿論、その最初の相手からすれば、「一体になった」訳ですが)既に、その人には、別パターンの自我が(免疫系に)刻印されたのである。SEXは、生涯その相手とだけ行うのならば、人間的なSEXですが、常に違う人とSEXをしているようであれば、それは動物的なSEXであり、そういう人の免疫系は、複数の「磁化」を経験して、いわば、(鍵も鍵穴も)のっぺらぼう状態に近づくのだろうと予想します。(200002180652)

 従って、女性の性が持つ「否定的な力」(下記)というのは、訳の分からない予想も出来ない幽霊みたいな力ではなかったのです。従って、夫が妻の出産に立ち会う事によって「訳の分からない影響」などは無いと思います。

 また、MSさんへの第8通目にも書きましたように、最近の子供達の暴力化の傾向は、主に「初体験の低年齢化」にあることは、明らかだと思うのですが・・・。昔から「性格の悪い人」というのはいましたが、最近はその割合が高くなっていると思われます。なぜ、小中高校の保健体育、道徳の時間に「ホルモン・ショック」(→私が見た元記事へ(200309112258))という明確な研究成果を子供達に「教えないでいる」のでしょうか? マスコミにも、ぜひ、知県ガンセンターの児玉教授の発見した「ホルモン・ショック」を世間に分かり易く説明してほしいと願います。そうすれば、「皆がやってるからやる」のではなく「肉体が完成するまでしない」という明確な判断となるのです。前立腺ガンの研究でも相関が出ていますように、初体験の年齢が低い人は、それだけホルモン・バランスが崩れて成人した可能性の高い人であり、そういう人は前立腺ガンにかかる確率が高くなっているのである。他のガンでも同様では? だから、子供の時に性体験をしないで置くというのは、将来のガンの発生率を低くする為にも、必要なのでは?(199903310535)

 また、女性の、この「自分以外の周囲への関心」という性質は、子供を持って母親になった時には、「いつも子供の事が心配で案じている」という性質として生きてくるのだと思いました。自然は良く出来たものですね。

 男性は一見、外的な事柄に関わっているように見えても、究極的には、自己(や自分の目的・趣味・研究等)を探求し、改良しているのであり、良い遺伝子を作ろうとしてますね。女性も一見すると社会へ進出しているように見えますが、実は男性に認知されようと努め、子供ができたら母親として子供のことに心を配るというようになっているようです。結局、「性=創造的な力」として括る事が出来ますね。(199903260359)

 以前、あるチャネリング・メッセージで「男性の性は肯定的な力だけであり、女性の性は肯定と否定の両面を持っている」というものがあり、これについて最近、思う事があります。百科事典を見ると、男性の精巣はリンパ液(白い血)だけが流れており、女性の卵巣にはリンパ(白い血)と血液(赤い血)の両方が流れております。白い血の性質が強い人は、スブドで言う所によると、人に全財産を与えてしまうような、利他主義者みたいになるそうです。これは霊性の肯定です。一方、赤い血の性質が強い人は、反対で、利己主義的です。これは霊性の否定です。つまり、「自分」に対して肯定的な力だけの性を男性と言い、「自分」に対して肯定・否定の両面がある性が女性なのだと分かりました。

 男性は「自分」に対する肯定的な力が大きいので、周囲の社会に対する配慮などどこかへ忘れてしまう事があります。逆に、社会的な認知(「自分」の否定)を不必要に求める男性は、女性的だと見なされるのだと思います。女性はどうかというと、自分を肯定するけれども、一方、周囲によって認知されたいという気持ち(「自分」の否定)が男性よりずっと大きいために、自分を忘れて、社会的認知へとひた走るのだと思われます。(199903250440)

「社会性」と「性」は反対の方向のものである。社会性は人に知られる方向、性は人に知られない方向が正しい。逆に言えば、「人に知られない社会性」とか「人に知らせる性」は過激と見なされる。「人に知らせる性」は、よくあるパターンだと思う。「人に知られない社会性」=「道徳的な心」という過激さはあまり見られないパターンと思う。社会性・社会的認知を本音として第一に考える人は、そのために性悪説になる。これは人間として非常にまずいパターンでしょう。その種の人間の、その性質を逆手に取った支配傾向(これまた社会性第一タイプ)の人間も問題でしょう。性を手軽に社会的に扱う事によって周囲の(性悪説の)人間を支配したくてしょうがないというのは、やはり、人間として問題がある感じがします。そこにはただ、動物的な傾向の人間しか残らないでしょうね。早く人間になって下さいな。(199712200306)

理から申せば、基本は下記のようになるとは思いますが、ただ、現実を考慮すると、色々な人がおり、色々な場合がありますから、例えば結婚前にSEXした事を全く気にしない相手と結婚するならば、それは裏切りにはならない訳ですし、まあ、私が思い付かないような色々な場合があるのは勿論でしょう。SEXとか結婚というのは、善悪の判定をするのは通常、「相手」という、ただ一人の人にかかっていると思います。価値観というものは大体何でもそうだと思いますが、SEXとか結婚の価値観も人により違いますと思います。法律とかそういう「社会」に基礎を持ったものは、その基準は社会や総意にあるかと思いますが、SEXや結婚の善悪の判定は通常は社会ではなく「相手」でしょうから、ここが一番大きな違いではないでしょうか。でも、相手と自分だけで構成された、社会の最小単位でもありますね。(199708180303)

・SEX:

イスラムでは、SEXが神への礼拝行為と見なされていたそうです。仮に男=+、女=−と仮定すると、天地のバランス=美は、両者の間に生じることになります。それは精神的には恋であり、肉体的にはSEXですね。その時、男は女を見ると、そこに0=∞=神を見るし、女が男を見ても、0=∞=神を見るでしょう。お互いに神(0)を見るのです。だから「神への礼拝」と見なされていたのだろうと思います。ついでに言っとこうと思いますが、中森明菜さんの父親=明男さん(=私=明夫)であり、私の父親の誕生日=7/13(=明菜さんの誕生日=7/13)であるので、お互いに父なる神を見る関係にありました。

・結婚:

私は、結婚とは「SEX契約」だと思います。つまり、「結婚相手以外の異性とはSEXしない」という契約を結婚と言うのだと思います。よく、「結婚という制度に捕らわれたくない」という言葉を聞きますが、私はこの制度は一つの自然的当然性の制度と思います。何が「当然」なのかと言いますと、「約束を守る」という事です。人間存在とは、エネルギーの持つ2つの局面の中間にいます。エネルギーには「情報・英知」と「力」という2つの側面があります。人間という存在は、動物という存在よりも、より「英知」の方向に優れている存在です。より情報化した存在です。だから、人間はやりたい放題やってるようでいて、動物と比べるとそれなりの秩序が整っています。つまり、人間とは「約束を守る」ことや、「規則を守る」ということを緻密・高度に行える存在です。そこに「契約」というものが自然的に、当然に出てきます。SEXにしても、例えば、自分の恋人以外の異性と交わる事は、恋人への裏切りとなります。裏切りとは、なにもSEXだけの事ではないのは確かです。「Aに関して誰にも言わないで下さい」と頼まれていたのに、Aに関して他言した時、それもまた「裏切り」です。「約束・契約を守る」というのは、理にかなっていれば、私は当然の事だと思います。「結婚という契約」が生じるのは、その「守る」という当然性を犯す場合があるから、「より、守らせる方向」で結婚制度というものが生まれてくるという発想はおかしくはないと思います。当然の考え方と思います。更に発展させてみれば、結婚前に異性と交わることは、将来の結婚相手に対する裏切り行為だということになります。また、2段目の当然性としては、「義務・責任」です。結婚した事による結果(子供・所有物等)に関して義務・責任が生じるのも、当然性があると私は思います。(1997.07.29)

性とは

 この前、「たけしの万物創世紀」という番組で「なぜ、男と女がいるのか」という企画をやっていた。そこでやってたのは、ミジンコというのは、「良い環境」にいる時は、単為生殖を行い、メスだけでどんどん増えて行くのだそうです。それで、環境が悪化すると、オスを次々と生み出し、両性生殖を行う、という内容だった。それが何故かというと、単為生殖では自分の持ってる遺伝子がただ単にコピーされて行くだけなので、丁度、書類などをコピーにコピーを重ねると元の品質が段々と劣化してゆくのと似ているそうで、それで、その単為生殖は環境が良い時だけであり、一方、両性生殖は環境が悪化するとオスが出てくるというものですが、これだと、全然違う遺伝子を持った2つの個体が両者の遺伝子を混ぜ合わせるので、そこに新しい遺伝子が生まれ、遺伝子としては、劣化を免れるようになるのだということでした。つまり、男と女がいるのは、遺伝子の戦略だったんですね。今日、1997.11.29(土)のTBSの特番「人間とは何だ‥‥!?」でやってましたが、性というシステムによって子孫が続いて行く恩恵として、現在、エイズに感染しない人が生まれてきているのだそうです。(199711300313)


人類は種としての遺伝子を担い、守っている存在である。
遺伝子には壮大な人類史が眠っている。それを感じられるかい?
人は遺伝子を守らなければならない。
あなたの性を大事にすべきである。

性を俗として扱う理由は、人が性の無理解によって自分を見失う姿、イメージ、
単にそれだけの単純な理由である。
性を簡単に否定的に扱ってはならないのである。

人類種は、勿論その遺伝子を担っており、
それを守り、生殖して継承する為の存在である。
それはまた、実体が地上生活を体験するための乗り物でもある。
継承し、流れているものだから、それを自分一人だけの都合で扱ってはならない。
「性に関して守りに入ってたら、人に傲慢だと思われてしまう」とか
「大切にしてると、お高くとまってるのね、と思われる」とか思いながら、
自分一人の判断で勝手な扱いをしないほうがいい。

人類種としては:
遺伝子を守るために人は移動する(足)。
遺伝子を守るために人は道具を使う(手)。
遺伝子(自分)を守るために人は考える(頭)。
であり、そういう乗り物を実体は使うのである。
“そのために”人間には欲があるのだ。
神に従う余り、欲を無視するというのはしないほうがいいと思う。

あなたはあなたのする人を守ろうとした事はありませんか?
その「守ろう」とする時の周波数の高い(崇高な)思いが、
人類の中にも流れている「遺伝子を守ろう」とする、個人を越えた思いに共鳴する。
それは人類に対する深い、聖なる思いである。
聖なる思いとは、個人を越えた思いである。
それはここに述べただけのことに限定されない。

人は、ホルモン・バランスの確立する23才頃までは、ホルモンバランスを生涯崩し
てしまう影響力となり得る性的興奮(性体験)を体験しないほうがいい。

成人になっても、子供を授かるまでは遺伝子を大事にしたほうがいい。

子供を生まなくなっても、
「(遺伝子=性を)守っている」手本として振る舞う事は期待されていると思う。

                                           1996年6月9日(日)

(→阿修羅発言) (200411032101)

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