ところが、霊性と物質性の識別=区別=峻別を混同すると、不快が発生します。例えば、人知れず幸せ気分に浸っていると、その幸せそうな表情を見て、嫉妬のあまり攻撃し、彼/彼女の内的平安をかき乱そうとするバカが必ずと言っていいほど出てきます。そのバカは、皆に(そのバカを含めて)恩恵を(人類ハートのネットワークを通じて)もたらす筈だった彼/彼女の内的・霊的平安を、物質的・金銭的な(富やら地位やら名声やらの地上的な)物事で使用する回路により、同じもののように扱い・認識したので相対的比較の上で嫉妬しました。霊性と物質性を混同しています。
あるいは、例として大富豪がいたとして、周りの人が皆、彼を祭り上げるものだから、ますますその大富豪は自分勝手になって行き、社会的な迷惑度が増してゆくとします。「霊的な意味合い(諸力統合の方向)の幸せ」と考えてそれを増幅するならまだしも、物質的な利己心を増幅させてしまうというのも、混同してますね。すなわち、本来的には人は統合して快になろうとしますが、その快が一時的・物質的な快の方向になってしまっており、途中で見誤っていた為ですね。本来=初発=動機としては霊的なスタンスの幸せ探しという自然傾向が、いつのまにか社会的=物質的=金銭的な人工的方向へシフトしてしまうという混同が起こる訳ですね。
そういう訳で、ハートの人へ無用な圧迫感を、知らずにとは申せ、作ってしまっていたかも知れません。気づいたので自分のスタンス述べてみました。
また、某神霊は「人生を比較することは不可能だ」と述べておりました点もあります。某神霊の伝える視点があり、「人(でも何でもそ)の可能性を狭めると宇宙全体の可能性を狭めることになる」旨を述べておられました。つまり、豊かな人もあり、貧しい人もおり、それぞれにとっての必要な体験を「それぞれの立場・環境・生い立ちの中で」しているのだ、という視点があります。(200401130032)
2003.09.14(日)01:21に気づいたことがありました。これは前回タイプしました内容の後半部分の続きのようなものです。これをタイプします理由は、今まで私に暖かい言葉をかけて下さった人や、善意を持ってくれる方を、なんら否定する意図は御座いません事を最初に述べさせて頂きます。普通、このようなことを述べると、誤解されるのが常ですので、言わないほうが個人的に安全なのですが、この内容は、パレスチナ紛争の心理的な側面を解決の方向へ少なくとも向かわせるかも知れないので、「述べないでいるよりは、述べたほうが好ましい」という判断なのです。勿論、パレスチナにいる現地の方々からの誤解を受ける可能性もあるので、慎重に述べてみたいと思います。
これに気が付いたのは、私の潜在意識に、某神霊が述べたメッセージ「自分で見つけたものだけが自分のものになる」の記憶があったからでもありましょう。また、太陽出版の「黄金の約束」(ロナ・ハーマン著、\2,400)のP140が記憶にあったからでもありましょう。今、私は霊的な世界と物質的現世が「逆である」事、その不可思議さに感嘆しております。
・([動機>プロセス>結果]の人):([動機<プロセス<結果]の人)
蛇足1:
蛇足2:
前回、「心の底から社会を憎悪する」経験を述べました。自分の恋愛や結婚が妨害ばかりされる経験をする人はそんなに多くはいないかも知れません。ところが、私の場合、1984年頃から邪魔や利用や裏切りばかりです。相手が芸能人だからでしょうが、話をすることも出来ません。ただ、私はこの壁を突破できるのかどうかと思って継続してきました。そして、芸能界や政界が(後には某フォーラムの個々人が参加して)私の結婚どころか、人生が潰れようとどうしようとお構い無しであるのを10年以上見て、それに対して受動的に戦っている内に、それら社会への参加を嫌悪するような瞬間が来ました。人々が束になって私の結婚を潰そうとするから。諸外国からは「よく見えない」かも知れませんが、現代日本は、精神的には、このような極悪な状況になっているのです。このようになったのは、自分の利益第一主義・金銭主義の精神が当然の事としてまかり通って来たからではないかと思います。
私個人の性格は、[動機>プロセス>結果]です。動機を第一に考えます。次にそれを現実のものにしようとして色々なプロセスを開始します。種々のプロセスは人として間違うことの無いようにして導き大切にします。つまり、「結果」が得られそうであっても、大抵はそれを捨てて「正しいプロセス」を採る訳です。そして、追及した結果が得られれば、それは完全なものとなります。このような考え方をしていることが「幸いした」のです。
私は一見して、何もかも失って来たように見えると思います。パレスチナの方々も何もかも失ったように見えます。ここに、私の感情的経験との共通点があります。
「自分は“何一つ”間違った事はしていない」という気持ちが強くあります。正しかったのに叩かれ、奪われた。これを10年以上経験し、社会参加やその機会を心の底から憎悪した。しかし、ここで9/14(日)01:21に気づいたのです。私は「目に見える」側面だけしか失っていないということを。ここで上記でリンクした神霊のメッセージを思い出しました。「諸業無常」という言葉も思い出しました。私は「目に見えない」側面を、実は「得ていた」のでした。この世の権力や立場や金銭をいくら「得た」としても、それは諸業無常であり、いつか必ず失われるものでした。私の結婚を妨害したり、利用したり、騙したりを意図して行って来た人々は、私からそれらに関する真実について「触れられるのも避けていたい」という心理です。そのため、彼らの行動は、逃げるばかりとなって行きます(このような事もあって、ますますコミュニケーションが困難になって行く側面もあるかも知れません)。彼らは(意図的悪意で)この世を得たが為に、自分の魂に「暗部」を作り出してしまったのです。ところが、私にはそのような「暗部」が存在しない。なぜなら、[動機>プロセス>結果]を貫いて生きてきたからです。勿論、それは結果が「訳もなく奪われる」体験の連続であり、「歯を食いしばって」という表現にも該当するかも知れません。私は[動機>プロセス>結果]という方針をずっと守って来ました(ただ、人からの間違ったプロセス攻撃に対し、同様のプロセスで
このことでもう一つ分かったのは、スペース・ブラザース達が、「なぜ殺されても応酬しないでいるのか」という点です。彼らは霊的な視点を基軸(の一つ)にしている事が推量できると思いました。もし、彼らが「この世」を得ようとする地球人と同じ進歩(?)段階にある人々であったならば、必ず「応戦してくる」と思います。以前、学研「ムー」誌に載った(確か飛鳥昭雄さんの記事だったか?)記事の中で、月にある彼らの基地をアメリカ軍が攻撃したのに、何も反撃して来なかったそうです。私はその時、それがよく理解できませんでしたが、今はなんとなく推量できます。
「この世」と「あの世」が逆である事の他の現れもあります。シュタイナーは「緑色=死の色」と述べています。最近、テレビなどでも緑色を死と関連づけたりしているのが見られます。PV(Promotion Video)を富士の樹海で撮影したり等々。しかし、この世では「緑=生命が
シュタイナーは、他にも、「心臓がポンプだなんてあり得ないグロテスクな考えです。心臓を動かしているのは血液なのです」と述べています。しかし、これは「霊的な視点」なのです。原因から見ております。つまり、血液の存在があり、その故に、それを全身に還流させる必要があるため、心臓が発生して血液を押し出し、吸引する訳です。しかし、結果・現象だけを見れば、血液は、ポンプとしての心臓が送り出している訳です。他にも「この世」と「あの世」が逆である事が、シュタイナーの言葉の中に散見されることと思います。(200309150236)
先日、703預言が世界化した翌日に、自分が最近感じている事柄が0811預言(世界化)に「該当」する事が分かりました。それを下記に記してみます。
1) 多分、人は基本的に、生まれて思春期頃までは、親兄弟姉妹など、環境から愛を「受け取る」ものです。何かやれば褒められることで、社会的な外向きの自我(認知を欲する)が、すくすくと成長して行きます。社会関係的には、「密接」ですね(心理的側面)。これにより、「外向きの自我」は外部依存状態の中で、自然に成長して行きます。
2) その後、思春期を過ぎてから、社会参加して(10年程度の)初期の頃は、人間が壊れてなければ、(自分なりの)善意で社会や人への愛を「与えたり」、その報酬のように「与えてくれたり」すると思います(誠実な関係、友人関係など)。社会関係的には、「ある程度の距離感」はあろうかと思います(心理的側面)。この頃の人の「外向きの自我(社会的認知が目的)」は、周囲社会に、「それほど依存し過ぎないように」(大なり小なり)なって行くものと思います。この時期の人ならば、まだまだ「社会に参加したい気持ち」は強いものです。
3) 社会システムの中に組み込まれて行くと、人間の汚い部分がよく見えるようになり、権謀術数渦巻いている事が、むしろよくあることだと知ったりします。つまり、そのような社会環境の中で、(一握りの権力者により)「(本来の)善意は(社会的に)悪意と看做され」「(本来の)悪意こそ(社会的に)善意だと看做される」ような関わり方をしなければならなくなり、必然的にその種の「心理的影響」を
この3番のような「心理的離反」状態も、本人にとっては小さいストレスでしかなく、(例えば)家や休日で癒されてから、再び同じストレスを我慢する事が普通になって行きます。しかし、一定の状況(善意を悪意だとされる状況)に10年程度さらされた人は、精神的にある「変質」を来たします。長期間、何かにさらされると、これは何でもそうですが、確かに「慣れ」というものは出てきます。裏切られると、最初の裏切りはショックが大きいですが、10回、20回となって来ると、「そう来たか」みたいになって来ます。多分、[知人関係<友人<恋愛関係]の順にショックが大きいと思います。しかし、恋愛・結婚の「利用」とか「裏切り」とか「騙し」とか「シカト」というものさえも、慣れがあるのです。
この第3番目の慣れの状況の中に、十(数)年を超えてさらされていると、ある種の「変質」を心の中に来たすようになります。やはり、長期間積み重なると、「変質」が自覚されて来ます。このような時期の人は、社会との関わりにおいて、単に心理的に「離反」しているどころではなくなる瞬間が来るのです。(例えば)身震いをして、魂の底から(汚い)社会への参加を、まさに「嫌悪」するようになります。普通、あるいは、善良な社会であっても、「なるべく不参加」という気持ちになります。
ここにまで至った人の場合、社会的認知を欲する「外向きの自我」が「内向きの自我(素直な自我)」よりも大きいか小さいかで、その後の状況が変わって来ると分かりました。
「外向きの自我」>「内向きの自我」(社会依存タイプ)
「外向きの自我」<「内向きの自我」(神依存タイプ)
社会依存タイプの人は、「社会から認知されることが全て」でした。そのために、「社会への嫌悪感が彼の全てと化してしまう」のです。それで、人間関係や社会的な関わりを徹底的に忌み嫌うというモードへと意志を持って突入してしまうのです。愛を得るには「社会参加しかない」としか思えなかったからなのです。
今まで私は言ってみれば「非個人的」であろうとする意志がありました。しかし、私の場合、キッチリし過ぎてしまうところが多々あります。上記の「瞬間」を迎えてからは、そこまで自分をついつい否定(?)する傾向を改める事にしました。先日来、自分を中心に動画など集めて公開していたのが手始めというやつです。これは、私の中の「社会依存性」の側面へ養分と水をかけてあげたものです。(200309070308) 例えば、『あそこの干潟を潰しちゃおうぜ。そうすれば、あんたと私で1億円ずつだ。へ、へ、へ。』みたいな提案があった時、心の中では「そんなことしたくないんだー」と叫んでいても、そこで提案を拒否すれば、自分の今の(物理的、環境的)快適さを剥奪されてしまうと分かります。それで満面の笑みを浮かべて『それは良いことですね。まず何から始めましょうか?』と、聞きたくもない事柄を笑顔で、急ぐフリまでして応答するような事です。
「社会的認知への依存度」が高かった人の場合、ある、決定的な「ひねくれ」が「外向きの自我」に生じてしまうのです。すなわち、こちらが「善意」を示しても、その裏ばかり読もうとして「悪意を確信してしまう」ように「なってしまう」のですね。それは、その人が権謀術数の渦の中でそのように(非人間的に)扱われて来た等されたからに他なりません。彼は今、そのように(非人として)教育され、「変質」してしまった体験を人に伝えようとして「善意を悪意と確信して」いるのです。人を自分のようにしてしまおうとしているのです。このような「確信」を持ってしまったら、どんなに(普通の)「善意」で近づいても、それを曲解し続けると思います。彼は人と関わりたくないのです。若い人には理解できないかと思いますが、彼は社会参加するとか、有名になるとかいうことを「嫌悪」しているのです。自分の善意が悪意に看做されたりするからです。若い人は、多分、自分の善意を悪意と解釈されると、その一回が耐えられないかも知れませんでしょ。どこかに理性を保って嫌悪するような「フリ」を表現しているだけ、というような冷静な状況ではないのです。魂の底から湧き上がる感情です。「心の底から嫌悪する」というのは、やはり、食べてみなければ分からない、という表現になりましょう。こちらのタイプは、社会(参加)を嫌悪する期間は長くなると予想します。この傾向で何か思い出しませんか? イルミナティーとかネオコンとかの人々の性質との近似性ですね。(→動画一覧へ(宮沢元総理のネオコンへの言及))
「社会的認知への依存度」が普段から小さかった人の場合も、やはりこの種の「変質」の時が10年も(権謀術数等に)さらされ続ければ来ます。しかし、この人は、元々(あるいは、今までも鍛えて来たように)、社会への依存度が小さい人でした。多分、嫌悪するところまでが同じでしょう。問題は、その次です。
神(愛、真実、光)依存タイプの人は、「社会から認知されることが全てではない」のです。そのために、「社会への嫌悪感が彼の全てを支配はしない」のです。ここで思い出されたのは、シュタイナーがどこかで「人は、周囲の世界から楽しみを得ることをあきらめてはならない」という言葉でした。人がこのような状況に陥る可能性を考慮して述べられたのでしょうね。
ここで「神依存タイプの人はどこへ向かうのだろう」と思いませんか? 実は、上記で述べて来たのは、「愛の流れる方向」についてでした。誰でも、生きている限りは、生命力たる愛の力に支えられています(いわずもがなですが)。また、形としての愛も自分と他者(達)の間でやり取りされますね。こちらのタイプの方は、社会(参加)を嫌悪する期間は短くて済むと思います。
上記で「悪意や敵意を抱ける自分が嬉しい」と書きましたが、目の色を変える人が出てくるのは好ましくないので、わかりやすく、より正確な表現をしときますと、「心の自由度が増えた自分が嬉しく、生きてる意味に再び近づいた」という事です。(199708300232)
カバラの「創造の光」という知恵によれば、物事が発現する道筋は、3→7→12と展開するそうです。以下の考察では、3つのパターンで一番単純化して考察してますが、これを7つ、あるいは12の段階に分けてみるのも可能だろうとは思います。
1.力の放置故の型(体現すべき型)の追求[型(情報)<感情(力)]:
まず、人は最初、人間的進歩など気付くこともありません。しかし、大人になるに従って自分自身への探求へも目が向きます。最初に気付くのは、「自分は全然ダメだなあ」という事だろうと思います。例えば、自分は忍耐力もないし、嘘もよくつくし、約束も守るどころじゃなく、すぐに忘れてしまうし、信号で待つこともしないし、放課後の掃除も時々やらないで人に頼んじゃうし、まだニンジンが嫌いで食べれないし、嫌いな人や物をなるべく作らない、持たないようにしなくちゃ等々の色々な課題に段々直面し始めます。気がつくとすぐにこのような課題が次々と現れるように見えます。それで、このような課題を一つ一つクリアーしようとし始めます。嘘はつかないし、嫌いな人を何故嫌いなのか考えて嫌わないようにするとか、自分の意志を強くしてニンジンを意識して食べちゃうようにしたり、信号は必ず守るように心がけたり、頼まれた事を断ることは不可能な時以外は絶対にやってあげるとか行動し始めます。どんどんそれが進んで行くと思います。この最初の段階では、パワーがまだまだあり、型の不足を感じている時期です。それで、それらの規則・正しいことを身につけようと努力してます。これは、色々な型を身につける作業です。まだまだこの時期、型<感情です。
2.型の完成への道[型を体現しつつある道、型<感情より、型>感情へ]:
それが、段々と身について来ます。謙虚さなども、人から「お金ちょうだい」と言われても、渡さないでいる傲慢さを持たないように、有り金を全部渡してしまったりするような事が、「自分の権利」という情報に気付くまで続くでしょうし、嫌いな人が出来ると、その人とばかり付き合おうとする奇特な人間となるでしょうし、頼まれたら必ず受けるようになるので、この時期に「連帯保証人になってくれ」と頼まれたら結果的に悲劇となる確率が高いでしょうし、コンピューターのように正確な言葉使いとなるでしょうし、勿論、裏工作やら画策したりしないでしょうし、そのような行動をしないだけではなく、発想もしないし、そのような気持ちを持つことも禁じるでしょう。型が力(感情)を凌駕して行くのです。行列で待っている時にほんの少しでもイライラする事も自分に許さないでしょう。嫌いな人にわざと接近している為、その人の事が嫌だと思う瞬間に、それを禁じ、ますます接近するでしょうし、求める者には与えてしまうので、どんどん損失が大きくなるでしょうし、何事かの偶然性によって自分が有利な立場に到った時に、それを喜ぶ心の働きを禁じるでしょう。自分が何か人より優れている事について、優れているのが申し訳ないので、わざと劣っているフリをしてる内に、そのような行為自体が失礼であると考え、優劣という概念は、実は人間自身の優劣ではなく「能力」という、ごく一部の事なのだと気付いたり、人によって得手不得手があるという「次元」の概念に気付いたり、お金が沢山ある時にお金持ちのような気分になるのを禁じたり、このような様々な禁止によって型を整えて行くと思います。
3.型の完成後のパワー不足[型>感情]:
すると、最早手のつけようがない所に到ります。もはや、言葉使いは完璧だし、如何なる事でも自分が優れていると思うこと自体厳禁であり、言葉を言う時にも「させていただく」とか「おっしゃる」とか、果ては、「生かせて頂いております」と思う規則を外れる事はないし、何か自分で知った時に、それを自分で知ったかのような素振りも見せないし、人よりも優れて見えないようにするために、使う言葉・単語は、絶対に難しい言葉を使わないように努めるし、神という概念は真・善・美以外の何物でもないし、とにかく、何から何までありとあらゆる自分のパターンが閉塞状況に陥ります。私はこのような時期にグルジェフという人を知り、その悪をも含んだ哲理に引かれました。なぜなら、全部一律の、完璧な型にガチガチに自分をはめ込み、感情は常に「苦しい、苦しい」という状況だからです。もはや、形は整い切ったのです。この時期のサインは感情のSOSでした。それから一つ一つ自分で崩して行きました。道で人とすれ違う時に、心の中に「完全な善意」を抱く必要は無いし、男と女を、完全に等しい存在と見なす必要はなく、女性には女性の魅力というものがある・と、ここまでで考えをストップさせるのだし、ミスを犯した時に自分への罰則の適用は行わなくて良くなり、とにかく、感情という機能そのものに異変みたいな危機的状況を感じ、わざと怒ったり等の問題を外的・社会的に引き起こしたりして、感情というパワーを蘇らせるように意図し、考え、行動するようになって行くと思います。この時期の人間の周囲にいる人は、困難な社会的状況を見るのだろうと思います。この時期に励ましや神の力といった外部からの「創造力」の援助があると思います。この時期は創造力や悪によって、自分の善なる型を破壊し、次の段階へ登って行きます。
4.すなわち1への回帰[型<感情]:
上記3の時期を通り、外部からの力の援助や、自分で、はちゃめちゃの社会的状況を作ることにより、自分の感情の復活を果たして、人は元の状態へ戻り、懐が深くなり、器が以前より大きくなっているでしょう。3の時期を通っている時、めちゃくちゃをやって感情を回復したので、やりたいようにやる人間に戻っています。しかし、それらの態度には一つ一つ理由が整っているのです。しかし、この4[=1]の時期では、1の頃のように感情が行き過ぎて後悔するような事も、程度が小さくなっており、また、理由を自覚しています。理由が分かっているので、「遊ぶのはここまでにしとくか」と、型が生きて働くようになるのでしょう。人より優越を感じても何とも思わないようになったし、道行く女性に興味を引かれて、そんな自分が嬉しいし、悪意や敵意を抱ける自分が嬉しい。正常に戻った証拠である。如何なる人に対しても善意でなくていいし、いかなる時も謙虚でなくていい等々。そんな内面への過大な強制の一つ一つが外れて行きますが、破壊する必要が無かった部分が残ります。つまり、同じ1でも、最初の1より進歩していることになります。(1997.07.29)