このことは、2012.01.05(木)の仕事中に、具体化し始めた事です(予兆のように想いが沸いてきたのはもうちょっとだけ数日前からだと思われます)。それは、グルジェフの述べていた「外的に考慮することによって、他人にも自分にも、生を気楽なものにすることができる」という言葉を思い出しました。また、同時に以前いたスブド同胞会の名前の由来となる、理想の人間性を表すという言葉「スシラ・ブディ・ダルマ」の真意が分かったように思いました。ちなみに、スブドの創始者が「スシラ・ブディ・ダルマ」の意味として述べているのは、複数あるのですが、入会待機中の人に渡される「スブドのしおり」に書かれてある文章を抜粋してみます。

スシラは、神の御意志に添った人間の正しい道徳性をあらわし、
ブディは、人間の内部に与えられている本質的な力と特性を意識することであり、
ダルマは、全能なる神の対する服従と信仰と誠実さの態度そのものです。

別のところでは、スシラというものは、社会の中で「ああではないか、こうではないか」と試行錯誤して行く内に内部に形成されてくる正しい人間性、という趣旨の発言もしていましたのを読んだ記憶があります。

人は、その肉体が子供から大人になります。精神活動もどんどん高度に情報化して成長します。しかし、「ある側面」では子供のままであることに気づきました。その「ある側面」とは「要求・欲求」です。精神活動が常に自分の欲求(に根を持っているの)で溢れ返っており、だからこそ、周囲・社会・外界で(他者の欲求と)衝突が絶えない=苦が多いのである、という原理・原則が分かった訳です。また、人の欲求に対する過剰なまでの配慮をするような社会の・人々の傾向も、老人でさえもがまだ未熟(欲求で溢れ返っている内面性)なところを見ると、(人間性の中の)この側面から生じていると分かります。その配慮方法は「衝突回避型」で苦を減らそうとする対応ですね。ここでグルジェフの言う「(外的考慮は)生を気楽なものにすることができる」と繋がることになります。実は、私は1981年だったか「奇蹟を求めて」に書かれてあった内的考慮と外的考慮が、どのようなことを意味しているのか、よく分からなかった不明点として長く記憶に留まって来ました。それが、ふと分かるようになったのです。

今まで「仕事をするなんて、つまらないし、無駄な時間をもっと有効に使いたい」とか思っていたのですが、今回気がついた事は、超弩級の大事であり、人類史的な大きな気づきであると思います。「仕事=全く(主観的・欲求的には)つまらない事」であるが故に気づきました。なぜなら、それは自分の欲求とは(基本的に)無関係のことだから客観的意識になれる一時を経験できたと同時に、それが今まで・普段の「欲求する意識」とは方向が逆の意識であるという認識をマインドが持つことができ、それ以後、両意識を見分けられる・使い分けられるようになってきたからです。普段の意識に上る精神活動は、ほとんどがその根が「欲求」になっています。例えば、コンビニでレジに並ぶにしても、順番を一人抜いた・無視しただけで大変なことになります。知らずにそうなったとしても、クレームする彼の欲求は止められません(非難・攻撃しているのではありません)。あるいは、人と話すことが苦手な人は、苦手な理由=(何らかの形態の)欲求があるからです。道を歩くだけでもこの「欲求」というヤツは顔を出してきます。人とスレ違う時に「変な圧迫を感じたぞ」と警戒心を持ったりします(持つのは全然自由ですから)。この例のように、ありとあらゆる場面・瞬間に「(グルジェフの言う)内的考慮」をしていた訳です。

でも、「仕事」ではどうでしょうか? 自分の欲求とはまるで関係のない内容の働きをしないといけません。例えば、「自分が行く訳でもないのに」その旅行プランが如何に魅力的で楽しいかという点を係員は説明しなければなりません。で、ここが現代の精神文明についての現状認識として大事なのですが、この例の場合、その係員の精神の中に占められている想念は、ほぼ偏に「ああ、何故、この仕事は疲れるんだろう。自分が楽しくないのに、楽しさをアピールしようとするからだな」等の自己中的な感想・想念ばかりが出てくる・持っているわけです(実際は知りませんが飽く迄も、たたき台として)。つまり、内的考慮しかしていないのです。これが現代の精神文化・文明であり、普通なのです。しかし、だからこそ、それが欲求に根を張っているので、周囲との衝突が絶えません。頻繁に苦が発生するわけです。

人は一時に一つのことにしか注意を向けられません。日常で嫌なことも、何か…例えば仕事をしていれば忘れられるのも「一時に一つ」という人間存在の原理があるからですね。ちなみに、天使存在は一時に複数(多分、数千、数万とか?)のことを扱える意識なのだそうですね。人間のこの性質にキーがあります。人の意識は、自然状態ではその生命(ブディ)から根が沢山意識の中に生えており、欲求に満ちています。ただ、そうしようとすれば、それらの「根っこ(欲求)」を意識せずに外的な要求に対応して自分を動かすことが出来ます。道に大木が倒れていた。自分としては「この道を早く通って食事を」という欲求があっても、外界は「この大木をどかせなさい」と要求をしています。だから、「早く通りたい(食事したい)」という根っこは忘れて、とにかく大木をどかす仕事をしないといけません。しかし、いざ大木をどかして汗をかいたら空腹だった事を忘れており、それに、一緒にどかした人々とは親友になりました。そんなこともあるわけで、初期の“「早く食べたい」という内的考慮”を離れた活動は、かえって自分の経験値・幅を広げるものにもなります。それに「一時に一つ」しか注意が向けられないので、空腹である事を忘れてさえいました。そう、「無理が無かった」のです。それは「空腹を忘れていた」という点からも分かります。仕事が「無理なこと」になってしまうのは、常に欲求だけを意識しているから衝突し、苦となるからです。これは不自然です。

では、仕事を自然にできるようになるにはどうしたら良いでしょうか? それは、「まるで自分を客観的に外から眺めているかのようにして、その職種に合った振る舞い・言動・知識を繰り出すようにすることで、自分の欲望的な根っこを考慮から外して忘れる」ことです。チャネリング系のメッセージで時々言われる点があります。「あなたは神霊的な能力があります」と。意識とは「見る自分、見られる自分、両方に気づいている自分」というパーツで出来ていると判明しております。卍で意識を表したりもしてきました。中心点の自分(肉体)と無限遠の自分(神霊的自分)。テレパシー的に他者の意識に介入したりできるのも、無限遠の自分(の立場・能力)を使っているから可能なのだと思われます。こういうのは何か特別な意識なのではなく、通常の意識の構成なのです。内的考慮をしてばかりの自分は宇宙の中心であり、肉体であり、生命力(ブディ)に立脚します。一方、仕事で外的考慮を出来るようになると、自分の根っこ=欲求を忘れて職務を「スムーズに、かえって楽しく、軽く」行うことが出来るようになりますね。ここから分かるのは、「仕事」とは自分の否定ではない、という点です。むしろ、このように外的考慮によって(無限遠の神霊的自分の意識の立場で)行動できるようになると、衝突が(ほとんど)発生せず、グルジェフの言うように気楽になれる(苦の減少)ということが分かります。私はこのことを個人的に言いたい・伝えたいと(も)思っています。この外的考慮(スシラ)というのを自然に実行できている人も結構いらっしゃるように思います。そのような方々は「一時に一つ」なので、集中力が強いのでしょう。それでうまく自分を忘れて必要な振る舞いに(意識を)フォーカスできるようになっているのでしょう。でも、それがグルジェフの言う「外的考慮」あるいは「外から自分を眺める意識」であるなどとは全く認識の外にあると思います。多分、ほとんどのこのような実践者達すら、「仕事中は別の自分になる」程度の認識ではないかと単純に思います。

では、何故、外的考慮(スシラ)によって仕事にフォーカスして自分の欲求を忘れた状態で一つの事(仕事)に集中すると「気楽になる」のでしょうか? それは、人と衝突しな(くなり易)いからであるのは明らかです。また、その人もあの人もこの人も、皆が仕事にフォーカスし、自分を忘れていれば、個々人の欲求が存在しないかのごとくであり、「社会としては」うまく行くからであると分かります。また、たとえ自分を忘れていたとしても、なぜか仕事が楽しいと感じるものなのです。なぜならば、複数の人々と心を意識を合わせた活動をしていたからです。だから楽しいのです。

意識の世界には(感覚器官に立脚の)エゴ的な「誰」という区別が基本的にないですね。例えば、最も周波数の低い筈の怨念について見てみましょう。誰かから怨念を向けられていても、それが「誰から」なのかが分からないというのが一般的だと思います。顕在意識が眠っている時に特定個人が夢に現れたりする時もありますが、そういう時は「誰だか分かる」わけですが、普段、(感覚器官的なエゴが)起きている時はそのように個人の区別はつけにくいと思います。「自分は人と離れている時が一番楽しいしリラックスできる」というタイプの人もいますが、そういう人は目や耳で「誰と誰」という個人(というエゴ)と関わることに疲れているのでしょう。でも、そういう人でも、心・意識がダイレクトに協働・協調作業もしくは共振をすることについては心地よく感じる筈です。また、そのような心・意識の共振状態下では、「誰」なのか識別不可能です。ただ楽しくてただ心地よいのです。そこに「誰」もいません。だから、「安心して心・意識が他者と共振・共鳴していられる」というわけです。共振・共鳴は、同じテーマについて活動・働くことがきっかけで繋がる・発生しますね。例えば、同じコンサートを聴きに来て、心が繋がる、というのはほとんど自然発生的な共鳴だろうと思います。ただ、この場合の意識としては、肉体の欲求的意識と、神霊としての客観的意識が未分離・未識別になりやすいと思います。やはり、0(ブディな肉体意識)と∞(スシラな神霊意識)を識別でき、意識的に使い分けるスシラな人が増えることで、社会は共振・共鳴状態(ダルマ)へ突入してゆくのです。このような、「“やりたくもない仕事というもの”を通じての、自分を忘れた客観意識=外的考慮という人間的に発達したスシラの意識」によって、「未発達な獣的な欲望」を超えて=忘れて、外的ニーズに意識を集中して別の自分として苦手なものが存在せずに、軽やかにストレスフリーに振舞える客観的な自己観察能力者が増えることによって客観意識の側に聳え立つ神霊的な(∞の立場)意識が、この地球と言う惑星に定着し始めることになります。これです、これこそが、スペース・ブラザース達が言う「精神文明」だと確信しました。よく言われることは、「地球の精神文明が発達しないと、いくらフリーエネルギーを提供したところで、戦争に使われてしまうから」という点ですが、これは明らかに、超単純化・超短縮しており、一体、それがどのような事柄を意味しているのか、その真意・内実を中々理解できなかったのが、昨日までの地球人です。しかし、理解は下されました。しかし、それは既にグルジェフが述べていた事です。グルジェフとスブドが残してくれていた「言葉としての道標」を忘れないでいたために、同じ理解に至ることが出来ました。私が知り=(0と∞を)分別したのだから、後はこの、正確な理解を拡散してゆくだけです。仕事とは、自分(の欲望)とは無縁であるからこそ、客観意識を育む土壌となり、人類を戦争から遠ざける。もし、人類が自分の欲望のままに人を怒鳴りつけたり、利用したり、潰したりしているのでは、戦争が収束することは無いままだと分かります。でも、グルジェフが行のことを「ワーク」と名づけていた背景にどんな発想があったかも分かるような気がしますね。

一方、仕事を通じて、自分を客観視して周囲の為に(自分を)活用する人々の客観的な側に立てるようになった神霊的な意識と意識、心と心が連なることで共振状態が発生し、この惑星の意識にうねりが発生するのです。これは主観的な我侭の意識ではないので、地球外からの意識とも共振し始めることとなります。

私がこのような発想に沸いていたのは2012.01.07(土)の仕事中です。すると、ネット上で、それらしき夢(宇宙人とのオープンコンタクトとか)を見たり等の発言が出て来たように見えるので、やはり期待が持てると思います。「仕事」というのは、自己を客観的にストレスフリーに運用してゆくための行の場だったんですね。「行」と言っても、従来の苦痛のイメージとは異なります。(精神的な)衝突が減るのですから、当然、気楽になります。仕事が(進化的な)行になる、ということは、仕事はある意味、自分の欲求とは離れて乖離した内容のほうが、「実になる」のかも知れませんね。そうすると、「楽しい仕事」をしている人々は、いつも「欲求」を満たしてばかりで意識がそのようなベクトルを向いたまま「なかなか気づけない立場」になるのかも知れませんが、しかし、これは認識一つを持っていればいいだけな気もしますので、是非、以上の理解を経験的に運用してもらって、(欲求的肉体的意識ではなく)客観的意識=(とりあえずは)職業を通じての外的考慮(スシラ)を足がかりに地球の客観意識誕生(共鳴状態)に参加してみませんか? 一つのバロメーターとして、「仕事が苦痛ではなくなる(瞬間の時間が延びた)」のなら、もうあなたは肉体的本性(欲求)をギリギリ、ギューギューと痛めつけなくなった=客観意識で動けるようになりつつある、ということが判断できるようになるはずです。これは、「欲求の側面からは、特別やりたくもやりたいもないことをやる活動」=「仕事」であるからこそ有効なのです。是非、社会のニーズに気軽に対応してみて下さい。まだ自己都合によって自分を追い詰めたり自殺したくなったりする回路を変えてしまうのです。それは肉体に根っこを張った内的考慮をしているだけなのだと気づいて自分を(ある程度)離れて客観意識を育めれば楽になる筈です。自分を忘れてみましょう。例えば仕事に打ち込むのであれば、収入も得られるのです。外的考慮も出来るようになるとあっては、一石二鳥ではないですか。(201201100140)

【→阿修羅発言 ←『吾人の思想進化こそが地球の平和を招来する』(201201242217)】
【→阿修羅発言 ←『日本が普通真理教を立ち上げて第三次世界大戦を画策する老害悪魔教の根本教義を打ち破ったら平和になるのではないか。』(201201281554)】



 下記ならって、当発言の意図
 次のような人生のスタンス[人生は自分の為に楽しく生きればいいじゃない/不幸な人の為にもなるように努力して生きるべきだ]の選択という点での偏りの是正をしようと思いました。私は楽しく生きることを勿論、否定などしませんが、自分が今までしてきたことは主に、最も不幸な事柄が起こらないように情報としての対策を講じる側面でありますが、人はこのスタンスを否定しないとはいえ、自身の生き方としては「採用しない」人が多いのも見てきました(と思います)。(なお、内容が近く、同じ日に登録しましたが、発想においてこちらとの関連性は意外にも無いのです)

 人は、その考え方や発言や行動の蓄積によってDNAが変化し人類に受け継がれて行くと私は思っています。でも、透視能力者が「物質に残留している想念を読み取る」ところからすると、それは必ずしもDNAというよりは、物質的DNA以前の、オーラみたいな領域で記録されているのでしょう。そういう想念というかオーラのような領域での日々の活動がDNAに変化を起こす場合もあると思います。
 人間には自然、本能的に楽しいと思う事柄があり、そういうことへと流されて行くのは自然なことかも知れません。それは自然な事であり、身体性の中に組み込まれた自然的性質であるので、DNA的、という言い方も出来るでしょう。楽しい事をしている人は「利益を身体的本性(DNA的)から受け取っている」訳ですね。だから楽しいと感じるのですね。
 「利他的」というのは、高度なの発露に基礎があるのだろうと思います。例えば、親が食事を切り詰めてでも子供に与える等の事です。これは自然的なの力の発露でもありますから、動物であっても子供の為に身をして戦う個体もいるわけです。でも、営々として人類社会のために、と「自分にとって面白いわけでも何でもない無関係な(むしろつまらない)事」を続けるのは自分の身体的本性、DNA的な傾向性から遠い訳です。しかし、そういう行動は「必要である」という要請が存在します。この要請・必要が利他的な行動として、分りやすく言えば、「痩せ我慢をする人々」や「が活性化している状況にある人々」によって遂行されて来たのです。「人の為に」と。ルドルフ・シュタイナーによれば、仏教の出現によって人類の中に慈悲の心が埋め込まれて現代に至っているとのことです。思春期において、の目覚めを、まるでスイッチが入るように経験して来た人が多いであろう点からも、そのように言えるでしょう。が目覚めた人はイエズス・キリストのが分るのですね。
 痩せ我慢をする人々等は要請に基づいて必要な「(個人的には)つまんない事(言い換えれば、偉大な事)をする」人々で、多分自らの身体的本性の中に「そういうこと」をする利他的性向を組み込みつつあるのだと思われます。なぜ、それが「(個人的には)つまんない」のでしょうか。それはDNA、あるいは身体的な本性の中に、まだ完全に組み込まれていないからですね。言ってみれば、やせ我慢をする人々等は、そういうことが楽しいと感じるように「人類の身体的改造計画」を実行していると大きく捉える事もできそうです。言い換えれば、「利益を身体的本性(DNA的)に与えている」と言えそうです。このような「つまんないが、必要なこと」を人間的努力を傾注して実行する人々に支えられて、将来の人類は「本当に人の為に身を粉にして働くことが楽しい」と感じられるような身体的本性を全面的に持つようになると思います(→動画一覧へ)。反面、そのような傾向を「既に」持っている人が大勢いるのも分ります。故に、相当程度は(DNAに)組み込まれていると思えます。ただ、利他的なの目覚め(身体的本性として組み込まれた利他性)を体験していないと思われる個々人がいるらしいのも事実で、子のために身をして戦う動物の中に顕れたを理解しないようです。彼らは単にパターンとしてそういうものだと理解しているだけのように(も)思われます。多分、開花が遅れているだけの人なのでしょうから、子を持つ親になった未来の段階で「初めて」に目覚める…のかも知れませんね。必要なのは、その種の傾向が開花するような人間的な教育や環境だと思います。思春期にの深さ(利他的傾向等)に震撼する体験を持つ事は大切な事ですね(→推薦図書)。(200701301126)
 


当発言の意図
 私の最近の社会的な言論活動で、「義務」や「奉仕」や「人の為」というスタンスによって、霊的(統合方向の意)な領域での「自己への専心(統合化)」というハートのスタンスが、何か悪いもののような空気を作っていたのではないかと気づいたので、ハートの彼らに(社会的に)肩身の狭い思いをさせていたかもしれない側面をクリアーにしようと思った故の発言です。

 物質世界で「自分の為」に何かを為さんとする態度は、人間世界や環境にとって迷惑な発想の場合が往々おうおうにしてあります。しかし、霊的な領域では、「自分の為」に自己を整え、諸力を調和させて幸福になろうと意図するのは、実は「他の全ての自分(=他人)」を幸せにし、皆への恩恵になりますね(ハートのネットワーク故)。一人が人知れず(=霊的に)快の調和体験・状況を持つと、それが伝播します。だからお坊さんは自分を探求して霊化しているだけで人からお金がもらえるのではないでしょうか(托鉢たくはつ)。

 ところが、霊性と物質性の識別=区別=峻別を混同すると、不快が発生します。例えば、人知れず幸せ気分に浸っていると、その幸せそうな表情を見て、嫉妬のあまり攻撃し、彼/彼女の内的平安をかき乱そうとするバカが必ずと言っていいほど出てきます。そのバカは、皆に(そのバカを含めて)恩恵を(人類ハートのネットワークを通じて)もたらす筈だった彼/彼女の内的・霊的平安を、物質的・金銭的な(富やら地位やら名声やらの地上的な)物事で使用する回路により、同じもののように扱い・認識したので相対的比較の上で嫉妬しました。霊性と物質性を混同しています。
 あるいは、例として大富豪がいたとして、周りの人が皆、彼を祭り上げるものだから、ますますその大富豪は自分勝手になって行き、社会的な迷惑度が増してゆくとします。「霊的な意味合い(諸力統合の方向)の幸せ」と考えてそれを増幅するならまだしも、物質的な利己心を増幅させてしまうというのも、混同してますね。すなわち、本来的には人は統合して快になろうとしますが、その快が一時的・物質的な快の方向になってしまっており、途中で見誤っていた為ですね。本来=初発=動機としては霊的なスタンスの幸せ探しという自然傾向が、いつのまにか社会的=物質的=金銭的な人工的方向へシフトしてしまうという混同が起こる訳ですね。

 そういう訳で、ハートの人へ無用な圧迫感を、知らずにとは申せ、作ってしまっていたかも知れません。気づいたので自分のスタンス述べてみました。

 また、某神霊は「人生を比較することは不可能だ」と述べておりました点もあります。某神霊の伝える視点があり、「人(でも何でもそ)の可能性を狭めると宇宙全体の可能性を狭めることになる」旨を述べておられました。つまり、豊かな人もあり、貧しい人もおり、それぞれにとっての必要な体験を「それぞれの立場・環境・生い立ちの中で」しているのだ、という視点があります。(200401130032)

  2003.09.14(日)01:21に気づいたことがありました。これは前回タイプしました内容の後半部分の続きのようなものです。これをタイプします理由は、今まで私に暖かい言葉をかけて下さった人や、善意を持ってくれる方を、なんら否定する意図は御座いません事を最初に述べさせて頂きます。普通、このようなことを述べると、誤解されるのが常ですので、言わないほうが個人的に安全なのですが、この内容は、パレスチナ紛争の心理的な側面を解決の方向へ少なくとも向かわせるかも知れないので、「述べないでいるよりは、述べたほうが好ましい」という判断なのです。勿論、パレスチナにいる現地の方々からの誤解を受ける可能性もあるので、慎重に述べてみたいと思います。

 これに気が付いたのは、私の潜在意識に、某神霊が述べたメッセージ「自分で見つけたものだけが自分のものになる」の記憶があったからでもありましょう。また、太陽出版の「黄金の約束」(ロナ・ハーマン著、\2,400)のP140が記憶にあったからでもありましょう。今、私は霊的な世界と物質的現世が「逆である」事、その不可思議さに感嘆しております。
 前回、「心の底から社会を憎悪する」経験を述べました。自分の恋や結婚が妨害ばかりされる経験をする人はそんなに多くはいないかも知れません。ところが、私の場合、1984年頃から邪魔や利用や裏切りばかりです。相手が芸能人だからでしょうが、話をすることも出来ません。ただ、私はこの壁を突破できるのかどうかと思って継続してきました。そして、芸能界や政界が(後には某フォーラムの個々人が参加して)私の結婚どころか、人生が潰れようとどうしようとお構い無しであるのを10年以上見て、それに対して受動的に戦っている内に、それら社会への参加を嫌悪するような瞬間が来ました。人々が束になって私の結婚を潰そうとするから。諸外国からは「よく見えない」かも知れませんが、現代日本は、精神的には、このような極悪な状況になっているのです。このようになったのは、自分の利益第一主義・金銭主義の精神が当然の事としてまかり通って来たからではないかと思います。
 私個人の性格は、[動機>プロセス>結果]です。動機を第一に考えます。次にそれを現実のものにしようとして色々なプロセスを開始します。種々のプロセスは人として間違うことの無いようにして導き大切にします。つまり、「結果」が得られそうであっても、大抵はそれを捨てて「正しいプロセス」を採る訳です。そして、追及した結果が得られれば、それは完全なものとなります。このような考え方をしていることが「幸いした」のです。
 私は一見して、何もかも失って来たように見えると思います。パレスチナの方々も何もかも失ったように見えます。ここに、私の感情的経験との共通点があります。

・([動機>プロセス>結果]の人):([動機<プロセス<結果]の人)
 「自分は“何一つ”間違った事はしていない」という気持ちが強くあります。正しかったのに叩かれ、奪われた。これを10年以上経験し、社会参加やその機会を心の底から憎悪した。しかし、ここで9/14(日)01:21に気づいたのです。私は「目に見える」側面だけしか失っていないということを。ここで上記でリンクした神霊のメッセージを思い出しました。「諸業無常」という言葉も思い出しました。私は「目に見えない」側面を、実は「得ていた」のでした。この世の権力や立場や金銭をいくら「得た」としても、それは諸業無常であり、いつか必ず失われるものでした。私の結婚を妨害したり、利用したり、騙したりを意図して行って来た人々は、私からそれらに関する真実について「触れられるのも避けていたい」という心理です。そのため、彼らの行動は、逃げるばかりとなって行きます(このような事もあって、ますますコミュニケーションが困難になって行く側面もあるかも知れません)。彼らは(意図的悪意で)この世を得たが為に、自分の魂に「暗部」を作り出してしまったのです。ところが、私にはそのような「暗部」が存在しない。なぜなら、[動機>プロセス>結果]を貫いて生きてきたからです。勿論、それは結果が「訳もなく奪われる」体験の連続であり、「歯を食いしばって」という表現にも該当するかも知れません。私は[動機>プロセス>結果]という方針をずっと守って来ました(ただ、人からの間違ったプロセス攻撃に対し、同様のプロセスで応酬おうしゅうしたことは何度もあります)。その「(見えない領域の)成果」がとうとう出てきた事を悟ったのです。私の場合、「得たもの」は、最早、消えることはありません。私は「見えない世界」を得たと言えると思います。これは、まさに神のトリックであり、不思議でもありますね。イエズス様も「得ようとする者は失うだろう。失う者は得るだろう」みたいな言葉を述べていましたよね。

蛇足1:
 このことでもう一つ分かったのは、スペース・ブラザース達が、「なぜ殺されても応酬しないでいるのか」という点です。彼らは霊的な視点を基軸(の一つ)にしている事が推量できると思いました。もし、彼らが「この世」を得ようとする地球人と同じ進歩(?)段階にある人々であったならば、必ず「応戦してくる」と思います。以前、学研「ムー」誌に載った(確か飛鳥昭雄さんの記事だったか?)記事の中で、月にある彼らの基地をアメリカ軍が攻撃したのに、何も反撃して来なかったそうです。私はその時、それがよく理解できませんでしたが、今はなんとなく推量できます。

蛇足2:
 「この世」と「あの世」が逆である事の他の現れもあります。シュタイナーは「緑色=死の色」と述べています。最近、テレビなどでも緑色を死と関連づけたりしているのが見られます。PV(Promotion Video)を富士の樹海で撮影したり等々。しかし、この世では「緑=生命が繁茂はんもする色」であります。
 シュタイナーは、他にも、「心臓がポンプだなんてあり得ないグロテスクな考えです。心臓を動かしているのは血液なのです」と述べています。しかし、これは「霊的な視点」なのです。原因から見ております。つまり、血液の存在があり、その故に、それを全身に還流させる必要があるため、心臓が発生して血液を押し出し、吸引する訳です。しかし、結果・現象だけを見れば、血液は、ポンプとしての心臓が送り出している訳です。他にも「この世」と「あの世」が逆である事が、シュタイナーの言葉の中に散見されることと思います。(200309150236)



 先日、703預言が世界化した翌日に、自分が最近感じている事柄が0811預言(世界化)に「該当」する事が分かりました。それを下記に記してみます。

1) 多分、人は基本的に、生まれて思春期頃までは、親兄弟姉妹など、環境からを「受け取る」ものです。何かやれば褒められることで、社会的な外向きの自我(認知を欲する)が、すくすくと成長して行きます。社会関係的には、「密接」ですね(心理的側面)。これにより、「外向きの自我」は外部依存状態の中で、自然に成長して行きます。

2) その後、思春期を過ぎてから、社会参加して(10年程度の)初期の頃は、人間が壊れてなければ、(自分なりの)善意で社会や人へのを「与えたり」、その報酬のように「与えてくれたり」すると思います(誠実な関係、友人関係など)。社会関係的には、「ある程度の距離感」はあろうかと思います(心理的側面)。この頃の人の「外向きの自我(社会的認知が目的)」は、周囲社会に、「それほど依存し過ぎないように」(大なり小なり)なって行くものと思います。この時期の人ならば、まだまだ「社会に参加したい気持ち」は強いものです。

3) 社会システムの中に組み込まれて行くと、人間の汚い部分がよく見えるようになり、権謀術数渦巻いている事が、むしろよくあることだと知ったりします。つまり、そのような社会環境の中で、(一握りの権力者により)「(本来の)善意は(社会的に)悪意と看做され」「(本来の)悪意こそ(社会的に)善意だと看做される」ような関わり方をしなければならなくなり、必然的にその種の「心理的影響」をこうむると思います。これは社会関係的には、「離反」していますね(心理的側面)、心の中は。

 例えば、『あそこの干潟を潰しちゃおうぜ。そうすれば、あんたと私で1億円ずつだ。へ、へ、へ。』みたいな提案があった時、心の中では「そんなことしたくないんだー」と叫んでいても、そこで提案を拒否すれば、自分の今の(物理的、環境的)快適さを剥奪されてしまうと分かります。それで満面の笑みを浮かべて『それは良いことですね。まず何から始めましょうか?』と、聞きたくもない事柄を笑顔で、急ぐフリまでして応答するような事です。

 この3番のような「心理的離反」状態も、本人にとっては小さいストレスでしかなく、(例えば)家や休日で癒されてから、再び同じストレスを我慢する事が普通になって行きます。しかし、一定の状況(善意を悪意だとされる状況)に10年程度さらされた人は、精神的にある「変質」を来たします。長期間、何かにさらされると、これは何でもそうですが、確かに「慣れ」というものは出てきます。裏切られると、最初の裏切りはショックが大きいですが、10回、20回となって来ると、「そう来たか」みたいになって来ます。多分、[知人関係<友人<恋関係]の順にショックが大きいと思います。しかし、恋・結婚の「利用」とか「裏切り」とか「騙し」とか「シカト」というものさえも、慣れがあるのです。

 この第3番目の慣れの状況の中に、十(数)年を超えてさらされていると、ある種の「変質」を心の中に来たすようになります。やはり、長期間積み重なると、「変質」が自覚されて来ます。このような時期の人は、社会との関わりにおいて、単に心理的に「離反」しているどころではなくなる瞬間が来るのです。(例えば)身震いをして、魂の底から(汚い)社会への参加を、まさに「嫌悪」するようになります。普通、あるいは、善良な社会であっても、「なるべく不参加」という気持ちになります。

 ここにまで至った人の場合、社会的認知を欲する「外向きの自我」が「内向きの自我(素直な自我)」よりも大きいか小さいかで、その後の状況が変わって来ると分かりました。

「外向きの自我」>「内向きの自我」(社会依存タイプ)
 「社会的認知への依存度」が高かった人の場合、ある、決定的な「ひねくれ」が「外向きの自我」に生じてしまうのです。すなわち、こちらが「善意」を示しても、その裏ばかり読もうとして「悪意を確信してしまう」ように「なってしまう」のですね。それは、その人が権謀術数の渦の中でそのように(非人間的に)扱われて来た等されたからに他なりません。彼は今、そのように(非人として)教育され、「変質」してしまった体験を人に伝えようとして「善意を悪意と確信して」いるのです。人を自分のようにしてしまおうとしているのです。このような「確信」を持ってしまったら、どんなに(普通の)「善意」で近づいても、それを曲解し続けると思います。彼は人と関わりたくないのです。若い人には理解できないかと思いますが、彼は社会参加するとか、有名になるとかいうことを「嫌悪」しているのです。自分の善意が悪意に看做されたりするからです。若い人は、多分、自分の善意を悪意と解釈されると、その一回が耐えられないかも知れませんでしょ。どこかに理性を保って嫌悪するような「フリ」を表現しているだけ、というような冷静な状況ではないのです。魂の底から湧き上がる感情です。「心の底から嫌悪する」というのは、やはり、食べてみなければ分からない、という表現になりましょう。こちらのタイプは、社会(参加)を嫌悪する期間は長くなると予想します。この傾向で何か思い出しませんか? イルミナティーとかネオコンとかの人々の性質との近似性ですね。(→動画一覧へ(宮沢元総理のネオコンへの言及)

「外向きの自我」<「内向きの自我」(神依存タイプ)
 「社会的認知への依存度」が普段から小さかった人の場合も、やはりこの種の「変質」の時が10年も(権謀術数等に)さらされ続ければ来ます。しかし、この人は、元々(あるいは、今までも鍛えて来たように)、社会への依存度が小さい人でした。多分、嫌悪するところまでが同じでしょう。問題は、その次です。

 社会依存タイプの人は、「社会から認知されることが全て」でした。そのために、「社会への嫌悪感が彼の全てと化してしまう」のです。それで、人間関係や社会的な関わりを徹底的に忌み嫌うというモードへと意志を持って突入してしまうのです。を得るには「社会参加しかない」としか思えなかったからなのです。
 神(、真実、光)依存タイプの人は、「社会から認知されることが全てではない」のです。そのために、「社会への嫌悪感が彼の全てを支配はしない」のです。ここで思い出されたのは、シュタイナーがどこかで「人は、周囲の世界から楽しみを得ることをあきらめてはならない」という言葉でした。人がこのような状況に陥る可能性を考慮して述べられたのでしょうね。
 ここで「神依存タイプの人はどこへ向かうのだろう」と思いませんか? 実は、上記で述べて来たのは、「の流れる方向」についてでした。誰でも、生きている限りは、生命力たるの力に支えられています(いわずもがなですが)。また、形としてのも自分と他者(達)の間でやり取りされますね。こちらのタイプの方は、社会(参加)を嫌悪する期間は短くて済むと思います。

 今まで私は言ってみれば「非個人的」であろうとする意志がありました。しかし、私の場合、キッチリし過ぎてしまうところが多々あります。上記の「瞬間」を迎えてからは、そこまで自分をついつい否定(?)する傾向を改める事にしました。先日来、自分を中心に動画など集めて公開していたのが手始めというやつです。これは、私の中の「社会依存性」の側面へ養分と水をかけてあげたものです。(200309070308)

上記で「悪意や敵意を抱ける自分が嬉しい」と書きましたが、目の色を変える人が出てくるのは好ましくないので、わかりやすく、より正確な表現をしときますと、「心の自由度が増えた自分が嬉しく、生きてる意味に再び近づいた」という事です。(199708300232)

カバラの「創造の光」という知恵によれば、物事が発現する道筋は、3→7→12と展開するそうです。以下の考察では、3つのパターンで一番単純化して考察してますが、これを7つ、あるいは12の段階に分けてみるのも可能だろうとは思います。

1.力の放置故の型(体現すべき型)の追求[型(情報)<感情(力)]:

まず、人は最初、人間的進歩など気付くこともありません。しかし、大人になるに従って自分自身への探求へも目が向きます。最初に気付くのは、「自分は全然ダメだなあ」という事だろうと思います。例えば、自分は忍耐力もないし、嘘もよくつくし、約束も守るどころじゃなく、すぐに忘れてしまうし、信号で待つこともしないし、放課後の掃除も時々やらないで人に頼んじゃうし、まだニンジンが嫌いで食べれないし、嫌いな人や物をなるべく作らない、持たないようにしなくちゃ等々の色々な課題に段々直面し始めます。気がつくとすぐにこのような課題が次々と現れるように見えます。それで、このような課題を一つ一つクリアーしようとし始めます。嘘はつかないし、嫌いな人を何故嫌いなのか考えて嫌わないようにするとか、自分の意志を強くしてニンジンを意識して食べちゃうようにしたり、信号は必ず守るように心がけたり、頼まれた事を断ることは不可能な時以外は絶対にやってあげるとか行動し始めます。どんどんそれが進んで行くと思います。この最初の段階では、パワーがまだまだあり、型の不足を感じている時期です。それで、それらの規則・正しいことを身につけようと努力してます。これは、色々な型を身につける作業です。まだまだこの時期、型<感情です。

2.型の完成への道[型を体現しつつある道、型<感情より、型>感情へ]:

それが、段々と身について来ます。謙虚さなども、人から「お金ちょうだい」と言われても、渡さないでいる傲慢さを持たないように、有り金を全部渡してしまったりするような事が、「自分の権利」という情報に気付くまで続くでしょうし、嫌いな人が出来ると、その人とばかり付き合おうとする奇特な人間となるでしょうし、頼まれたら必ず受けるようになるので、この時期に「連帯保証人になってくれ」と頼まれたら結果的に悲劇となる確率が高いでしょうし、コンピューターのように正確な言葉使いとなるでしょうし、勿論、裏工作やら画策したりしないでしょうし、そのような行動をしないだけではなく、発想もしないし、そのような気持ちを持つことも禁じるでしょう。型が力(感情)を凌駕して行くのです。行列で待っている時にほんの少しでもイライラする事も自分に許さないでしょう。嫌いな人にわざと接近している為、その人の事が嫌だと思う瞬間に、それを禁じ、ますます接近するでしょうし、求める者には与えてしまうので、どんどん損失が大きくなるでしょうし、何事かの偶然性によって自分が有利な立場に到った時に、それを喜ぶ心の働きを禁じるでしょう。自分が何か人より優れている事について、優れているのが申し訳ないので、わざと劣っているフリをしてる内に、そのような行為自体が失礼であると考え、優劣という概念は、実は人間自身の優劣ではなく「能力」という、ごく一部の事なのだと気付いたり、人によって得手不得手があるという「次元」の概念に気付いたり、お金が沢山ある時にお金持ちのような気分になるのを禁じたり、このような様々な禁止によって型を整えて行くと思います。

3.型の完成後のパワー不足[型>感情]:

すると、最早手のつけようがない所に到ります。もはや、言葉使いは完璧だし、如何なる事でも自分が優れていると思うこと自体厳禁であり、言葉を言う時にも「させていただく」とか「おっしゃる」とか、果ては、「生かせて頂いております」と思う規則を外れる事はないし、何か自分で知った時に、それを自分で知ったかのような素振りも見せないし、人よりも優れて見えないようにするために、使う言葉・単語は、絶対に難しい言葉を使わないように努めるし、神という概念は真・善・美以外の何物でもないし、とにかく、何から何までありとあらゆる自分のパターンが閉塞状況に陥ります。私はこのような時期にグルジェフという人を知り、その悪をも含んだ哲理に引かれました。なぜなら、全部一律の、完璧な型にガチガチに自分をはめ込み、感情は常に「苦しい、苦しい」という状況だからです。もはや、形は整い切ったのです。この時期のサインは感情のSOSでした。それから一つ一つ自分で崩して行きました。道で人とすれ違う時に、心の中に「完全な善意」を抱く必要は無いし、男と女を、完全に等しい存在と見なす必要はなく、女性には女性の魅力というものがある・と、ここまでで考えをストップさせるのだし、ミスを犯した時に自分への罰則の適用は行わなくて良くなり、とにかく、感情という機能そのものに異変みたいな危機的状況を感じ、わざと怒ったり等の問題を外的・社会的に引き起こしたりして、感情というパワーを蘇らせるように意図し、考え、行動するようになって行くと思います。この時期の人間の周囲にいる人は、困難な社会的状況を見るのだろうと思います。この時期に励ましや神の力といった外部からの「創造力」の援助があると思います。この時期は創造力や悪によって、自分の善なる型を破壊し、次の段階へ登って行きます。

4.すなわち1への回帰[型<感情]:

上記3の時期を通り、外部からの力の援助や、自分で、はちゃめちゃの社会的状況を作ることにより、自分の感情の復活を果たして、人は元の状態へ戻り、懐が深くなり、器が以前より大きくなっているでしょう。3の時期を通っている時、めちゃくちゃをやって感情を回復したので、やりたいようにやる人間に戻っています。しかし、それらの態度には一つ一つ理由が整っているのです。しかし、この4[=1]の時期では、1の頃のように感情が行き過ぎて後悔するような事も、程度が小さくなっており、また、理由を自覚しています。理由が分かっているので、「遊ぶのはここまでにしとくか」と、型が生きて働くようになるのでしょう。人より優越を感じても何とも思わないようになったし、道行く女性に興味を引かれて、そんな自分が嬉しいし、悪意や敵意を抱ける自分が嬉しい。正常に戻った証拠である。如何なる人に対しても善意でなくていいし、いかなる時も謙虚でなくていい等々。そんな内面への過大な強制の一つ一つが外れて行きますが、破壊する必要が無かった部分が残ります。つまり、同じ1でも、最初の1より進歩していることになります。(1997.07.29)

目次(生まれる想い)に戻る

?jgyoh
free counters