私の対人関係の主な感覚は、こちらにも書きましたが、私は「具体的(=誠実)であること」でコミュニケーション・交流をしていると実感できるのです。相手の表情とか身振りとかタイミングとかから思考しません。それは、自分が対面している相手の「裏側を見ようとする態度」だからです。故に、私は正面から、相手の表側で表明される、主に言葉による主張なり意見なりに対応し、そこから思考します。相手の表情・身振り・タイミングなどの裏情報は、別に、分からないとか無視しているのではありません。必要がある時(例:情報不足を補う為、など)だけにしか使いません。
 ただ、現代社会では、人は言葉で交流をしないようです。隠し事ばかりをお互いに隠しあい、脅しあう微妙な関係の社会ばかりのようですね。芸能界などは、人間関係=金銭関係ですから、どうしてもそうなりがちですから、それだけ心が汚い世界でしょうかね。裏を読みあう関係しかしないなんて。これが「決して言葉で交流しない理由」かも。
 と思っててフト気づいたのは、もしかして、そういった人たちは形は人間だけど、中身は「人間ではない」のかな? 「ガォ!」とか「ワン」とかそういうことしか言わないのであれば、もっと私は早い内にその正体を決めていれば良かった。人間扱いしているから、その「非人間性」に対応しなければならなくなる。もし人間であれば、当然の如く、(例)都合によって人をおとしめたり、(例)利益の大小によって人を選んだり、(例)欲望に基づいて弱者を切り捨てたり、(例)自分の利益の為に私に絡まって利用したり等々、そんなことはしない筈なのです。彼らの内面は「人間ではない」ともっと早目に気づけば、良かったかもね。(200403232146)

 GENESIS]ファイルに、アニメーション【「」と「」より】を追加しました。以前もフリエネのページのトップにアニメーションを載せていたのが、しばらく経ってから「勝手に使わないで下さい」と、その人のホームページに載ってから使えなくなりました。多分、直リンクしていたからというのもあるのでしょう。今回のアニメーションの追加は、「自由に使って下さい」ということですし、画像もダウンロードしたので直リンクで迷惑はかけてませんので、安心です。しかし、大学生のパワーは凄いですね。やはり、社会人にはこれほどの芸術性溢れる感性、時間がなかなかありませんからね。日本の大学生の芸術的感性はこれほどのものかと、やはり感銘を受けました。インターネットの世界を今まで芸術的な感性の側面で見て回った事が無かったなぁ。
 [GENESIS]ファイルは、内容も感性も深いので、それに見合うようになるべくデコレーションを施したつもりです。光を強調するためにも、背景を黒にしてみました。(200206130021)

 歌手のGacktさんが「MOON」というアルバムを発表されるそうです。それで、私は驚きました。喜びの驚きでした。こんなにダイレクトでストレートな表現をされるとは。そこには「逃げの姿勢」は微塵みじんも存在しない。私は今まで12年近く、コミュニケーションだけでさえ出来ない状況が続いておりました。人は、私に何かあれば、すぐにひるがえることが出来るように、「いつでも逃げられる布石を打った上で」何かを注意深く言う場合が非常に多かった。そんな中で、彼のストレートさ、ダイレクトさに感銘を受けました。なぜなら、彼の表現は、私、ひいては、このたびの神仕組みの発端と言えるであろう出来事(と推量している事)をモチーフにしてくれたからです。もう、これほどの表現に対しては、利害とか主客を超えて、その、表現されているを人が理解できるようにまとめ・統合する必要を満たそうと思いました。逆に言ってみれば、私が今まで言わんとしていたことの「最後の一コマ」が、Gacktさんの表現によって与えられ、全てがそろった事を、揃った後になって私自身、気づかされた訳です。それで、[GENESIS]ファイルを登録しました。また、Gacktさんのような方なら、Visual的にも、最適と思いました。本当にありがとう。(200206120154)

 今は「自分の欲求(DNA的本能、あるいは性欲)的動機」によって周囲を「変えよう」とするのは醜いと感じるようになっています。勿論、明確な目的(例えばダム建設反対!とか)に従って賛同者を集めようとしたりすることは(自分だけの為ではないので)構わないわけです。しかし、周囲状況を全部自分のコピーにしたがるというようなDNA的本能「だけ」で行動したり、あるいは、これと等しいものとして、容易に本能的な嫉妬に基づいて行動・発言したりして「仲間」を維持しよう、増やそう、あるいはこの逆で、誰かを排斥しようとしたり等々、これらの動きに対して私はほぼ完全に無関心で生きております。私は「目的」に従ってのみ生きております。「上記の様な意図を持つ」こと自体、私にはそれが醜いと感じます。どのように感じるかといいますと、例えてみれば、私が、とてもおいしそうなカレーライスをさあ食べようとしていたら、横からサッと誰かの手が延びて来て、私のカレーライスを皿ごと引き抜いて、私の同意なしに彼が食べ始めているのを見ているような気分です。心理的・精神的に上記のような本能的な振る舞い・言動・心理を持ったり、嫉妬したり排除したりしている人に「人間性」というものを感じません。勿論、友人と感じる事もないでしょう。そんな感じで、私は「競争」という意識を持たないのです。学生だった時は単に勉強しており、競争の意識はありませんでした。私は単に試験を通るというとりあえずの目的(^^;でしかなかった。よく、経済の世界でも「競争の原理が働いて」とか言いますが、多分私の場合は、他の会社などを劣等感に駆られる如く、競争的に意識するのではなく、「売上を伸ばすにはどうしたら良いか」みたいな目的意識によって考えるタイプです。でもやはり金銭というものが人の心を醜くしている可能性が一つありそうですね。そもそも、なんで人間関係というものが、友人の「心理的獲得合戦」になるのかなぁ。かなり、人の「所有欲が肥大」している社会になってる可能性がありますよね。人間関係とはそういう醜い競争や劣等感に支えられるべきでないのは明らかです。「私はこう思うけどあなたはどう思う?」という独立的関係(=尊重しあう関係)が自然な人間関係でしょ。「絶対にこうでなければならないので全員を洗脳して自分の味方につけよう」というのは相手の為よりも自分の支配欲・所有欲のほうを上にして発想してますね。前から、私の近くには「競争」し始める人が近寄ってくる気がします(あ、でも競争しない人もいるわね(^^;)。ちなみに、私は嫉妬的な視点から何か発言する事はありません。それはジョークであるか、または、何か別の視点から話されたものです。(200109052335)

M.C.A.T.のAngerという新曲で「Anger、この怒りを沈めるなんかぁ、情のようなもの」とか「仲間たちの叫びに耳を傾けよ」と言ってますけど、そもそも、「“この”怒り」とは何なのか分かりません。「“その”怒り」の原因・理由は何で、それを解決するのは何なのでしょうか。メールとか電話とか何か具体的に教えてもらえないものでしょうか。私は余程の例外事項でない限り、常に何に関する事でも、そのありのままの真実を知りたいのですよ。雰囲気や勢いだけでなく、具体的に文章(的に)で描写・伝達してほしいと常に願ってるのですよ。一体、「何」が問題なのでしょうか?(199710090226)

最近、「あなたにとって友達とは?」と問いかけられてる気がするので、述べてみました(M.C.A.Tの歌[新曲Anger]や唐沢寿明さんのCMなどが根拠です)。私個人の経験では、小学校の時にK君といういじめっ子に、子分のようにいつもいつも引き連れ回されていたので、その頃から、私にとって、友達関係・社会関係というのは、嫌なものだという感じを持つようになりました。できれば、一人でいたい、と。

その後、小学校高学年と中学、高校と、親友と言える友達が出来ました。それはそれでとても楽しい経験でした。でも、その頃から自分の中には行への目覚めのようなものがあり、「家族・友人も捨て」というような世界だったので、その頃の友達には、今考えると随分と冷たい道を選び続けていたと思います。

基本的に、自分から人間関係を「意図」したり「コントロール」しようとする発想は禁じていました。というのは、小学校のいじめっ子体験で、嘘をついてK君から逃げようとばかりしていたために、その嘘によってがじがらめになっていたために、以後、その反省の上に立って、人間関係に自分の損得感情によるコントロール・意図を加えようとする事はしないようになりました。

そのような、意図しない受け身の傾向によって、私はどうも「コントロールし易いおとなしい奴」と見られていたような気もします。つまり、私は、されるがままのところがありました。しかし、その「されるがまま」という行動は、私の積極的な絶えざる行でもあったのです。「損得の発想をしないようにしよう」という行です。例えば、私が好意を持っていた友達と話に花が咲きそうになると、それを妬む友人が即座に話題を変えたり、急に割って入るような場合、その状況は気持ちとしては嫌なんだけど、それをそのまま受け入れて対応するような行動を取っていたのです。「家族・友人も捨て」というような世界だったので。今考えると、正しい道としては、話に割って入った友人に文句を言うべきだったんだよね。それは、損得や好き嫌いのような、わがままの世界ではなく、単に気が合う/合わないという自然の世界だったと思う。そのようなある自分を抑える必要は無かったんだよね。

そのような道を通ってきたので、私個人にとっての「友人」というのは、こちらが何か質問をした時に、損得勘定をぬかして、ただただありのままの(自分の)事実を述べる人に「友」を感じます。それは私が自分なりの犠牲を払ってきたのと同じ種類の犠牲を払ってきた人だと知るからです。そして、その言葉は全くのありのままの事実であり、嘘が一つも無い、という人が友達だと感じます。このような人は言い換えると、「欲求しない人」だとも言えると思います。ここで「欲求する人」とは、どうでもいいような欲求を押し通すような人の事を言ってます。(空腹になれば食事がしたい、というような事柄について言ってるのではありません。念の為)

「ありのままの事実」を「常に」伝えてくれる人というのは、「社会を越えてる人」でもあります。誰がどうしたという関係の上での都合は色々とあり、守るべき事も色々とあるとは思います。しかし、実際の事実は、実際にあった通りの事実である訳で、常にそのあった通りの事実だけで通す事が出来る人は稀でしょう。なぜなら、その人の周囲の社会的関係は多分、メチャクチャになるからです。なぜならば、皆が嘘をついてるからおかしくなるのです。現代は(も?)嘘つき社会だと思う。それに対して正面から立ち向かう人に「友」を感じます。隠蔽する事の無い人に「友」を感じます。たとえ隠すべき事があっても、その理由(事実)を密かに伝えてくれる人に「友」を感じます。その理由が伝えられないならば、理由が伝えられない理由について触れてくれる人に「友」を感じます。それは「事実ありのまま」であるだけでしょう。これを主観的に表現すれば、「誠実」とも言うのでしょう。ただ、自分の属する周囲の社会が全て敵であるという状況もあります。そのような状況下での友は、理想とか真理になると思います。そのように突き詰めると究極の友とは神ですね。従って、自分の周囲の全ての存在が友でもあるわけです。ただ、人間は善にも悪にもなれる自由意志がある存在ですから、悪へと向かう人間を私は抜かしますが。

また、大切な事を実現してる人、しようとしてる人にも「友」を感じます。例えば、マザーテレサのような方は祭り上げるのではなく、友として、兄弟姉妹としてや親近感を持つべきだと思います。我々の最も親しい友ですよね。

私は意図せず、コントロールしない人なので、私にとって「友」とは、自然にできるものであり、作るものではありません。私は、コントロールしようとしないので、私に「友」は必要ないと見えるのかも知れませんが、私はなるべく全存在と友でいたいと思います。ここで表現の難しさがあります。「友を作らない」と言うと、語弊があるし、「全てと友でありたい」と言っても、これもまた語弊がありますから。

しかし、MSさんのような、過去において特別な関係にあった方もいます。そういう方には特別な思い入れが存在します。それもまた私という存在の事実であり、それはとても大切な関係です。このような方たちを「主観的な友」と言うならば、上記で述べたような友は「客観的な友」と言えるかも知れません。しかし、主観を神に移してしまうならば、全ての存在は「主観的な友」であるとも言えるのかも知れません。

基本的に、「人生」という概念は幻だと思っています。普通は、その「人生」という概念の中で「友」という言葉が位置を占めているのだろうと思うのですが、それは、まだ一種の自己限定の薄暗い世界観のように感じられます。つまり、例えば「自分は大工だ。もう67才になった。一生の友は3人いる」という世界だと思います。薄明かりも朝焼けに似て、それはそれでいいものですが、この種の「自己限定」を突き抜けて、「人生」という限定的イメージから、よりリアリティーに近づくというのもいいんじゃないでしょうか。「私の世を忍ぶ仮の姿は大工である。私は今そのものであり、今とは永遠である。乗り物(身体)は少しガタが来てるようだが。私の友は、全人類である」 「人生」という言葉には、「一回きりの」とか「年齢」とか「社会的位置」というような限定が沢山あり、それらが薄暗い印象を作っていると思います。自分で勝手に自己限定しているんだよね。その、「勝手な自己限定」が「人生」という言葉を作り出すのだと思います。その「人生」というイメージの範疇で、「友」が語られているのではないかと思います。長々と述べて来ましたが、私が言いたかったのは、その種の捉え方で「友」という言葉を使ってないという事です。友=宇宙の兄弟という捉え方をしようとします。

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