(Transl-Escorted=グーグル翻訳可能)
 なぜ、こんな簡単な事に気付かなかったのだろう。聖徳太子には4人の妻がいました。そして、弥勒十字の周りにはかつての妻であった人が【MSさん、明菜さん、相田翔子さん】、前回の発言で判明しましたが、4人目の関連付けが私は遅れてしまいました。第4人目の方について以前述べましたことを想起していた時に浮かび上がってきた感じで気づきました。それで、私は次にまとめて投稿しておきます。

1. 刀自古郎女とじこのいらつめ=MSさん
2. 菟道貝蛸皇女うじのかひたこのひめみこ=明菜さん
3. 膳大郎女かしわでのおおいらつめ=相田翔子さん
4. 位奈部橘王いなべのたちばなのひめみこ=小泉今日子さん

 キリスト教徒だったことや、都の構え方から考えて、彼はペルシャから来た人です。しかもイスラム開祖のムハンマドは、たった10歳年上の同時代人でした。なぜ妻が4人だったのか? それはペルシャにおける文化・風習の領域にあったものだと思います。もし「4人妻」が宗教領域の掟だった場合は、キリスト教徒の聖徳太子がそのように行動することは無かったのではないでしょうか?(201509230334)



 聖徳太子は一族と共にペルシャからやって来たキリスト教徒であることが動画で分かって来ました(私自身が)。かつて、ARIONが述べた「暗殺の光景」について気付いたことを動画のところに述べましたが、その推理が「歴史的事実と符合する」ことに驚いたのでここにタイプしています。

 聖徳太子には4人の妻がいました。蘇我馬子の娘「 刀自古郎女とじこのいらつめ」とも結婚しました。その 刀自古郎女とじこのいらつめと聖徳太子(厩戸皇子うまやどのみこ)の関係性をざっくばらんに解説している「Ellieのブログ」がありました。太子からはそんなにされていた訳ではない様子です。

 しかし、「幻の地理歴史教室ブログ」の「聖徳太子と嫁」のページを読むと、太子の4人の妻の内、膳大郎女かしはでのおほいらつめについての記述がありました。
『聖徳太子の奥さんの中では圧倒的に身分が低いんです。でも一番多くの子供を産んでいます。さらに聖徳太子のお墓には三人の人物が合葬されているのですが、後の二人は聖徳太子の母と、この膳大郎女かしはでのおほいらつめなんです。』
 聖徳太子の墓は「三骨一廟」と呼ばれており、『太子と母君の穴穂部間人あなほべのはしひと皇后、妃の膳大郎女かしはでのおほいらつめの3人の棺が納められていると伝えられる』そうです。自身と母と最の妻であった膳大郎女かしはでのおほいらつめの3人が収められています。私を中心とした弥勒十字の横軸には2/22生まれの鈴木早智子さんと2/23生まれの相田翔子さんが位置しております。この2/22という日付は私の母親の誕生日です。ということは、母親の穴穂部間人あなほべのはしひと皇后だったのは鈴木早智子さん、最の妻・膳大郎女かしはでのおほいらつめだったのは相田翔子さんという推定が成立しそうです。
 かつて私はWinkにレターをお送りして不思議な縁をお伝えしましたら、その直後に事務所から解散させられた?ように思われました。その後、私は相田翔子さんのライブが渋谷のTOWER RECORDの4階とか5階とかの上層階で行われたので見に行きました。その時、階段で列を成してファンが並んで開演を待っていたのですが、私は自分でも理由が分からずに、足がガクガクと震えて止まらなくなったのです。その時思ったのは「自分はもしかしたら、過去世において相田翔子さんに関して恐ろしい事を経験した記憶があるのかもしれない」という想像でした。今回、分かってきたのは「膳大郎女かしはでのおほいらつめが殺され、翌日に聖徳太子が殺された」という歴史の可能性です。
『そして何より気になるのは、この人(=膳大郎女かしはでのおほいらつめ)が亡くなったのが聖徳太子が亡くなる前日だということです。二人とも病死ということらしいのですが、これは偶然とは考えにくい。』
異例続きの弥勒十字です。シンクロニシティだって、2重や3重で驚いているのが普通ですが、30重を超えているのですから。上で引用の事実から、ほぼ明らかなことは「死亡日は人為的に決まった」という推定が成り立つと思います。ここでARIONが述べた「暗殺の光景」が繋がるのです。刀自古郎女とじこのいらつめの嫉妬心の強さについては、これも歴史的に認められ得ることが「平安時代の陰陽」ブログの「厩戸皇子が湯治を楽しんだ伊予」ページで分かります。聖徳太子は、妻の一人である刀自古郎女とじこのいらつめの嫉妬心・復讐心から短剣で刺されたのだと思われます。『その短剣の束には、「」という文字が彫られていた。』ということなので、いつか出土するかも。ただ、そういう歴史的事実は隠ぺいされるのが常ですから、既に当時に短剣は「処分」されたりしているのかも知れません。しかし、天使の言葉=暴露を防ぐ術はない。

 相田翔子さんは東京都東村山市秋津町で育ち、彼女のお母さんの仕事と同じ仕事を私の母もしております。やはり母親繋がりがここにも存在します。聖徳太子の母親の命日を調べていたら、「ドット模様のくつ底」ブログの「聖徳太子の御命日」のページ
『推古二十九年(621)十二月二十一日に太子の母、穴穂部間人あなほべのはしひと皇后(あなほべのはしひとこうごう)が生涯を閉じられ、太子もその翌年の二月二十二日にあとを追うようにこの世を去られました。四十九歳のことでした。』
とありました。太子の母は、太子が刺される前の年の年末に崩御されていたことが分かります。(201304050221)←時計の時刻に驚いた。でも、よく見ると、電波時計の時刻は2:24だった。きっと、神様は私に手元の時計で2:21という時刻を見せて下さったんですね。(2:26)

ちょっと不思議に思ったのは、当ファイルは「生まれる想い」のページに載せていたのですが、何故か今になって気付いたのは、このページの一覧から消えており(?)、サーバーに存在しているのに孤立したファイルになっていた事実です。なので、新しく「生まれる想い」のページに項目として載せる作業もしました。(201304050325)

聖徳太子の子供達

ホームページ「清浄庵」のページ「< 聖 徳 太 子 >」に載っていました。

菩枝々美郎女ほききみのいらつめ(=膳大郎女かしはでのおほいらつめとの子供は8人:
 「舂米女王」「長谷王」「久波太女王」「波止利女王」「三枝王」「伊止志古王」「麻呂古王」「馬屋古女王」
刀自古郎女とじこのいらつめとの子供は4人:「山代大兄王」「財王」「日置王」「片岡女王」
位奈部橘王いなべのたちばなのおうとの子供は2人:「白髪部王」「手嶋女王」
何故か、4人目の妻の名前が書かれていません。(201304050353)


 「事件」の直後に作られたと思われる碑銘と思われるものが、「法隆寺金堂釈迦三尊像の光背銘文」としてありました。ここに『膳大郎女かしはでのおほいらつめが亡くなったのが聖徳太子が亡くなる前日』である記録がありました。この碑銘が“変”なのは、聖徳太子のお母さんの穴穂部間人あなほべのはしひと皇后の名前を『鬼前きぜん太后』とし、太子死去の前日に亡くなった妻の膳大郎女かしはでのおほいらつめのことを『干食王后』と呼んでいることです。聖徳太子が亡くなった直後にこの碑銘を作った人は勿論、生きている人であり、聖徳太子の死因を「病気」と記した(記さなければならない)人であり、その上、このような侮蔑的な記録を歴史に残したがる人間と言えば、「それは、刀自古郎女とじこのいらつめであろう」と述べて置きたいと思います。。

 上記で不明だった4人目の妻が分かったと思います。それは立場的に中心的な妻「莵道貝鮹うじかいだこ皇女」でした(太子との間に子がいなかった)。碑銘からは、権力関係の人が全部抜けているために、研究者たちから不審に思われているようです。次のページ「釈迦三尊の光背銘に、聖徳太子はいなかった」を読むとその傾向がある事が分かります。なぜ、刀自古郎女とじこのいらつめは碑銘に権力者たちを記さなかったのだろうか? それに、「うじかいだこ(貝とか、タコとか)」という名前も変じゃないですか? でも、このページ、真面目に『「干食王后」は別の妃だという説もある』とか言ったり、碑銘の「創作者」が完全に善意の者である事を疑わない姿勢が貫かれていますね。『鬼前太后』だの、『干食王后』だの呼んでいる点について研究者の中にも「首を傾けざるを得ない」と言っているホームページ「聖徳太子架空説批判」のページ「廐戸皇子の崩日は?」がありますが、それが自然・当然の感覚だと思います。『鬼前太后』だの、『干食王后』だの呼ぶような人(刀自古郎女とじこのいらつめ)が「創作」したものだと私は思います。(201304050456)

聖徳太子の一族は、その後、全員が絶命したそうです。何か権力者間で感情が噴出しているような様子が…。なぜ、聖徳太子も豊臣秀吉も共に、亡き後になってから一族がそのような目に遭ったのだろうか。多分、本当に民・百姓の為に政治を行い、権力者に逆らう面も多々あるような政治を行った為ではないのだろうか。(201304051251)



聖徳太子とのシンクロ

1996年3月17日(日)の日本テレビの「知ってるつもり!?スペシャル」で知り ましたが、聖徳太子は、その母が天然痘にかかってしまい、当時、天然痘は不治の病だ ったにも関わらず聖徳太子は母の看病をし、自らも天然痘にかかり、そして、太子を看 病した妻も天然痘で亡くなってしまうのですが、太子は母を看病している時に母を想っ て弥勒菩薩像を自ら彫刻しているのです。中宮寺にあるそうです。テレビで見た所、例 の有名な弥勒菩薩半眼思惟像です。これを見てて、分ったことがあります。弥勒の確定 の決め手となっているのは、MSさんのお母さんのお名前、明菜さんのお母さんのお名 前と私の母親の誕生日であり、一二三神示に示されてあったからである。なぜ3人共、 「母親」なのかという謎がこれで解けたと思います。そこには聖徳太子の病床の母親へ のとても深い情が結実しているのです。弥勒十字の横軸はWINKでしたが、これも 3人共、聖徳太子とその妻の命日である2/22という日付が込められておりました。 すなわち、誕生日が、鈴木早智子さん=2/22、私の母=2/22、相田祥子さん= 2/23でした。また、私の場合に限って文字ではなく、数字で示しがあるところを見 ますと、西洋でカバラに触れ合っていた可能性も大いにあります。

聖徳太子の父は橘豊日大王(たちばなのとよひおおきみ=後の用明天皇)で、母は、穴 穂部間人皇女(あなほべのはしひとのおうじょ)です。ここで父親の名前に「明」(用 明天皇)があることが分ります。また、番組では母は蘇我氏の流れにあると言ってまし た。蘇我氏というのは発音が「菅谷」に通じます。また、聖徳太子は「本来、天皇にな るべき人」でしたが、数々の陰謀によって逆に太子一族は「戦争が起きて人が死ぬよう なことがないように」と焼身自殺をしてしまったのです。一方、私は今の皇太子殿下と 同い年生まれです。まるで、「当時の想いを果たそうとしている」かのようではないで すか。私は特に天皇制をどうにかしようなどとは考える事すらありません。これらのシ ンクロを示そうと思っているのです。

【この記述は1996年3月17日(日)の日本テレビの「知ってるつもり!?スペシャル」についてのものなので、この日付の直後にタイプしたものなのでしょうが、日付が書かれてなかったので、エクスプローラで当ファイルの作成日付を見ましたら、2005年11月02日21:36になっていました。】





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