知られざる
エソテリック・グループ

〜 今もなお存在する見えざる賢者たち 〜

 



以下の文章は、ある方から情報提供された
資料(とある導師の話)をまとめたものです。
紹介によると、この導師は、かつて世界で最も
“見えざる世界”に通じた賢者のひとりといわれ、
隠されていた事実 ── もうひとつの世界史について、
20年ぐらい昔に語ったものだそうです。

 



■■■
第1章:解き明かされる秘教グループの存在意義

 

■■知識の伝達の困難さ


質問〕−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

神智学者たちは、肉体をもって、あるいは肉体をもたずに存在する導師(マスター)たちのさまざまなグループについて語っています。今日、こうした秘教の導師たちは何人ほど存在しているのですか? 彼らはどのようにして「サダーカ=探求者」たちに影響を与えているのでしょう。また、彼らはどんな影響を世界に与えるのでしょう? どうか、こうした秘教(エソテリック)グループとあなたの関係を語ってください。




回答〕−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

精神的な知識が存在するには、難しいことがたくさんある。まず第一の困難はそれが十分には表現され得ないものであるということだ。誰かが知るに至るときでさえ、彼はそれを正確に表現することはできない。だから、知られたものは容易に伝達され得ない。誰かが何かを知っていて、それを知りたい探求者たちがいても、その知識は伝達され得ない。あなたがそれを知りたい、誰かがそれを知っていてあなたに語り聞かせたいからといって、伝達が可能であることにはならない。精神的な知性の本性自体、あなたがそれを表現しようとするや否や、それは表現不可能であると感じてしまうようなものなのだ。ゆえに、それを表現するために、それを伝達するために、秘教グループが必要とされる。

秘教グループとは、特殊な知識のシステムを受け取るために、特別に訓練されたグループという意味だ。
たとえば、似たような例をあげよう。アインシュタインはよく、世界で彼がコミュニケートできる人は、6人にもみたないと言っていた。彼は数学的な知識について語っていたのであり、精神的な知識についてではない。だが、これは事実だった。アインシュタインが気軽に話しかけることができた人物は、6人にもみたなかった。というのも彼は、通常の数学表記では伝達できないような数学上の項点に達していたからだ。

アインシュタインが、彼の知識をあなたに伝えようと試みても、あなたは耳にはするが理解はしない。ただ聞くことは、理解することではないからだ。そしてあなたが理解しないときには、誤解してしまう可能性が十分にある。なぜなら、理解と無理解のはざまには、誤解という中間の現象が存在するからだ。自分が理解していないことを潔く認める用意のある者は、ひとりもいない。だから理解がないとき、それは無理解を意味することにはならない。十中八九、それは誤解を意味している。理解していなかったことを認める用意のある者などひとりもいないからだ。誰もが理解していると言う。そのときには誤解がついてまわる。

数学は秘教的知識ではないし、表現不可能なものにかかわるものでもない。それは5000年の間、連綿として存続してきた。幾千もの頭脳が数学の訓練を受けている。世界中どこの大学でも教えている。どこの小学校でも教えている。きわめて多くの大学の、実に多くの学部が、多大の訓練、多量の知識を用いて数学を教えている。だが、アインシュタインはなおも言う、「私が知っていることを伝達できるのはたったの6人だ」と。 もしこのことを理解したなら、あなたはスピリチュアルな経験を伝達することの困難を、理解しはじめることができる。



秘教グループとは、特定の師とともに働くために、特別に訓棟されたグループのことだ。数千年を経て、やっとひとりの覚者(ブッダ)が誕生する。ブッダフッド(ブッダたること)の現象はまれなため、覚者が誕生しても、彼が、コミュニケートすることはむずかしい。覚者はそこにいる、世界はそこにある、だがそれでは何の意味もなさない。

覚者は直接世界とコミュニケートすることはできない。ゆえに、秘教グループが、内輪のグループが訓練される。この訓練は、ただこのグループが覚者と世界をつなぐ媒体を演じられるようにするためのものだ。特殊なグループが覚者を理解するための特別な訓練をうけ、それから覚者を世界に通訳する。なぜなら、覚者と世界のあいだには、覚者はまったく理解されないというギャップが存在するからだ。

ここで、イエスについて述べてみよう。イエスが受難したのは、秘教グループが存在しなかったためだ。イエスが磔刑にあわねばならなかったのは、そのギャップが、ふつうの人々には彼を理解することができなかったというものだったからだ。それは起こらざるを得なかった。なぜなら、イエスと一般大衆との間に、グループがまったく存在していなかったからだ。いや、確かにその当時、エッセネ派という秘教グループは存在した。しかしそれはイエスが組織したグループではなかった。イエスを理解でき、しかもその理解を一般大衆に伝えることができるグループがなかったのだ。

そのふたつの間には、媒体がなかった。だからイエスは難を受けた。インドでは、仏陀もマハーヴィーラもこのような難を受けなかった。磔刑にあった者は誰もいない。彼らにもイエスと同じ可能性はあったのだが、イエスだけが十字架にかけられたのは、彼のための秘教グループが存在しなかったためだ。誤解は避けられなかった。イエスが語ったことは、ことごとく誤解されてしまった。

 


イエス・キリストの磔刑像

 

もちろん、イエスには弟子があった。だが、弟子たちは大衆の中にいた。彼の直弟子たちは全て、いかなる秘教的訓練も受けたことのない大衆の中からやってきた。ルカ、トマス──、彼らは農夫たちだった。彼らは、社会の凡庸で教育のない部分からやってきた。彼らはイエスを愛した。彼らはイエスを感じた。だが、彼らも彼を理解することはできなかった。

それゆえ、彼らは多くの場面でとても幼稚な質問をしている。たとえば、イエスにこのように尋ねた弟子がいる、
「神の王国における私たちの地位はどうなるのですか? あなたは神の脇に立たれるでしょうが、私たちはどこに立つのでしょう、私たちの地位はどうなるのですか? 」

彼らは、イエスが神の王国という言業で意味したものを、理解することができなかった。彼らは普通の人々だったのだ。

 

■■アショカ・グループ


だが秘教グループは、急造できない。覚者(ブッダ)は突然誕生する。しかしそのグループは、急造され得ない。覚者が誕生する──それは突然の出来事だ。だから数千年に渡って精神的であり続けてきた国々には、継承としての、伝統としての秘教グループが存在する。そしてこの種の出来事があるたびに、そのグループが仕事を開始する。

アショカは、今もなお存在しているグループを創りだした──9人のグループだ。1人が死ぬと、そのつど別の者が彼にとって代わる。だから、そのグループは依然継続している。1人が死ぬたびに、残された8人の者たちが彼に代わる1人を選ぶ。彼は残りの8人によって訓練され、こうして9人のグループは存続していく。人は変化するがグループはもとのままだ。

 


有名なオーパーツである「アショカ王の錆びない鉄柱」。
アショカ王はインドの大部分を統一した最初の王である。
彼は初めジャイナ教の信者で、後に仏教に帰依。
遠くギリシアにまで布教し第3回仏典結集を行なった。

 

このグループは今もなお存在している。なぜなら仏陀の再誕が待ち望まれているからだ。彼はいつでも来ることができる。仏陀がそこにいても、あなたがたは急にグループを創るわけにはゆかない。なぜなら、この秘教の奥義体得者(アデプト)たちのグループは、長い訓練や鍛練を通して創造されるものだからだ。この訓練は偶発事ではない。このグループは、十全に訓棟されたグループだ。誰もが訓練を受ける。これは突発的な出来事ではない。ゆえにこの9人のアショカ・グループは依然続いている。

グループは、幾度となく始められた。時としてそれらは存続し、やがて衰退していく。時としてそれらは存続し、やがて消滅する。それというのも、きわめて多くの困難があるからだ。多大な困難がある! だが、このアショカの秘教グループは、今なお存続している。

それが存続しているのは、その存続を助けるいくつもの条件が備わっているからだ。ひとつには、それが決して大衆自体に直接接触しないことがあげられる。それは、両者の間にまた「別のグループ」を持っている。それは、常に知られることなく隠れている。
あなたがたがそれについて知ることも、それがどこにあるかを知ることも決してない。このグループにイニシエート(入会)される者はみな──イニシエートされるその瞬間、あなたがたの世界から完全に消える。そうなると、あなたがたは、彼について何も知ることはできない。そうなれば、グループは誰にも知られずに存続することができる。

このグループは、たくさんの鍵やたくさんの手法(メソッド)を待っている。こうした鍵や手法を通して、それはさまざまな仕方で働き続けている。これは、成員(メンバー)が肉体の中にあるグループだ。彼らは、われわれと同じように生きている。

だが、一度誰かがそのグループのメンバーになってしまったら、別の生で、再び彼が、その9人の1人に選ばれることはありえない。彼は次の生では、グループと大衆の間の環(リンク)として働くようになる。これが、9人のまわりにもうひとつ「別のサークル」を、より大きなサークルを形成する。
なぜなら非常に多くの人々が、そのメンバーであったわけだから。彼らは、仏陀を直接知っている。彼らは、秘教の奥義体得者(アデプト)たちを直接知っている。彼らはたくさんの経験を積んでいるので、大衆の中にとどまりながら、グループの仕事を継続することができる。しかし、彼らはメンバーにはならない。

 

■■神智学運動とマイトレーヤの降臨


グループの誰かが地上に生まれないとき、つまり、彼が肉体をともなわずに存在するとき──彼が非肉体的存在状態にとどまる場合にも──彼らは、依然仕事を継続していく。肉体の中にいない超人たちは、大勢いる。彼らはワークを続けている。神智学者たちは、彼らを〈大師たち(マスターズ)〉と呼んでいる──クート・フーミ大師のように。これらは架空の名前だが、彼らは、特定の人格や個性、今なお働き続けている肉体を持たない魂について言っているのだ。

クート・フーミ大師(9人のアショカ・サークル最古の奥義体得者のひとり)が、神智学運動の全体を創りだした。彼らは、来たるべき仏陀の再誕が可能となるような状況を、創りだそうと試みていた。
仏陀は、2500年後、再び生まれ、その名は〈マイトレーヤ〉となるだろう、と語っていた。ゴータマ仏陀のような覚醒した人物は、2500年後、誰が覚醒するかを知ることができるのだ。だから仏陀は予言した。そしてこの出来事のために、9人のアショカ・サークルは何世紀にも渡って働きかけてきた。

 


アニー・ベザント夫人と霊能者のリードビーター。
人類の霊的進化を促進させるために神智学協会を運営し、
秘教的知識の研究と布教活動を展開した。
彼らは同時に、まもなく再来すると予言された救世主、
つまりマイトレーヤを捜していた。

 

今や時は近づいた。神智学運動は、その出来事のための準備にすぎなかった。しかし、それはつまずいた、その実験は失敗した。彼らはマイトレーヤが降臨する〈乗り物〉を創るため、3、4人の人々を実験した。だが、その実験は失敗だった。何かが欠けていた。ときには成功の間際になって、それを妨げる何かが起こったりした。

クリシュナムルティは用意ができていた。〈乗り物〉にされるため、完壁に用意ができていた。あらゆるものの準備が整っていた。彼は、マイトレーヤが降臨できるように、自らを明け渡して空っぽになるべく壇上に登った。だが、最後の瞬間、彼は自らを明け渡すことを拒んだ。こんな事態が起ころうとは、彼の周囲の誰もが思ってもみなかった。クリシュナムルティが、最後の段階でダメになって戻ってくるなどとは。そんな気配すらなかった。だからこそ、彼は、この後戻りの現象が起こったのちの全生涯に渡り、40年間絶え間なく、〈個〉を強調し続けている。彼は言う、「個であれ!」と。

 


J・クリシュナムルティ。
1895年生まれ。神智学協会の リードビーターにより、
来たるべきメシアとして発見され、 イギリスで教育を受ける。
1911年、彼をメシアと仰ぐ 『東方の星教団』が結成される。
しかし1929年、 自らメシアであることを否定し、教団も解散。
その後、カリフォルニア、オージャイを拠点に、 世界的な説教活動を続け、
多くの人に大きな影響を与えた。

 

これには意味がある。準備の全体が、人の個性を喪失することだったからだ。さもなければ、人は〈乗り物〉になることができない。「あたかも、あなたがいないかのようになりなさい! あなたを“超越した力”に全面的に明け渡すのだ」

だが、彼はジャンプするほんの間際に、別け渡しを拒否した。全ては準備されていた。もうあと一歩で、マイトレーヤは世界に登場していただろう。しかし、最後の一歩を踏むことができなかった。彼は戻ってきた。彼は、「私は私自身だ」と言った。彼の哲学全体が、“明け渡すな、追従するな、信じるな、弟子になるな”となったのは、そのためだ。このことは全て単なる結果にすぎない。それはただの理由づけであり慰めだ。彼は、40年間絶え間なく、その踏まれなかった最後の一歩から働きかけ続けている。彼はまだ、その外に出ていない。そこには悔恨がある、傷がある。最後の瞬間に、彼は明け渡すことができなかったのだ。

こうして、神智学はクリシュナムルティにおいて失敗し、生気のない運動になった。その運動は、この出来事の具現のために存在していたからだ。それは意味を失った。
家は建てられたが、主人は、決してその中に住むようにはならなかった。こうして、クリシュナムルティがマイトレーヤの〈乗り物〉になることを拒絶して以来、神智学は無意味なものになってしまった。それはなお、残存物のように続いてはいるが、今や本質的なものは何ひとつ存在していない。

この運動全体は、アショカの9人の奥義体得者たちによって創始された。彼らは、なおも働き続けている。さまざまな方法で、働き続けている。

実のところ、我々が知っている歴史の背後には、われわれがうかがい知ることさえできないような歴史が存在しているのだ。歴史にはもっと深遠な部分がある。われわれが歴史として知る周辺部は、真実ではない。われわれの歴史の背後には、もっと別の歴史が続いている。われわれがそれについて何ひとつ知ることのない、より深い歴史があるのだ。

 

 

 


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