悪というのは、心の中に本人の意思によって「闇・裏側」という暗い領域を「(相手に秘密裏に)作り出す」ことで発生するのは自明と思います。その領域は、社会一般に対して「理」が通らない本人だけの領域です。本人だけの領域で「本人だけの事」を決定(例:さあ、車に乗ろう)することは問題ないのですが、第三者(例えば、Aさん)が絡むような「決定」を、Aさんのいない所で勝手に「決めてしまう」のは、(事柄にも
心の中の「闇」や「裏」を優先的に持つタイプの人は、社会機構・組織などの指揮命令系統の立場を占めることは(ましてや、ヘッドに立つことは)、その個人の「闇・裏」の性格や強度に応じてかなりの程度は、制限・禁止されるべきだと思います。社会を健全に保つ秘訣の一つは、個人の心の中に「裏・闇」を作らないような個人が集まり、(光の元に)協力することだと思います。その協力するにおいても、Bさん他は、「Aさん」だからと言って親しく付き合う内に、彼らは「身内」となり、彼ら少数の利益の為に何事かを共謀します(日本ではそのようになり易いのかも)。しかし、それは社会全体への背信行為ともなり得ます。その理由は、彼ら少数者たちが心の中に闇を作り出したからですね。しかし、それは彼ら自身にとっては光に見えたものです。純粋に個人の為だけの行為「フランス料理を食べよう」であったならば、それは全く光だけだったのに、彼らの事案は純粋ではなかった。それは社会とリンクした要素がありました。故に、社会にとっての闇が発生した。「勝手に社会全体を利用しようとした」訳です(勿論、これも色々な場合がありますよね)。
そういう訳で、私個人の主義としては、「情報公開」です。勿論、情報を公開しない「純粋に個人的な領域」があります。しかし、それは闇とか裏ではありません。人によっては、私のようにオープンな傾向を恐れる人もいますが、それはあなたを攻撃する意図ではありませんし。
また、「個人行動主義」です。組織になってしまうと、「自分の知らない裏側で」物事が決定されたり、隠蔽されたり、進行していたりして驚くことがありますので、それらの事に責任を取りきれませんので、私は単独でしか動きません。
しかし、理想が寄り集まって同じ意思を持つ人々が自然に集まるのならば、その目的意識において集合(その後の離散)はあり得ると思います(例えば私は、阿修羅掲示板とか)。それは、(他を押し退けようとする)利己的な発想よりも、目的意識において行われるものが基本・大事だと思います。ただ、それは「精神的に独立的な個々人」であった場合は有効ですが、やはり若い人の場合は、カリスマを感じさせる人の下に集まり易いし、また、カリスマを喜ばせることで自分も居心地良いという共生関係が成り立っているものだと思います。だから人によって色々な状況があります。私はよく、本能的に人を遠ざけますが(^^;、それによって人は「“自分が”拒絶された」という印象を持つと思います。でも、私は個人攻撃をしたつもりはない訳です。その言葉の「理」によって判断してほしいと思うのですが、その後その人は、「私」を見、意見を読むと、ことごとくそれが私の意見だからという動物的な理由によって(ある種の心の闇)反対ばかり言うようになるという症状も出るかも(^^;。本当なら、「理」が守られ貫かれたオープンな光の社会を、一人一人の個々人が、「心の闇」を作らないように気をつけて維持して行くものだと思います。(200305310156)
私の思う、社会と個人の関わりの「プロセスの側面」について述べてみたいと思います。
【人でなし】●積極的な意味で人を殺す者と、消極的な意味で、「見殺す」者は、人としての自由は勿論、人としての権利が大幅に制限されるべきだと思う。
1) あなたは自己の義務と権利のどちらに力を注ぎますか?
◎[義務>権利]の人=「人としての自由」と「人としての権利」が享受される。なぜなら、
◎[義務<権利]の人=「人としての権利」が享受され得るが、義務優先の人を一度でも責める事は許されない
・その人は、被害者の苦言を見て見ぬフリをするからである。([義務<権利]の故に、自分に心地よい事しか受付けない)
2) あなたは神と自分のどちらを優先する人ですか?
(確かに、一体のものではあるが、以下のようなプロセスを[産むべき/生んではならない]と思う)
◎霊的な領域においては、人に力がないので、神に委ねるしかなく、また、そうすべき(全託すべき)である。
3) 人との繋がり、人脈について、あなたが密かに思うのは、次のどちらですか?
◎密かに「利用しよう」と第一に意図しているのであれば、人に対して不利益を被らせると分かっている行為は許されない。
4) あなたは、人に関して心中「密かに」断定する方法・プロセスは、次のどちらですか?
◎一時的な、受け取った印象から密かに・勝手に相手を断定する。[傲慢傾向の判断] 未確認のまま勝手に断定して次の行動に移る事は許されない
5) あなたは、少数の支配者層という「個人的な権威(特定個人>社会)」を尊重する人ですか?
◎あなたは「鳥肌ものの行動」を採れる人ですか?(恥・
6) あなたは、何か主張をしている時に、「自分を主張している」のですか?それとも「そのアイデアの公益性」を主張しているのですか?
(利己の為に大事を捨てる発想を慎むべし)
7) あなたは[人と自分を主観的に比較する意識<客観的であろうとする意識]ですか?
◎持たざる者が、自分より持てる者を見上る(←主観的表現)時には、某神霊の述べたように「人生を比較する事はできない」という原則は大切だと思う。
・【[国家のあるべき姿だと思います]にもタイプしましたが、個人(成人)の主権を簡単に侵す人(あえて「侵し返す人」を除く)もこちら側に分類すると、どうなるのでしょうね。人の主権を侵す事を平気で日々実行中の人々って、実はとても大きな問題があると思います。芸能界などは、人を商品として扱うので、この種の扱いをしがちな側面があるように思います。(200502100118)】
【人であり】●上記以外の人について:
・上記の「主権を侵す意図に基づく行為【人の恋愛、結婚、SEXを妨害しようと意図して妨害する様な行為】」は現在、非常に軽く
・これやこれのようなハートとマインドの運用方法は採らない忍耐力が人類には求められると思います。(200910091604)
(確かに、一体のものではあるが、以下のようなプロセスを[産むべき/生んではならない]と思う)
・その人は、被害者の苦しみを理解しようとするからである。([義務>権利]の故に、ネガティブを避けずによく聞くから)
・その人は、積極的に奉仕として役を担うので世界に富をもたらす。([義務>権利]の故に、労苦を避けない)
(自由の制限=そもそも、責める理由が基本的に存在しない[ボランティアを責めるのは止めにしましょう])
・その人は、積極的には役を担おうとはしないから。([義務<権利]の故に、軽微な労苦を避ける)
・神に向かって「私のプライバシーを侵さないで下さい」と言うのは、ナンセンスです。[全知の神>人の自我]
◎3次元的、物質的な領域に於いては、人が自分で何かが出来る領域である。
「神よ、私の誤解を解いて下さい」と祈るよりも、自分から相手に言葉を伝えましょう。[見守る神<人の自我の物理行動]
(善人に対して、その主権を物理的に侵しまくるような神をも畏れぬような傍若無人は許されない)
・[自己利益第一]?/[人への奉仕が第一]?
(確かに、どちらにしても、利益は自分へと還って来る事で統合されるが、以下のようなプロセスを[産むべき/生んではならない]と思う)
・このタイプの人は将来的にも「利益」を確保しようと尻尾を振るし、かつ、不利益を被らせて省みないからです。
◎密かに「奉仕」を第一に意図しているのであれば、利益・不利益の意図しない結果に関して、とやかく言われる筋合いはない。
・このタイプの人は、将来の「利益」を先ず破壊して、それから人と関わろうとする。人は、「利益を超えた関係しか」結べない事に気づく。
(確かに、最終結果(真実)は一つだが、このようなプロセスを[産むべき/生んではならない]と思う)
◎自分にはこのように見える、と相手に確認してから断定する。[謙虚傾向の判断]
・ここで一つだけ述べたい事は、「真相というものは、かなり具体的で、特殊事情が絡み、予想に反しており、各々ユニークである」場合が多いのだ。
それとも、個人性を超えて「社会は普遍的法則(特定個人<社会)」に則るべきだと考えますか?
・あなたは相手の「権威(個人的社会性)」と相手の「パーソナリティー(個人性)」のどちら側を多く尊重したのですか?
◎あなたは主観性を超えた完全無欲の行動が採れる人ですか?(非恥・
・あなたは「法則・定め(社会性)」と「個人的利害関係」のどちら側を多く尊重したのですか?
◎分かり易い言葉で、明快な文章が並んでいれば、多くの人に理解される事に不安を持っていない「アイデアの公益性」を訴えていると思う。
(某神霊もこの種の文脈の中から「人生を比較する事はできない」と述べていました。持てる者が不当にバッシングされる風潮は消えるべきだと思う)
◎持てる者が、自分より持たざる者を見下し(←主観的表現)「人生を比較する事はできない」と言いながら、
困窮する者を見捨てたり忘れることを良しとしていますか?
(その困窮の度合いに応じて、無視は許されざる行為となって行くと思います)
(200502220125)
私には「この種の」場合分けで物事を「こうであるべきだ」と考えている傾向は、、、あります。このような構造から外れる人を責める時に、良心を感じる事はないと思います。そうすべきだと思うから。そうすべきだと思って自分の性格も変わって来ました(価値観の世界です)。私は時々人を「口撃」することがありますが、動機は「〜すべきである」にあり、何か優越感を得るとか、そういう目的意識ではありません。(200212112335)
人は多分、「宝物」の概念が逆転していると思います。「(人の)命=地球の宝物」です。そのためにお金を使います。自分個人のためだけにお金を使っている社会システムが原因して人々の「虚しさ」や「寂しさ」を作り出しているのだと思います。(200212072211)
思うんですけど、「人の立場に立って考える」人ならば、必ず、ユニセフへの寄付をしたりすると思うんですけどね。窮乏している地域の、大人もそうですが子供達の事を、人としては、先ず彼らの立場を考えて行動すべきだと思うんですけどね。
私はあまり組織的な事は目指しません。なぜなら、性格もありますけど、私の関わっている領域が、最も根本的で本質的な領域だからです。特定の企業や同好の会とはスタンスが違って来ますでしょ。だから、それらとは違い、組織とは無縁です。人々を統べるのは、言ってみれば、「真・誠・愛・美etc」です。その特性を備えているのは「神」と一言で言っても可ですよね。だから、特定の誰かに動物的に服従する(させられる)ような組織的なものではなく、自ら進んで服従する真善美こそが基礎となって人々のまとまりが形成されるならそれは理想的だと私は思います。
それから、ちょっと思ったのですが、「社会形式の恐怖」というのがありますよね。特定の社会を維持するためという、なんか利己的な判断に基づいて、そういう「恐怖心」を当該社会の構成員の中に広めておく、という「トップのやり方」ありますよね。宗教組織であれば、「お布施をしないと1年以内にガンになる」とか、企業社会であれば「我々と価値観を共有し、服従しない時は、村八分(または子供扱い等)にするよ」というのを不文律にしているのではないでしょうか。その組織の外から単に見てる時は客観的に見れるから、「恐怖心」に特に気づかないかも知れませんが、内部構成員の心情としては、「動物的に、恐怖心によって服従する」という本能が目覚めて、主観的に作用している状態なのですね。組織のトップは、人の中に眠る、この種の動物性(恐怖心による服従心)を目覚めさせておくような「儀式」を、一度は行う必要が「利己的に・クールに」ある訳でしょうね。言いかえれば、構成員は「動物扱い」なのです、さらに言いかえれば、「人間としての対等な扱いではない」のです。大体のところ、いや、ほとんど全部の組織という組織、社会という社会が「動物化」してるんじゃない? そして、ほんの一握りの人達が、「従わないと村八分にするぞ」という事を暗に示したり、「穏やかに」示したり等、利益を守っているのでしょうね。本当ならば、構成員が自分を客観的に見ていられれば、その組織が人としてどのようにマズイ状態にあるかを理解でき、行動・発言できると思います。私はいつも「意識的に」このような方針を大切にしている為に、組織には馴染まないのです。ある歌で、「村八分のことすら気づかない」とか歌ってるのがありましたけど、私はそういうのに気づかないほど、違う目的を持っているのです。でも、その意図に気づかない訳ではありません。実際に気づいている証拠としては、それら「隠れた意図」を逐一言葉にして、相手に直接、公の状況で問う、という行動が挙げられます。某フォーラムでもそうでしたが、スブドでもそうでした。つまり以前からそうでした。
組織内部で「動物的恐怖心」を相手に引き起こしながら、「もっと人の立場で物を考えよ」と言うのは、動物的に立場を考える場合です。人間的に立場を考えるならば、「先ず何よりもたった今死にそうになっている組織外の人々の為に」何かを出来ることから始めるという事になるのではないでしょうか。組織内で人の立場考えたって、それは誰でもそうなるはずの、機械的な事でしかないですよね。真に人間的な行動ならば、真・愛・美・善・誠(一言で、神)に従って、「もっと大切な立場を守る」という自由意志を発揮できると思います。(200011220408)
備忘録:昨日、8/26(水)のニュース23で筑紫氏が沖縄に縁ある方であったことが確認出来ました。(199808270327)
3/5(木)に、筑紫哲也さんの夢を見ました。沖縄問題について筑紫さんが講義をしてて、私はとても感動してました。他に講義を聞いてる人たちも皆、感動してました。そうですね、やはり、戦争が起こるような社会だったりシステムであってはなりませんね。おっしゃるように、自分個人というより、「社会」への奉仕ですね。ただ、「社会」の部分が「神」という認識になります。仕事では問題ある事も商品も扱ってないのです。社会的な利益等へ私は向っていないのです。「社会奉仕」という意味では、自分で出来そうな事、役に立ちそうな事をやっています。フリーエネルギーの開発への刺激となれるような翻訳を今は、やったりしてます。しかし、シンクロニシティーが中心的課題となったりするのは、そこに神を見るからです。また、人を神(社会奉仕等)へ向けようとする傾向があるとは思います。数字や文字で私が「自分自分している」ように見えるのはこの問題の性格上、当然かも知れませんが、それは社会的利益を目指してない証拠であるとは思いませんか? つまり、人の心を神(社会奉仕等)へ向けさせようとしてます。しかし、社会的貢献が何か出来るなら、それを拒むはずもありません。「必要な行動」ならするでしょう。シンクロニシティーに神を見たから翌日にでも結婚するかと思いきや、そのために7年間、結婚できないでいたのです。神とは、私を越える私の価値観でした。私が「自分自分している」ように見えるのは当然かも知れませんが、それは自己探求や神が第一になってるからであって、利己主義ではない点を強調しておこうと思いました。でも、確かにヒンシュクというか、そういう面の反応は先ず予想されましたが、同時に、シンクロの事実という思いがあったのです。この後者の思いをピックアップしたため、「自分自分して」ちょっと社会から遠くなったのだと思います。今後は前者の思いをピックアップしてみてもいいですけど、そのようなシンクロがわざわざ用意されているのに、その種の情報を取り上げないでいてもいいものだろうか、という思いもあります。それに、このように異議を唱えて下さるおかげで議論が展開できます。やはりヒンシュクでも、シンクロの紹介は今後も有り得る事だと思っております。それは、「一例として」人類の上に神の御意志がどのようにちりばめられているのか、を発見する過程でもあり、それで向っているのは神であり、人の心が神の偉大さの一端に触れるため、という意図が私にはあります。神へと向っているのであり、利己主義へ向っているのでは無いのです。確かに、現状や社会から余り遠くなるのも気をつけたほうがいいかも知れませんが、しかし、異議を唱えてもらいたい私としては、あまり気をつけ過ぎるような事は、ないだろうと予想します。筑紫哲也さんには、裏をかいたり、本人不在のような事なく、フェアーな意見をありがとうございました。(199803120403)
私は利己的に社会を目指していません。自分の意志や考えや価値観で社会的にどのような状況も作ろうとはしていません。示される道筋に従って、結婚相手を探しているだけである。結婚相手は一人だけではある。これは全く個人的な行動であります。また、私個人の価値観によって特定の集団や社会を作ろうとか組織しようとは思わない。社会(的状況)が目的ではないからである。私が社会コントロールを目指してない(0)のは、それを司る(∞)のは神だと思うから。でも、自分が何か言うべきだという判断が成立したら、何か言う事はあり得ます。例えば、「ファシスト」にされそうな雰囲気が出てきたとか、そういう、仕組を無に帰そうとかする何かがあった時とか。私個人としては、例えば、「誰にでも可能性が云々」という(当たり前の)事を言いながら、社会的状況を目指すことはありません。なぜなら、当たり前のことだからです。自分が向うべき所に向ってるだけです。だから、自分だけが特別であるという行動をしているように見えるかも知れません。それはそれでいいとも思う。私個人は社会的状況にはノータッチですから。タッチするときは、何かの発想があると思う。この神の仕組に於て、私は神への信頼の故に、個人的な行動をしているだけ(0)である。その意味は、人類への共通の恩寵をもたらすこと(∞)であり、「誰が選ばれ、誰が選ばれなかったか」という一時的な相に終始するのが目的ではない。確かに、それは事実には違いないけど、それで終わりだと本当に思って批判するとしたら、本当かよ?と言いたくなります(^_^;)。私が「選ばれ」、誰かが「選ばれて」、それが活動のすべてに「見える」のは、それが私に与えられている活動の範囲だからです。一見、何の社会的福祉も目指さず、自分の特権意識を通しながらの「社会活動」をしているようにしか「見え」ないのは、当然でしょう。私は単に結婚相手を探しているだけであり、社会的状況を目指してないからである。それを「社会を目指す活動だ」というフィルターを通して見ると、そのように見えるのである。だが、私がしているのは、神に従うことである。なぜなら、神の御意志に従う事こそが社会、ひいては人類への「究極の」奉仕となるからである。私個人は神に従う「だけ」である。従って、そこに私個人の価値観や欲求による社会を実現しようとするような行動はありません。
「神の仕組」と言ってますが、その根拠は一二三神示等、昔から「神一厘の仕組」と言われているからです。人によっては「神」の仕組とは思いたくなくて、1であること以前の意味に拘る人に対しては、少なくとも、この仕組の存在が現実に在るという事実が示せればと思います。もし、一人で全てを背負っていたら、どこかの国の主席のように、一人で巨大な矛盾を抱え込まねばならなかったのでしょうが、1と99に分れておりますので、矛盾を抱えずに自分は自分としての道を行けばいいのですから。私個人は社会を目指してない(0)。しかし、神は社会を目指している(∞)、というより、社会を司るのは神である。神は、0=卍=∞である。ここであえてフォローしておけば、この図式は「誰にでも」当てはまると思います。
神の主旨は、全人類の幸福であるのは当たり前でしょうが、それは勿論、私のコントロールする事ではありません。従って、私個人の主旨は、神を信頼し、従う事である。それは個人的活動ですが、神の仕組だと思っています。自分個人の道を行けば、全人類への社会的福祉となると思っています。
ただ、「神」とは言っても、一二三神示にもあるように、「神懸りの無い世が、真の神の世」とか「光の世とは、光なき世」という事だと思います。