(Transl-Escorted)
善人と悪人を定義しましょう(性別無関係)。
善=「自分自身を生かすこと」、悪=「自分を小さくすること」。

悪人(レベル1=永続的):
良い事、美しい事、素晴らしい事、楽しい事を「積極的に破壊する」意図を持ち、実行する人が悪人です。美しく咲いた花を自身の欲望によって意味もなく破壊するのが悪人です。自身よりも優れた存在を悪人が破壊したがる真の理由は、「優れているからではありません」。それは「優れている」と社会的に認知を受けるようになると破壊を始めるので、悪人の本心が分かります。

部分的悪人(レベル2=一時的)=一般的な善人
その発想は個人により千差万別です。段階も種類も様々です。「私は悪人を遠ざけないだけ」「私はこの商取引が続く間だけ悪人とつきあう」「私は悪人と仲良くしたくないが仲良くしてしまう」「私は悪人と仲良くするように努めている(空虚な言葉)」「私はネットを介してやりとりしていただけで、その人の性格を知らなかった」。

悪人見習い(レベル3=瞬間的)=一般的な善人
日本人には、この種類の人が非常に多いだろうと思います。精神的なストレス(怒りなど)を抱えている人は無関係の第三者に対して「復讐する」ことをする時があります。この行為は悪人の始まりです。どうしても復讐したいなら、その原因となった本人に対して行いましょう。

悪人(レベル1)は体内の動物的欲望だけを感じています(例:縄張り意識)。悪人(レベル1)はそれ以外を感じる事が出来ません。非常に狭い。悪人(レベル1)の心を善人の心から見てみましょう。善い人が感じている事は、悪人(レベル1)の行為を「そのようなことを瞬間的に思うだけであっても嫌だ」と思います。非常に大きな差があります。

部分的悪人(レベル2)は悪人(レベル1)ほどではありませんが、部分的悪人(レベル2)にはある種の幼児性があります。部分的悪人(レベル2)が人を見た時「あなたが飴をくれる」と「無自覚に固定的に」思ってしまうでしょう。部分的悪人(レベル2)は本能的(飴を中心にして)に行動します。もしレベル2が「人との関係」か「真実」かと選択を迫られると、彼/彼女は知人との関係を選びます(群れの本能)。レベル2は、「知っている人」と「知らない人」との間の差が大きい(群れの本能)。レベル2は、真実に従うよりも「人から認知されること」が大切です(群れの本能)。群れの本能はあって当然です。問題な点は、「無自覚」と「衝動的に動かされる」ところです。人は無自覚かつ衝動的に動かされていると、「彼/彼女は関係性に埋没します」。
人が関係性に埋没すると、別の本能「上または下」が起動します。ある人は「上に立つ為に」いじめる。人を攻撃しない性格の人は、彼/彼女は「上に立つ為に」金持ちになろうとしたり高価な品物で身を飾ったりします。「私が高い場所に居ないとストレスを感じる」との性格傾向の原因は鳥の遺伝子?
レベル2は大抵、レベル3の行動をするだろうと思います。しかし、彼/彼女は飴を失いたくないので、自分が所属する社会の中でレベル3の振る舞いを(それほど頻繁に)見せません。但し、レベル2はレベル1よりも広範囲を感じて対応する事が出来ます。ただ、誰が会長になるか、または、副会長職の新設を考える、または、名誉会長以外に準名誉会長が必要だ、そのような議論を終日するのはどうだろうかと思う。 このように、人は周囲の事に必死ですが、死んだ後に移動できるものは自分だけです。これは逆説的です。人の利益を破壊または奪い続けて数十年経過すると「自身=悪」という方程式があなたの中に蓄積している事に気付きます。一方、人から奪われても、誰にも攻撃せず忍耐していた人は数十年経過すると「自身=善」という方程式が積み重なって輝いている事に気が付きます。宝物は本当にあなたの中にあったのです。金持ちが「利益に拘泥しない自分」を獲得するのは稀です。これは逆説的です。

知人と他人を(必然なこと以外は)分けるべきではないと思うし、関係性を上げ下げすることに必死になるべきではないし、内向きの関係性への埋没よりも真実によって行動すべきだと思います。

以上のように否定地図を黒く塗りつぶしました。残っている場所はどこですか? 肯定地図はあなた自身の場所ですから、私は決定できません。(201502111526)
Reference(Though Japanese)



 以前、ファイル[芸能・テレビ界の性格]で述べたり、下記で「人でなし」の定義に該当する例を挙げてますが、また挙げたくなりました。それは、優先判断「社会的な利益>真心・・性」を行う人々のことです。私は、こういうのはヒドイと思うのに、芸能界の人々は、普通の発想になっているので、今回の発言をしたくなりました。

 恋というのは、極めてパーソナルな事です。なのに、芸能界は「恋禁止を強要(社会的利益を強要)」したり、「恋公開の強要」をするように思われます。でも、本来、それが真に恋ならば、異性からの告白を受けた人は、基本的に無関係であるべき周囲の友人に「(自分の社会的な価値を上げる為に)告白された」と「密告」すべきではないのです。それは、「告白してくれた人」に対する裏切り行為だから。ところが、芸能界では、それが異常だとも思われていないと思われます。私だったら決してしない行為を「普通に行っている」という点をクローズアップしてみたいと思います。

 と呼べる領域に関して他のパターンについて思うことがあります。ここで上記のような、芸能界の人のような発想を普通にする「性格の悪い人」と、そうではない「性格の良い人」に分けてみます。性格の悪い人は、社会と自身の区別がまだついていないために、自身の体内に発生する欲求の為に、周囲社会を無理強いして動かそうとします。それで、相思相の二人がいたとして、その二人のやり取りに割って入ったり、ひびを入れるための噂話を流したり等の工作を行ったりします。本当ならば優先判断「同意が成立している二人の社会>自身の嫉妬心」を行うべきなのです。このような判断は性格の良い人は普通にしていることです。

 また、性格の悪い人は「同性を意識・競争(上記のような妨害)しながら恋を意図・工作・実行してゆく」というパターンを取るように思います。でも、これでは、この性格の悪い人のの対象は、その同性なのか、その異性なのか分らなくなる部分が出てきてしまいます。でも、性格の良い人は「異性だけを意識して恋を自然実行してゆく」と思います。飽く迄も、目指すは異性との同意を深める事であり、情だと思います。それが成立していれば、同性からの妨害工作は、二人の間柄(情報的・情緒的親密性)以上に凌駕するものではないと思います。

 人気で商売してお金を稼ぐこと自体が悪いとは全く思いませんが、それは飽く迄、自然な流れの中である間は、だと思います。一旦、マインド・頭脳で意図されるようになり始めると、「ファンのプライバシーを流通」させたり、タレントの恋を「事務所が潰したり」、「自身の株を上げる為にファンの善意を利用しようと意図して利用したり」等の、非自然な流れをゴリ押しするような点に対して異議を申しました。

 それから、自己弁護の為に述べておきたいのは、私がホームページでレターを公開していることです。これは「社会的利益の為にを公開」してはいますが、公開当初の1996年の私の発想では、世界がどうなるのか分らないという危機感の上での自己犠牲の側面がほとんどであり、自分の社会的利益の為ではなく、社会そのものの社会的利益の為に公開したのです。そのような例外的な範疇に当てはまるものだと思いますから。(201008302108)



社会の中の、男性性と女性性を解読してみます。

 私が考える男性性とは、「一時的な力=デジタル【破壊力として顕れる場合が多い。他に、発明・発見とか:デジタルは必ずしも破壊力ではない】」のことです。一方、女性性とは「永続的な力=アナログ(維持・創造力)」です。例えば、一時的破壊力で大きい例として、戦争は一時的な現象です。絶対に永続しません。例えばミサイルで攻撃するのは一瞬です。その一瞬が続きはしません、原理的に、絶対に。戦争を「続ける」事は原理的に有り得るかも知れないと言う人がいるかも知れませんが、そんなことをしたら、その人種自体が消えます。そんな馬鹿なことが一時的にせよ出来るのは、生命力が彼らの肉体を維持し、また、新たな生命を創造しているからです。生命のこの永続性、創造性を女性性と私は言います。女性性は一瞬も途切れることなく生命(や社会)を維持している側です。一方、男性性は(女性性から恩恵を受けていながら)ほんの一瞬、何かをして、それで収まります。その男性の作為が創造的な意図であった場合は、女性側(社会の維持力)も喜んで声を出して(^^;それを受け入れて何かが社会の中に生まれます。

 法律の運用にしてもそうです。始めは、例えば交通規則にしても、「踏み切りは“危ないから”必ず一時停止しよう」という取り決めがあった訳です。このような初発の精神がその「法律の精神」ですよね。女性性から発した維持力です。ところが、このような法律の精神を「忘れて」、男性性(女性が男性的に運用する場合も有り得る)が運用をするようになると、「コラ!(=ウォウ!)踏み切り前で(左右を確認したにも関わらず)“完全に”停止しなかったな!」と言って自分の点数を稼ぎます。「法律の精神」を完全に忘れていることが分りますね。こういうのは「人への破壊力」と言います。ちょっと前までの警察は国民をわざわざ敵に回しているようでした。そのようになった背景には、CIAのような軍産複合体の「(日本の警察と国民を)相反目させよ」という戦略が(日本の警察組織のさらに上からの脅迫的命令として)見え隠れしているという想像もできます。

 今回の文章は(201002071842)付けですが、本日、ホームページに登録しておこうと思います。(201008241635)



 阿修羅発言の動画を見ていたら、ガンジーの言葉として流れたテロップの言葉は含蓄があると思うので、ここに紹介して置けば少しは広められ、共通の利益になると思いました。当動画には、他にも含蓄ある言葉が複数出てきます。

7つの社会的罪 by マハトマ・ガンジー

・理念なき政治 (←これって、まさに現代日本のアメリカ追随型政治ですね)
・労働なき富
・良心なき快楽
・人格なき学識
・道徳なき商業
・人間性なき科学
・献身なき信仰

 少し疑問に思いましたのは『労働なき富』です。というのは、一二三神示に「働かない者にもどんどん与えよ」とあるからです。富は所有権であり、生存権はその上位にあると思うし。自然は生物に特別な条件を課さずに果実等の食べ物を与えて下さいます。確かに、果実をもぎ取るという運動は必要ですが、これは労働というようなものではないし。ガンジーもマトリックスに引っかかっていたのかな。でも、誠実な人々が労“苦”【かなりいるだろう「労“快”の人」は除く】して働いているのに、人口にして一部の金持ちが金融等で莫大な金額を所有してしまう現実【ごく一部の「儲かりすぎて恐怖する人々(キャー!)(^^;」を除く】を「対比」した上での相対的な言葉『労働なき富』として捉えると理解できると思います。つまり、絶対的な意味で『労働なき富』を悪とは言っていないと思います。このように、受け取る側が言葉の適用領域を最適化して理解する事が必要な場合は社会の中には多々ありますね。いちいち驚いたり「唖然ごっこ」をするタイプの人もいますが。座禅じゃないんだから(笑)。

 それから他に思いましたのは、情報社会である現代に言えることも他にあるだろうという点です。情報の命は「確かさ」ですから。例えば、「その人についての噂話を、本人に確認せずに信じてしまう」という断定は「社会的罪」に該当しますよね。勿論、本人に対して「このように言われている・記事が載っているんだけど」と紹介してもレスポンスが無しのつぶてだったりしたら、その噂が「どうも本当の事らしい」という方向に傾くのも仕方がありませんが。逆の例としては、一切合財の100%の詳細解明について“本人がやる気満々”なのに、「どのような情報がまことしやかに語られているのか、一切、本人の耳に入ってこない」というのもまた、「社会的罪」でしょうね。これでは、いくら本人でも、何をどのように情報訂正すればいいのか分りません。この場合は、その噂が「どうも嘘・捏造らしい」という方向に傾くのも当然でしょう。

 当動画が終わったときに紹介されるその他の動画にベンジャミン・フルフォード氏の講演の動画がありますが、これまた素晴らしい動画です。(200712010026)


 太陽出版星雲社の「宇宙の法」のエランのメッセージの中にあるように、人は光の本質を持っています。光は目的に向かって真っ直ぐに、最短距離を進みます。この性質は「理」においても「情」においてもそうですよね。「理」では、具体的で単刀直入であれば具体化し易いと思います。「情」でも、その情のままに、やはり単刀直入であれば、本人だけにとっては解決し易い訳です。これは個人的な「情」でしたが、非個人的な「情」であれば、神の「情」()ですね。神の情もやはり、自分のする人へと最短距離を行こうとしますでしょ。人間は、上位存在のを区別が出来ませんから、小天使も大天使も神も、さらにその上も、全部カミですね。そういう訳で、最近は「理」が軽視されがちなところがあるようなので、「理」も光の顕現であることは納得できると思います。

 悪というのは、心の中に本人の意思によって「闇・裏側」という暗い領域を「(相手に秘密裏に)作り出す」ことで発生するのは自明と思います。その領域は、社会一般に対して「理」が通らない本人だけの領域です。本人だけの領域で「本人だけの事」を決定(例:さあ、車に乗ろう)することは問題ないのですが、第三者(例えば、Aさん)が絡むような「決定」を、Aさんのいない所で勝手に「決めてしまう」のは、(事柄にもりますが)悪ですね。故に、Aさんに関わる事柄については、ちゃんとAさんに彼の個人情報を確認し、どちらへ決定するか等を問う事は、「Aさんに対する闇」を、ひいては「闇・裏」を自分(ひいては、子供たち)の心の中に作り出さないために必要な行動ですね。この点では、芸能界というのは、芸能人の「人生」までも他者が「勝手に決めてしまう」程度が、悪を極めているかのように思います。

 心の中の「闇」や「裏」を優先的に持つタイプの人は、社会機構・組織などの指揮命令系統の立場を占めることは(ましてや、ヘッドに立つことは)、その個人の「闇・裏」の性格や強度に応じてかなりの程度は、制限・禁止されるべきだと思います。社会を健全に保つ秘訣の一つは、個人の心の中に「裏・闇」を作らないような個人が集まり、(光の元に)協力することだと思います。その協力するにおいても、Bさん他は、「Aさん」だからと言って親しく付き合う内に、彼らは「身内」となり、彼ら少数の利益の為に何事かを共謀します(日本ではそのようになり易いのかも)。しかし、それは社会全体への背信行為ともなり得ます。その理由は、彼ら少数者たちが心の中に闇を作り出したからですね。しかし、それは彼ら自身にとっては光に見えたものです。純粋に個人の為だけの行為「フランス料理を食べよう」であったならば、それは全く光だけだったのに、彼らの事案は純粋ではなかった。それは社会とリンクした要素がありました。故に、社会にとっての闇が発生した。「勝手に社会全体を利用しようとした」訳です(勿論、これも色々な場合がありますよね)。

 そういう訳で、私個人の主義としては、「情報公開」です。勿論、情報を公開しない「純粋に個人的な領域」があります。しかし、それは闇とか裏ではありません。人によっては、私のようにオープンな傾向を恐れる人もいますが、それはあなたを攻撃する意図ではありませんし。
 また、「個人行動主義」です。組織になってしまうと、「自分の知らない裏側で」物事が決定されたり、隠蔽されたり、進行していたりして驚くことがありますので、それらの事に責任を取りきれませんので、私は単独でしか動きません。
 しかし、理想が寄り集まって同じ意思を持つ人々が自然に集まるのならば、その目的意識において集合(その後の離散)はあり得ると思います(例えば私は、阿修羅掲示板とか)。それは、(他を押し退けようとする)利己的な発想よりも、目的意識において行われるものが基本・大事だと思います。ただ、それは「精神的に独立的な個々人」であった場合は有効ですが、やはり若い人の場合は、カリスマを感じさせる人の下に集まり易いし、また、カリスマを喜ばせることで自分も居心地良いという共生関係が成り立っているものだと思います。だから人によって色々な状況があります。私はよく、本能的に人を遠ざけますが(^^;、それによって人は「“自分が”拒絶された」という印象を持つと思います。でも、私は個人攻撃をしたつもりはない訳です。その言葉の「理」によって判断してほしいと思うのですが、その後その人は、「私」を見、意見を読むと、ことごとくそれが私の意見だからという動物的な理由によって(ある種の心の闇)反対ばかり言うようになるという症状も出るかも(^^;。本当なら、「理」が守られ貫かれたオープンな光の社会を、一人一人の個々人が、「心の闇」を作らないように気をつけて維持して行くものだと思います。(200305310156)

 私の思う、社会と個人の関わりの「プロセスの側面」について述べてみたいと思います。

【人でなし】●積極的な意味で人を殺す者と、消極的な意味で、「見殺す」者は、人としての自由は勿論、人としての権利が大幅に制限されるべきだと思う。

・【[国家のあるべき姿だと思います]にもタイプしましたが、個人(成人)の主権を簡単に侵す人(あえて「侵し返す人」を除く)もこちら側に分類すると、どうなるのでしょうね。人の主権を侵す事を平気で日々実行中の人々って、実はとても大きな問題があると思います。芸能界などは、人を商品として扱うので、この種の扱いをしがちな側面があるように思います。(200502100118)】
上記の「主権を侵す意図に基づく行為【人の恋、結婚、SEXを妨害しようと意図して妨害する様な行為】」は現在、非常に軽く看做みなされる傾向がありますが、死刑の一歩か二歩程度手前の刑に該当するのではないかと思うときがあります。(200502282040)
これこれのようなハートとマインドの運用方法は採らない忍耐力が人類には求められると思います。(200910091604)
【人であり】●上記以外の人について:

 1) あなたは自己の義務と権利のどちらに力を注ぎますか?
  (確かに、一体のものではあるが、以下のようなプロセスを[産むべき/生んではならない]と思う)

  ◎[義務>権利]の人=「人としての自由」と「人としての権利」が享受される。なぜなら、
   ・その人は、被害者の苦しみを理解しようとするからである。([義務>権利]の故に、ネガティブを避けずによく聞くから)
   ・その人は、積極的に奉仕として役を担うので世界に富をもたらす。([義務>権利]の故に、労苦を避けない)

  ◎[義務<権利]の人=「人としての権利」が享受され得るが、義務優先の人を一度でも責める事は許されない
   (自由の制限=そもそも、責める理由が基本的に存在しない[ボランティアを責めるのは止めにしましょう])

   ・その人は、被害者の苦言を見て見ぬフリをするからである。([義務<権利]の故に、自分に心地よい事しか受付けない)
   ・その人は、積極的には役を担おうとはしないから。([義務<権利]の故に、軽微な労苦を避ける)

 2) あなたは神と自分のどちらを優先する人ですか?

  (確かに、一体のものではあるが、以下のようなプロセスを[産むべき/生んではならない]と思う)

  ◎霊的な領域においては、人に力がないので、神に委ねるしかなく、また、そうすべき(全託すべき)である。
   ・神に向かって「私のプライバシーを侵さないで下さい」と言うのは、ナンセンスです。[全知の神>人の自我]
  ◎3次元的、物質的な領域に於いては、人が自分で何かが出来る領域である。
   「神よ、私の誤解を解いて下さい」と祈るよりも、自分から相手に言葉を伝えましょう。[見守る神<人の自我の物理行動]
   (善人に対して、その主権を物理的に侵しまくるような神をも畏れぬような傍若無人は許されない

 3) 人との繋がり、人脈について、あなたが密かに思うのは、次のどちらですか?
  ・[自己利益第一]?/[人への奉仕が第一]?
  (確かに、どちらにしても、利益は自分へと還って来る事で統合されるが、以下のようなプロセスを[産むべき/生んではならない]と思う)

  ◎密かに「利用しよう」と第一に意図しているのであれば、人に対して不利益を被らせると分かっている行為は許されない。
   ・このタイプの人は将来的にも「利益」を確保しようと尻尾を振るし、かつ、不利益を被らせて省みないからです。
  ◎密かに「奉仕」を第一に意図しているのであれば、利益・不利益の意図しない結果に関して、とやかく言われる筋合いはない。
   ・このタイプの人は、将来の「利益」を先ず破壊して、それから人と関わろうとする。人は、「利益を超えた関係しか」結べない事に気づく。

 4) あなたは、人に関して心中「密かに」断定する方法・プロセスは、次のどちらですか?
  (確かに、最終結果(真実)は一つだが、このようなプロセスを[産むべき/生んではならない]と思う)

  ◎一時的な、受け取った印象から密かに・勝手に相手を断定する。[傲慢傾向の判断] 未確認のまま勝手に断定して次の行動に移る事は許されない
  ◎自分にはこのように見える、と相手に確認してから断定する。[謙虚傾向の判断]
  ・ここで一つだけ述べたい事は、「真相というものは、かなり具体的で、特殊事情が絡み、予想に反しており、各々ユニークである」場合が多いのだ。

 5) あなたは、少数の支配者層という「個人的な権威(特定個人>社会)」を尊重する人ですか?
  それとも、個人性を超えて「社会は普遍的法則(特定個人<社会)」に則るべきだと考えますか?

  ◎あなたは「鳥肌ものの行動」を採れる人ですか?(恥・厚顔無礼こうがんぶれい) (権威を自利の為に用する考え方は慎むべし
   ・あなたは相手の「権威(個人的社会性)」と相手の「パーソナリティー(個人性)」のどちら側を多く尊重したのですか?
  ◎あなたは主観性を超えた完全無欲の行動が採れる人ですか?(非恥・高潔こうけつ
   ・あなたは「法則・定め(社会性)」と「個人的利害関係」のどちら側を多く尊重したのですか?

 6) あなたは、何か主張をしている時に、「自分を主張している」のですか?それとも「そのアイデアの公益性」を主張しているのですか?

利己の為に大事を捨てる発想を慎むべし

  ◎無駄な言葉が羅列していたり、不明確で分かり難い言葉が並んでいたり、官僚的等であれば、「自分を主張している」と思う。

  ◎分かり易い言葉で、明快な文章が並んでいれば、多くの人に理解される事に不安を持っていない「アイデアの公益性」を訴えていると思う。

 7) あなたは[人と自分を主観的に比較する意識<客観的であろうとする意識]ですか?

  ◎持たざる者が、自分より持てる者を見上る(←主観的表現)時には、某神霊の述べたように「人生を比較する事はできない」という原則は大切だと思う。
  (某神霊もこの種の文脈の中から「人生を比較する事はできない」と述べていました。持てる者が不当にバッシングされる風潮は消えるべきだと思う)

  ◎持てる者が、自分より持たざる者を見下し(←主観的表現)「人生を比較する事はできない」と言いながら、
   困窮する者を見捨てたり忘れることを良しとしていますか?
   (その困窮の度合いに応じて、無視は許されざる行為となって行くと思います
(200502220125)




 私には「この種の」場合分けで物事を「こうであるべきだ」と考えている傾向は、、、あります。このような構造から外れる人を責める時に、良心を感じる事はないと思います。そうすべきだと思うから。そうすべきだと思って自分の性格も変わって来ました(価値観の世界です)。私は時々人を「口撃」することがありますが、動機は「〜すべきである」にあり、何か優越感を得るとか、そういう目的意識ではありません。(200212112335)

 人は多分、「宝物」の概念が逆転していると思います。「(人の)命=地球の宝物」です。そのためにお金を使います。自分個人のためだけにお金を使っている社会システムが原因して人々の「虚しさ」や「寂しさ」を作り出しているのだと思います。(200212072211)

 思うんですけど、「人の立場に立って考える」人ならば、必ず、ユニセフへの寄付をしたりすると思うんですけどね。窮乏している地域の、大人もそうですが子供達の事を、人としては、先ず彼らの立場を考えて行動すべきだと思うんですけどね。
 私はあまり組織的な事は目指しません。なぜなら、性格もありますけど、私の関わっている領域が、最も根本的で本質的な領域だからです。特定の企業や同好の会とはスタンスが違って来ますでしょ。だから、それらとは違い、組織とは無縁です。人々を統べるのは、言ってみれば、「真・誠・・美etc」です。その特性を備えているのは「神」と一言で言っても可ですよね。だから、特定の誰かに動物的に服従する(させられる)ような組織的なものではなく、自ら進んで服従する真善美こそが基礎となって人々のまとまりが形成されるならそれは理想的だと私は思います。
 それから、ちょっと思ったのですが、「社会形式の恐怖」というのがありますよね。特定の社会を維持するためという、なんか利己的な判断に基づいて、そういう「恐怖心」を当該社会の構成員の中に広めておく、という「トップのやり方」ありますよね。宗教組織であれば、「お布施をしないと1年以内にガンになる」とか、企業社会であれば「我々と価値観を共有し、服従しない時は、村八分(または子供扱い等)にするよ」というのを不文律にしているのではないでしょうか。その組織の外から単に見てる時は客観的に見れるから、「恐怖心」に特に気づかないかも知れませんが、内部構成員の心情としては、「動物的に、恐怖心によって服従する」という本能が目覚めて、主観的に作用している状態なのですね。組織のトップは、人の中に眠る、この種の動物性(恐怖心による服従心)を目覚めさせておくような「儀式」を、一度は行う必要が「利己的に・クールに」ある訳でしょうね。言いかえれば、構成員は「動物扱い」なのです、さらに言いかえれば、「人間としての対等な扱いではない」のです。大体のところ、いや、ほとんど全部の組織という組織、社会という社会が「動物化」してるんじゃない? そして、ほんの一握りの人達が、「従わないと村八分にするぞ」という事を暗に示したり、「穏やかに」示したり等、利益を守っているのでしょうね。本当ならば、構成員が自分を客観的に見ていられれば、その組織が人としてどのようにマズイ状態にあるかを理解でき、行動・発言できると思います。私はいつも「意識的に」このような方針を大切にしている為に、組織には馴染まないのです。ある歌で、「村八分のことすら気づかない」とか歌ってるのがありましたけど、私はそういうのに気づかないほど、違う目的を持っているのです。でも、その意図に気づかない訳ではありません。実際に気づいている証拠としては、それら「隠れた意図」を逐一言葉にして、相手に直接、公の状況で問う、という行動が挙げられます。某フォーラムでもそうでしたが、スブドでもそうでした。つまり以前からそうでした。
 組織内部で「動物的恐怖心」を相手に引き起こしながら、「もっと人の立場で物を考えよ」と言うのは、動物的に立場を考える場合です。人間的に立場を考えるならば、「先ず何よりもたった今死にそうになっている組織外の人々の為に」何かを出来ることから始めるという事になるのではないでしょうか。組織内で人の立場考えたって、それは誰でもそうなるはずの、機械的な事でしかないですよね。真に人間的な行動ならば、真・・美・善・誠(一言で、神)に従って、「もっと大切な立場を守る」という自由意志を発揮できると思います。(200011220408)

備忘録:昨日、8/26(水)のニュース23で筑紫氏が沖縄に縁ある方であったことが確認出来ました。(199808270327)

3/5(木)に、筑紫哲也さんの夢を見ました。沖縄問題について筑紫さんが講義をしてて、私はとても感動してました。他に講義を聞いてる人たちも皆、感動してました。そうですね、やはり、戦争が起こるような社会だったりシステムであってはなりませんね。おっしゃるように、自分個人というより、「社会」への奉仕ですね。ただ、「社会」の部分が「神」という認識になります。仕事では問題ある事も商品も扱ってないのです。社会的な利益等へ私は向っていないのです。「社会奉仕」という意味では、自分で出来そうな事、役に立ちそうな事をやっています。フリーエネルギーの開発への刺激となれるような翻訳を今は、やったりしてます。しかし、シンクロニシティーが中心的課題となったりするのは、そこに神を見るからです。また、人を神(社会奉仕等)へ向けようとする傾向があるとは思います。数字や文字で私が「自分自分している」ように見えるのはこの問題の性格上、当然かも知れませんが、それは社会的利益を目指してない証拠であるとは思いませんか? つまり、人の心を神(社会奉仕等)へ向けさせようとしてます。しかし、社会的貢献が何か出来るなら、それを拒むはずもありません。「必要な行動」ならするでしょう。シンクロニシティーに神を見たから翌日にでも結婚するかと思いきや、そのために7年間、結婚できないでいたのです。神とは、私を越える私の価値観でした。私が「自分自分している」ように見えるのは当然かも知れませんが、それは自己探求や神が第一になってるからであって、利己主義ではない点を強調しておこうと思いました。でも、確かにヒンシュクというか、そういう面の反応は先ず予想されましたが、同時に、シンクロの事実という思いがあったのです。この後者の思いをピックアップしたため、「自分自分して」ちょっと社会から遠くなったのだと思います。今後は前者の思いをピックアップしてみてもいいですけど、そのようなシンクロがわざわざ用意されているのに、その種の情報を取り上げないでいてもいいものだろうか、という思いもあります。それに、このように異議を唱えて下さるおかげで議論が展開できます。やはりヒンシュクでも、シンクロの紹介は今後も有り得る事だと思っております。それは、「一例として」人類の上に神の御意志がどのようにちりばめられているのか、を発見する過程でもあり、それで向っているのは神であり、人の心が神の偉大さの一端に触れるため、という意図が私にはあります。神へと向っているのであり、利己主義へ向っているのでは無いのです。確かに、現状や社会から余り遠くなるのも気をつけたほうがいいかも知れませんが、しかし、異議を唱えてもらいたい私としては、あまり気をつけ過ぎるような事は、ないだろうと予想します。筑紫哲也さんには、裏をかいたり、本人不在のような事なく、フェアーな意見をありがとうございました。(199803120403)

 私は利己的に社会を目指していません。自分の意志や考えや価値観で社会的にどのような状況も作ろうとはしていません。示される道筋に従って、結婚相手を探しているだけである。結婚相手は一人だけではある。これは全く個人的な行動であります。また、私個人の価値観によって特定の集団や社会を作ろうとか組織しようとは思わない。社会(的状況)が目的ではないからである。私が社会コントロールを目指してない(0)のは、それを司る(∞)のは神だと思うから。でも、自分が何か言うべきだという判断が成立したら、何か言う事はあり得ます。例えば、「ファシスト」にされそうな雰囲気が出てきたとか、そういう、仕組を無に帰そうとかする何かがあった時とか。私個人としては、例えば、「誰にでも可能性が云々」という(当たり前の)事を言いながら、社会的状況を目指すことはありません。なぜなら、当たり前のことだからです。自分が向うべき所に向ってるだけです。だから、自分だけが特別であるという行動をしているように見えるかも知れません。それはそれでいいとも思う。私個人は社会的状況にはノータッチですから。タッチするときは、何かの発想があると思う。この神の仕組に於て、私は神への信頼の故に、個人的な行動をしているだけ(0)である。その意味は、人類への共通の恩寵をもたらすこと(∞)であり、「誰が選ばれ、誰が選ばれなかったか」という一時的な相に終始するのが目的ではない。確かに、それは事実には違いないけど、それで終わりだと本当に思って批判するとしたら、本当かよ?と言いたくなります(^_^;)。私が「選ばれ」、誰かが「選ばれて」、それが活動のすべてに「見える」のは、それが私に与えられている活動の範囲だからです。一見、何の社会的福祉も目指さず、自分の特権意識を通しながらの「社会活動」をしているようにしか「見え」ないのは、当然でしょう。私は単に結婚相手を探しているだけであり、社会的状況を目指してないからである。それを「社会を目指す活動だ」というフィルターを通して見ると、そのように見えるのである。だが、私がしているのは、神に従うことである。なぜなら、神の御意志に従う事こそが社会、ひいては人類への「究極の」奉仕となるからである。私個人は神に従う「だけ」である。従って、そこに私個人の価値観や欲求による社会を実現しようとするような行動はありません。

 「神の仕組」と言ってますが、その根拠は一二三神示等、昔から「神一厘の仕組」と言われているからです。人によっては「神」の仕組とは思いたくなくて、1であること以前の意味に拘る人に対しては、少なくとも、この仕組の存在が現実に在るという事実が示せればと思います。もし、一人で全てを背負っていたら、どこかの国の主席のように、一人で巨大な矛盾を抱え込まねばならなかったのでしょうが、1と99に分れておりますので、矛盾を抱えずに自分は自分としての道を行けばいいのですから。私個人は社会を目指してない(0)。しかし、神は社会を目指している(∞)、というより、社会を司るのは神である。神は、0=卍=∞である。ここであえてフォローしておけば、この図式は「誰にでも」当てはまると思います。

神の主旨は、全人類の幸福であるのは当たり前でしょうが、それは勿論、私のコントロールする事ではありません。従って、私個人の主旨は、神を信頼し、従う事である。それは個人的活動ですが、神の仕組だと思っています。自分個人の道を行けば、全人類への社会的福祉となると思っています。

ただ、「神」とは言っても、一二三神示にもあるように、「神懸りの無い世が、真の神の世」とか「光の世とは、光なき世」という事だと思います。

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