最近、変な説が唱えられている事に気づきました。それは「人は寂しい時には忙しくして気を紛らわす」という説です。なんとなく私に関する作り話だと思われますので、訂正します。このような偏見は、まるで私の性格が依存傾向100%のようではないですか(^^;。そういう移ろい行くものに「依存・立脚」などしてませんよ。
 私は以前いたスブドという会の中で、会員部というのをやってました。神奈川県川崎市鷺沼にスブドのセンターがあるのですが、週に2回、人が集まっておしゃべりをしたりして親睦を持ちます。ただ、私もたまに話に加わりましたが、「必要なこと、するべきこと」は段々と蓄積して行きます。お皿を洗ったり、皆に配る資料を誰がコピーしてページ順にしてホチキスするんですか? 誰がお茶を入れるんですか? 誰がお茶菓子を買ってくるんですか? 大体、私ともう一人のOさんという人で「必要な事」を処理していました。一応、組織としては、霊的側面に関与するヘルパーと物質的側面を担うコミティーに別れており、私がコミティーだったのも事実です。ただ、私は自分がヘルパーであっても、事務作業をしていたでしょうね。グルジェフに感化されていたから。つまり、私は親睦やダベリングを「自ら断って」義務を優先的にこなす性格です。個人的な利益の為に行動する人であったら、そういう「損の側にわざわざ回る」ことはしないでしょ?(200506072148)

 私は今まで、特に自分が社会的にやりたいことというものが無いと思っていたのですが、ちょっと前に気づいたのは、「善悪を明確にしたい」という社会活動をしたい気持ちがあると思います。善悪の根拠は尋ねられればいくらでも客観的な原則を返答するつもりでいるという戦闘的な性格です。コーランの神の言葉「戦え」も私に影響したと言えると思います。善は善として守ったり広めたり機会提供等々を「したい」のだし、悪は悪として暴露したいし機会を減少したい訳です。それが自分に不利益だから悪だとは判断しなくて、客観的な原則に拠っていたい訳です。こういう活動、すなわち善を拡大し、悪を潰すのが私はとても好きです。そういうことがやりたいことといえばやりたいことです。(200506070217)

 私は傾向としては「仲良くしよう」とはしますが、大抵は長く続かない。それは、「真実・事実」の点で衝突が発生するからです。人間関係については、自分の場合も、人の場合も、「どちらが真実で、どちらが偽りであるか」を(場合場合によって)具体的に決定して行こうとします。形としてだけ両人を「仲良く」させようとしません。例えば、ここに仲の悪いAさんとBさんがいたとして、私は「どうしてそうなったのですか?」と尋ねます。それは仲良くさせようとしては「いない」のです。今までの経過を細かく知り、その上で、「Aさんは正しい。Bさんは間違っている」と明々白々な結論を出すのが私の意図する事です。私は「どうしてそうなったのですか?」と尋ねること=「仲良くしてね」という意味合いは全くありません。「真実はどちらにあるか」という意味合いだけがあります。(200504042331)

 個々人にはニーズというものがありますが、私は特に空間的なニーズは無いのかもしれません。時間的には、ニーズと言えばニーズかも知れませんが、「無駄な時間経過を好まない」というニーズがあり、実はいつもせわしく動いています。動画をエンコードしている(例えば)1時間の間に別の事をしてデータ蓄積するのが趣味かも知れない。「休む」時にはじっくり時間を使って「休む」という有効な時間経過です。ただ、テレビ番組や映画を通常スピードで見ていると「無駄」を感じてしまい、見るのは常に2倍速です。眠りに入る前には大抵は、ビデオの(例えば)2時間番組のダビングを開始した状態で寝ます。こういう生活は、実は15年ほど続いております(^^;。
 それで、言おうと思ったのは、何かする時に、それが自分一人の為だけに行われるよりも、より多い人数に影響を与えるような事柄のほうが私は意味があると感じます。利己主義というのは、その精神性に深く入り込んだ訳ではありませんが、空しいとは思わないのだろうかと時々、思います。多分、あると思うのだが、そのような魂のサインを感じる時期をあえて無視している内に、何も感じなくなったからこそ、利己主義人間になるのだろうかと思う。こうして金銭病を患った人間が増えて行くのかもしれない。(200501202357)

 金銭病が蔓延している為に、人は他の価値観に気づくことさえ無いのかもしれないので、述べようと思います。お金で動く社会だから、お金は必要ですが、ただ必要なだけだと思います。お金が人の感情・感性の中に入り込むと、金額が増える為にがむしゃらに働くのではないでしょうか。そして、自分個人としても、利益に結びつかない活動はやらなくなります。自分一人の利益の為にしか人が活動しなくなるという魔力を持ってるようですね、お金は。なぜなら、お金という外的対象の中に、全ての富が象徴されて見えるからでしょうね。共有されざる富についてはお金で象徴化・代替してもいいのですが、それだけが見えている為に、共有され得る富(情報、気持ち、思いやり等々)の概念が希薄になって忘れられてしまう。その結果、「自分は豊かなので、誰であっても与える精神」が忘れられ、「自分は貧しいので、誰であってもむしり取る精神」ばかりになって来ると思います(まぁ、両方共、極端ですが)。人からむしり取る人というのは、先ず「自分は足りないので」という自己認識が先立っているというのが見られます。最初に、もうそのように「決め付けている」んですね、自分を。
 このような貧しい精神になった人々は、人間関係においても「人の心を、時にはむしり取って、所有しようとする傾向」を顕すのではないかと思います。人を見てて「何か先天的に貧しい自己を定義して、そこから発想・出発している」のを漠然と感じ、何か、病的な欠乏感、貧しさがあるように思えていました。それは、金銭病にかかっているのでしょう。(200501101945)

 前回の発言の後、11/26(金)の「報道ステーション」で「嫉妬」をテーマとした特集をやってました。それでちょっと思ったのでコメントしておこうと思いました。私は嫉妬が湧くこと自体については何も述べてはいません。下記で「病」と言いましたのは、人の結婚や恋を身を躍らせて妨害したり、何時間も何日も何年も絶えず目を光らせて「監視」し、二人が親密になるようなタイミングを制止したりするような、そういう「邪悪な“行動”」について述べていたのです。テーマは嫉妬が起きることではありません。それをコントロールしないがために起こる「邪悪さ」について述べていたのです。(200411272347)

私が(記憶の上で)「一度も犯したことがないこと」


 これらは、他の人には真似の出来ない事だという確信が湧きます。

1.人の恋や結婚に関して、自分の意思により妨害しようと意図して妨害した事は一度もありません。
(意図せずに、結果として妨害したと思われてしまった場合がなかったとは言えません。誤解された事があったような気もします)

2.何か重要な情報を知った時点で、それを社会へと発信して行くべき義務が生じますので私は「そのために」情報発信しています。お金に結びつく発想がありません【別に、結び付けても構いませんが、人が嫉妬=攻撃してくるかも知れないので面倒です】。こういう私の活動の縄張りを侵犯できる人の絶対数があまりいないと思います。

3.白黒さんの活動を見ていますと、私に関連する動きのことごとくに対して嫉妬しているように思われます。これは私の想像ですが、例えば私の色が白だったとした時に、彼のようなタイプの人は「なんで俺の色が白じゃいけないんだ?ええ?」という風に積極的に被害者に陥ろうとします。私はそうやって攻撃を受けるので不快なんだよな。これは単に色ですが、私が何か一つ発言でも行動でもする度に、それらが私のアイデンティティーのようになります。その領域は動物的には「縄張り」と言われ得ますが、それに対して強烈な対抗心をむき出しにして、私と同じ事をして、その縄張りを(社会的に)彼自身のものにしようと発奮するタイプの人がかなりいると思います。こういう「縄張り意識」というのはパレスティナ問題の本質でもあるかも知れません。最近、カップヌードルのCMで「NO BORDER」と言っていますね。『「僕たち」と「彼ら」の違いを過大に意識して、心の中に引いてしまったBORDER』という風に言っています。このように発奮する人って結構いると思う。阿修羅で発言するときに、ファイルjvideo.htmへリンクしたりすると、何故か怨念がやって来たものです。多分、それが私の「縄張り」として「認めないぞ」というのでしょうね。この「認めたくない」という発想が私にはよく分からない。単なる例ですが、バグワン・シュリ・ラジネーシが覚醒意識について語っているのを読み、「認めないぞ」と始める人がよく分からない。私の場合は、ただ単に「ラジニーシが覚醒について語っているという事実」以外の何物でもないという認識となり、「認めない」という反感は何もない。しかし、私は人が「認めない」とやり始めるのをよく見てきました(^^;。彼らの性格を見ていると、悪い部分が見えます。

 というのは、彼らに共通した傾向として、

「人のものは自分のもの」とか「自分よりも優れている人は認めない」

というのが抽出できる感があるからです。一言で言うと「傲慢さ」だと思う。白黒さんも、某神霊の言葉を「根拠なしに自分のことだと信じ込んでいた」為に、私がやってきて、根拠を挙げて、それを主張していた私によって、彼の「密かな縄張りが取られた」と感じていたらしい点が挙げられると思います。私がスブドにいた時も、パソコンを個人で導入した私に対する「認めないぞ攻撃」は、凄かったなぁ。一言でも「パソコン」と発語すると、「キケン」でした。彼らの善悪観念は、利己的・主観的な領域を全く越える事はなかった人たちみたいね。あ、そういえば今もそうだな。最近はこれを「私はアンタッチャブル」と表現しています。で、やっと結論になりますが、私には、この種の精神的病は全く存在しないわけです。人生で、私は、ただの1回でも人の「縄張り」を取ろうとしたことはないのです【私が何かの件について発言・主張する時は、同じようなことを言っている人の発言[そもそも私はその発言を知らない時も多いと思う]の縄張りを「取る」意識ではありません。それは単に「この理解を広めよう」という風な発想です】。きっと、これは他の人には真似の出来ない縄張りになると思います。なぜなら、「ただ1回も」そんなことをしたことはないからです。例えば、人が自分の前にやってきて「専門知識を披露した」時に、私はその事実を事実として認知する訳です。(200411202356)
 芸能界など見ていると、人の結婚を制限したり圧力をかけたりする邪悪な人が結構いることを見てきました。まあ、これは芸能界に限らず、スブドでもどこでもいましたね。このような人達は、「人のものは自分のもの」とか「自分よりも先んじる人は認めない」という共通傾向を抽出できますね。本来は両性の「同意」があればそれで良いだけなのにね。(200411210029)

・「争い」について
 物理的側面(=戦争)では「無いほうが良い」と思い、情報的側面(立場や知識や理解)については「どんどん争ったほうが良い」と思います。私にとって情報的に「争う」ことは、心を明るくし、楽しくなるものです。物理的な戦争は、「どんどん情報的側面で代替的に争う」ことによって解消されてゆく道があることを強調したいと思います。(参考

・「人間関係」について
 私は群れることで個人的に安心する傾向よりも、目的により、群れの運動体からは常に自由に振る舞う傾向です。別に善人を避けている訳ではありませんが。ただ、私は人生の途中で大きなターニング・ポイントがあり、それからは悪人には誰であれ親切にしない方針で生活しています。大橋純子さんなど([ミュージックシーンにからめて])は、人との「関係」に「自己が立脚している」という認識が大である方のように思います。だからこそ、関係性というものが、「ある特定の型に収まっていなければならない」という認識が発生するのでしょうか。その点については、私は、「社会的な関係性は、それほどに管理する義務はないので、ひっちゃかめっちゃかで放置結構」で、「はい、さようなら」という感覚を持っております。「はい、こんにちは」でもいいですが。そんなことはどちらも等しく自由に選び得るのだし、目的上、必要なら親しくなる訳でどちらもありえるのである。「絆」だとか「掟」だとか、そんな動物的な傾向を後生大事に抱えるタイプじゃありませんので。目的の上で「必要かどうか」で判断すればいいと思う。

 ところで、最近、なぜ、この種の超個人的な事柄にまでテレビ界?芸能界?の人が追及してくるのだろうか。大橋純子さんは、今まで近くにいる「性格の悪い人」に対して、殊更に親切にしたり避けないようにしたりといった努力を矛盾無く行って来た人なのだろうか?本当に「一度も性格の悪い人を避けた事が無い人」なのかどうか、確認させてもらう必要さえ出てきそうです。(200408140203)

 最近、思うのは、人々の一般的傾向についてです。人は誰かと自分との「関係」を最終目的にしている感があると思います。人は関係性が半分で自立性が半分ではないかと思います。その「関係性」の側面だけの認識「しか」存在していない傾向が窺えます。あるいは、物の考え方が、「自律性」とか「真実かどうか」よりも、誰かとの関係性によって物を考える側面が強いと思います。そんなことを思っている頃、台湾の女子大生が日本人に殺されてしまう事件がありました。この時のお兄さんの言葉が「好きな日本で永遠の眠りについたことは、妹は喜んでいると思います」というもので、このお兄さんが「関係性」によって物を考える傾向からは自由な人なんだなと思いました。普通は身近な人間が殺されたりして、人と人の関係が他人の身勝手によってブチ切られるような事があると、まさにブチ切れたり悲嘆に暮れるのが普通だと思えるのですが、そのような関係性の視点ではなく、「妹は彼女自身の死という体験を経過中であり、自分は地上に残されるという経験を経ている最中」という、各々の体験しつつある運命・物事の変化をあるがままに捉えているらしきを見て、このお兄さん個人に注目しましたね。妹さんは妹さんで別の経験を経ているという認識をしていましたよね、きっと。

 私は小学生の頃の昔から、人が集まれば「笑うものだ」と一種の方程式化して義務として捉えてました。自分は別に笑いたいとは思わないけど、人と会ったら笑うことになっていると思っていました。まあ、確かに、そのようにしていれば、いずれ習慣になり、自然なものになります。だけど、最初の頃の発想はそういうものでした。何かするときも、自分の決めた「目的」に向かって行動するタイプで、人と一緒にいようという傾向がない、または「一人で静かにしていたい」という性格です。単に目的へ向かって動くのです。しかし、その目的意識の中には他者一般の存在があり、自分の知らない彼ら善人たち全体への善意で行動します。そういう精神状態の私が誰かに接近する事があるとしたら、目的上、「必要だから」人に接近したり、あるいは同じ意見を唱えたりします【「同じ意見」を後から私が唱える場合は、その人の意見を盗んだのではなく、元々そういう自分の意見だったから後出しであっても堂々と「同じ意見」を述べる訳です】。その人個人への接近ではない点を御理解下さい。社会活動を義務として行い・発言する時の必要上、関わりがあるだけです。更に言えば、「関わっている」のでもありません。「関係が発生している」だけです。私の場合。(200407080142)

 この前、[MSさんについて]のほうで「シュタイナーによれば万人に該当する」と述べた(のがポイントだった?)から、でしょうか、「誰か」が怒っているらしきCM(→動画一覧へ)がありました。私が何を言ったというのでしょうか。私が当該発言をする「以前」は、罪深いのは「私(オリハル)だけ」という共通認識があったらしいことが、ポルノグラフィティの「が呼ぶほうへ」の冒頭の「償う人の背に降り続く雨」という歌詞から、それが「特定の人(達)だけ」を意味していたらしき傾向が判ると思います。まあ、別に、ポルノグラフィティは真面目な人達と思いますけどね。今回のことは私は特に何とも思っていなかったので、言及するつもりは無かったのですが、下記の点で述べようと今回思いました。

 普通、「精神的に依存している」と言う時は、「頼る」とか「心強い」とかのポジティブな依存の意味ですが、どうやら、私に対して「ネガティブに(精神的に)依存している精神」の持ち主の人口が少なくないような気がしての今回の発言です。つまり、「オリハル=罪深い」という認識を作り出し、共有することで、自らの安心立命を得るという、これも依存した精神構造ですね。それで述べておこうと思いますのは、大天使ミカエル(アーキエンジェル・マイケル)の言葉です。

 太陽出版の「黄金の約束」P.140によれば、

あなたがたの多くは大いなる犠牲を払って、自分自身の責任によるものではない多くの試練を体験することに同意しました。
や、あるいは、同ページの
別な言い方をすると、[…]それらのエネルギーをオーリックフィールド【オリハル註:オーラ】に置いて、バランスを取り【オリハル註:地球の】不完全なエネルギーのあり方を克服することに同意したのです。
という部分を挙げてみようと思います。これらは自分にも該当すると感じています。こう述べることで、「この点について依存できなくなった」と期待します。(200311242307)

 弥勒の仕組みが現れて来ましたのは、1991年です。私は1987年に自費出版で「世紀末研究」と題する本を出版しました。つまり、私は元々、自分が得た新しい発見を多くの人に知らせようとする性質があります。(200310292129)

 元発言は特定しないことにしますが、昨日、27日(月)に、阿修羅の雑談専用6の発言の中に、私に一つの気づきを与えてくれる「ある発言」が2つほどありました。つまり、私が意図しなかった所で、「人から元気を奪っていたかも知れない」という側面に注意が向きました。そういえば、当サイトにフリエネページを設けた時も、どことなくフリエネ関係の人の「元気がなくなって来た」ような気がした事もありました。この問題・側面について昨夜、寝る前に「どうしたらベストだろう?」と思惟していたら、「どうもありがとう!」と、こりゃまた随分とハッキリした大きな声が頭の中で聞こえました。それで、私が「人の元気をそがないようにする事は、結構大事なことかもしれない」と思いました。
 私が阿修羅発言を当サイトから参照したりリンクしたりすると「利用された」と発言者が感じてしまう可能性に気づきました。私自身、自分が発する情報が「金銭的に利用される」ことは普通になってて、その上、それらを「悪用」までされ、それを「逆利用」して非難までされてきました。それで、最初の感性が遠くなっていたことが理由となって気づきにくかったと思います。情報を「使われた」と思うほど自分のものだとは私は感じていないというのが常態だったのです。それに、私はかつて阿修羅内で「人間関係を利己的に第一目的として来たのではなく、有意義情報(を全体の為に生かす事)が目的です」と述べたのも効いた(^^;のかも知れません。もし、「連帯を組む」ようなことがあるとすれば、それは「阿修羅のような“(情報を)与えっぱなしの場”」においてこそ、有り得たのです。「よーし、私も有益情報を全体の為に生かすぞ」という点で張り切っていた(^^;のですが、何か、私は、「目立つ」ような所があるやも知れません。昨夜の「天の声(?)」はやはり、これは重要なポイントであるということを意味しているのかも知れません。
 ただ、この反面、「元気」のためには、ある種の自己矛盾を起こさなければならないかも知れませんね。つまり、政治家などが、自己利益やらを目的として行う行動・発言などを批判する権利はある程度の制限を受ける、という側面ですね。
 以前、北朝鮮に拉致された家族を取り戻そうと善意で頑張っていたのに国民からは非難ばかり受けて「担当を降りてしまった」代議士がいましたが、政治家も人間なのですから、非難ばかり受けていたら、「真意(真心)が伝わらないならもういいや、適当に公共工事の利権にありついて税金を泥棒してやるよ。国民によると私は税金泥棒らしいから、その期待に沿ってやるよ」と変節されてしまうのも無理はないのかも知れませんね(勿論、拉致家族の当事者の皆様の御心労は計りかねる程な訳ですが)。
 「政治家も人の子であった」と国民が感じられるような変化も必要かも知れませんね。そのためには、善人の政治家を責めることを国民が慎しみ、逆に、情報を握っている側の「人」が、それらの裏情報を全部ぶちまけて、「皆さん、どうしましょうか」という情報公開の方向へ向かうのが良いのではないかと思います。(200310282356)

 私はスブドという会にいたことがあり、そのため、イスラム文化圏の中にしばらくいました。当時、善の塊みたいになってて、苦しくて抜け道がなくてスブドという会に入りました。当時は、悪を含んだ方法論を示したグルジェフにも影響を受けました。コーランの言葉「戦え」も、私にとって新鮮でした。コーランは神(上)から下されたものです。人間にとっては天使も神も「上」であって区別が出来るものではないと思います。カミは人間の生殺与奪せいさつよだつ権を持っており、彼らの立場からの言葉がムハンマドに下されたために、そこには世にも恐ろしい「生死を越えた立場からの言葉」が並んでいると言えます。そのような言葉は人が発してはならない言葉です。故に、その言葉に対しては「人は従うしかない」と言えると思います。イスラムの本質もキリスト教の本質も神にあるのであって、人間の特定集団にあるのではない。神は人の身体を殺すだけではなく、悪人まで転生させて誕生させ、機会を与えるという生殺与奪権の実力行使をなさるお方です。
 アメリカがイラク戦を開始した頃、ブッシュ大統領は「これはキリスト教とイスラムの戦いだ」みたいに一回だけ述べて、後にそれを撤回したことがありました。確かに生殺与奪を司るお方の言葉は、通常の人間社会との間に軋轢を生むでしょう。コーランの言葉通りに従う人がいたら、真っ先にあの世へ行ってしまうでしょう。つまり、未だに現世に生きている事は、その分だけ不義の徒なのかも知れない訳です。それに、私は特定組織に属さず、イスラムに「入信」している訳ではありません。「豚肉から作ったラード」の混ざったポテトフライなどもマックで時々口にしますし。そのような「違反性」から見ますと、私はアメリカ中心社会にとって危険人物ではないと言っておこうと思います。というのは、神は慈悲深いお方ですが、人間社会は違いますから。(200310172336)

 私は、目に見えない領域のほうが重大性・重要性があると思っています。だからこそ、「やりたいことだけやって、どんな迷惑を(善)人に与えてもいい」などというプロセスは採りたくないし、採らない訳です。もし、簡単な例ですが、私の手から\1,000をひったくって逃げたBさんという人がいたならば、それ以後の「目に見える世界」と「目に見えない世界」を比較してみます。

「目に見える世界」では、
Bさん:得をした
私 :損をした

「目に見えない世界」では、
Bさん:彼の精神は、そこで発達が停止する(その領域精神については)=後ろ向きの自己認識と化して行く
私とBさんの人間関係(中間領域):その時点から関係が中断する
私にとっては、一つの「経験」「慣れ」「学習」となる=前向きの自己認識になって行く

 私はその経験を「させられた」からといっても、実は「目に見えない世界(=私の心の中)」においては、後ろ向きの自己認識は発生しません。「さあ、何でも来い」という気持ちが拡大するだけです。このように「目に見えない世界」を尊重する人は未来を大切にしている人ですね。前回述べましたように、「結果にこだわらない」というのは、「目に見えない世界」を尊重する態度に等しい訳です。勿論、なるべく目に見える何らかの結果を導こうとしている訳ですが、悪い動機や、悪いプロセスを持たない事=「目に見えない世界」を優先する態度です。
 この前、「泥棒した人がその全ての記録を取ってて、後で結婚して収入を得られるようになった時、その全額を各家に返却・投函して回った」というのをテレビでやってましたが、そういうふうにすれば、未来の自分を尊重することになりますね。もし、奪ったままで放置すれば、法則そのものからしっぺ返しを食らうことになるのは明らかでしょうね。それが現世であっても未来世であっても。

 「目に見える世界」が全てである人は、人から(物や機会を)奪い、人を騙し、つけこみ、結果(この世)ばかり得るのでしょう。そういう人は、自分で自分の霊的に悪い状況を用意・準備しているのでしょうね。「彼らの死後の生活のなんと悪いことよ」と霊的な存在なら言うと思います。(200308130240)

 私は基本的に、「(自分で納得できる)動機」>「(自分で疑問に思わない)プロセス」>「(自分の目指した)結果」を得る、という道を進んでおります。私には動機が大切なのです。従って、二番目にプロセスが大切になり、結果は「得られればいいんだけどね」という感じです。人を押しのけたり、理を曲げたり、その種の事を(特殊な強制力でも働かない限りは)(悪人以外の人に対しては)することはありませんので。(200305272345)

 ミュージックシーンに絡めて]のほうにも以前ちょっと触れたりしてましたが、最近、気づきました。以前、歌とか何かで、私を誉めてくれているかのような時に疲れを感じて、そんなことを言ったりしてましたが、その理由が、いつのまにか分かってました。つまり、私は具体的なコミュニケーション・具体的な情報と関わりたいのです。なのに、「私の事を言ってるようでもあり、違うようでもある」ような情報に関わるのに疲れていたのですね。だから、テレビとかで微笑んでくれたような時も、その「不確かさに反感を覚えていた」訳でした。笑顔そのものや善意に対して反感を持ってたのではなく、それらの不確かさに反感があったのでしたね。不確かであるという事は、その人は「決して確約しない=いつでも逃げられる」という態度をこちらに感じさせていたのですね。今は、不確かな状況が続くことに慣れている感はあります。(200111272313)

 昨日は、[戦争終結への道]に「1の法則」を追加した際、「唯一絶対神に特定の形や色や能力制限があるはずがない」と述べましたが、イエズス様や聖母マリヤ様を始め、偉大な存在が地球の為、人々の為に働いて下さる訳です。このような偉大な存在を否定などしてません。偉大な存在は私達にの偉大さ、神の偉大さを教えてくれますでしょ。彼らも神への道を指し示しているのです。彼らがいかに偉大でも、彼ら自身への道を示している訳ではない点が重要だと考えます。しかし、人が人に師事するという事からも分かるように、彼ら偉大な存在に師事しても、ある処までは有効性は大いにあり得るのもまた明らかと思います。道標ですね。しかし、人の発想として、どうしても究極のポイントへ注意が行きます。そこは絶対神以外ではあり得ないという原理的なものであり、そういう原理を神が作り出した宇宙ですよね。

 また、[自分で自分を弥勒と言う事について]にも述べてありますが、私が社会の中へと進出するのを嫌に思う人々は、過去世で私の可能性を断ち切った人々の側に属していたと推理できるようにも思います。某神霊のメッセージの中に、「剣がささる人」のエピソードが一つあったのと、今の私の心臓をあたたかい神秘的な炎が359の日から貫いている処に因果応報を思います。昨日[戦争終結への道]に「1の法則」を追加した事についての個人的側面です。彼らは単に嫌がるだけであり、それで殺される訳じゃないから随分と楽なものだ。今の私は、自分が間違いだと思う事はしないようにしてるだけです。でも、イエズス様のような方が迫害を受けたところからすると、カルマが全部ではなく、半分半分と捉えたほうが安全で妥当だと思います。故にカルマ的に関わってる人は半分と見なすことにしてます。(200111150221)

 私は、「とりあえず、その場をごまかして問題を先送りする」という「やり方」が好きではないという価値観があります(政治ではなく、個人的関係についてです)。こちらが人に質問した時、相手が急に話題を変えたりお茶を濁したりして、「時間が経てば、追及されなくなるだろう」という甘い考えを行動に移していると感じたときは、私は「いくら時間が経っても同じ質問を繰り返す」という行動に出る時があります。質問に対しては、「正面から受け止め、そのテーマのド真ん中を解答し、相手に答えるべきだ」と考えます。某チャネラーの場合はそれだけではなく、テーマ的にも重いものがあるので、その分、長期に渡りました。(200111110211)

 思いつきましたので、補足です。前回の私の文章は純粋に論理的に意味として捉えて頂きたいと思います(つまり、社会的な関係性でタイプしてない)。私は言葉を暗示的に用いる事は(ほとんど)ありません。前回・昨日の文章のどこにも「某チャネラー集団」という「言葉」はありません。その意味は、前回の文章は某チャネラー集団へ向けてタイプしたものではないという意味です。ただ、個々人との関係を否定するものではないという意味では前回の文は意味を成します。私は集団としての某チャネラー集団と関わりたくない。なぜなら、彼らは自分達の利益を優先する為に、何の関係もない私の活動を潰そうとして来た事を今までの行いで証明しているからです。ただ、私と関係を持とうとするならば、[集団的自意識過剰]に述べましたような条件を満たす必要があると今まで何度も述べてあります。このような文章さえ、「何も読まなかったフリ」をしている。ただ、これとは別個に、私は関わりを持つ積りは全く無い。
 また、某チャネラーが、神霊との契約として、チャネリングの内実を言ってはならないという事を私は勿論、知っています。私はそういう事を聞こうとして聞いてはいません。某チャネラーが「特定の出来事から反省すべき点があったのか/無かったのか」等の単なる個人的な側面について聞いた場合がほとんどと思います。全て、私は質問してたのであり、感情的な非難ではなかった(LOGを見よ)。私の質問を神霊や激情を口実にして意味をシフトさせないで下さい。また、私は普段、真実・事実を明らかにする善なる意図によって某フォーラムに書き込みをしてました。そのような過去の発言を悪意に捉えたり、そこから被害者になったと騒いだり、私には理解不能の主張ばかりしていたと推定してます。それらはいずれも「権利」ではない。特別に何か被害を受けた為に、その報復として派遣したりする以外は、人をおとしめたり裏をかいたり、可能性を潰したりする「権利」と言えるものは無い。某集団の誰もそのような権利を持ってないのは明らか。つまり、何の関係もない私の活動を、自分達の利益を優先しようとして妨害したりする権利は存在しないという事です。私はそちらの集団を貶めるみたいな意図は持ってません。しかし、事実についてはいつでも述べます。【権利】ばかり主張しないで下さい。最低限、[集団的自意識過剰]に述べましたような【義務】を果たさないと関わる{可能性}すら無いのだと、明示してるではないですか。ただ、これとは別個に、私はそういう組織・集団に関わりを持つ積りは全く無い。(200111100318)

 どうやら私への最近の批判は、「身近な楽しみを遠ざけて全体の為だけに働いても意味がない」みたいな事が言われているようだと分かりました(意味がないわけがない)。私は勿論、私的な楽しみとか人との交流を求める気持ちは自然にあります。こういう基本的なところに疑問を持たせようとするのは意図としておかしいと思う。ところで、この言説を「本気で(魂をかけて)信じた」人はいるのでしょうか? 例えば、30〜40年前なら「彼には性欲は無い」という言説を信じる人もいたかも知れませんが、なぜそういう事を信じてしまうのかよく理解が出来ませんね。私はそういう事を否定していません(と、言う必要があったのか?)。当たり前。私の基本は「虐げられる者のある事を許すまじ」という言葉で表現できます。これは言い換えれば、「自己利益を第一としない」と言って来ました通りです。善人を虐げるようであるならば、自分の楽しみを優先しないのです。しかし、人は大体において、自分の利益・楽しみを「優先する」。こういう発想は問題だと私は思いますので。私は人の恋や結婚を妨害しようとして妨害した事は、「ただの一度も無い」です。勿論、結婚とは一人だけとの結婚なので、それ以外の人を虐げるという事にはなりませんでしょ。また、私がコミュニケーションをしようとしても、皆、(多分、自己利益を守ろうとして)シカトなので、そういう楽しさとか利益の享受関係がありません。もちろん、私にとっての「楽しさとか利益の享受する人間関係」とは、同時に「人を虐げない」事が条件であり、もし、自分の、その仲間が他者への犠牲を考慮してない時には、私は真っ先に被害を被る人に電話とか連絡して「こういう被害があなたに被る可能性がありそうですが、どうですか」とか必ず聞きます。それで目の前の人が離れるなら、それは仕方ないと考えます。私は条件付ですが、楽しみとかそういうことを決して否定などしてないということです。そもそも、シカトしておいて「彼は人間関係を持とうとしない」と主張する人々は、どこかおかしいと思う。人として異常な点は私の側には無いと思う。ところで、今回の文章のテーマとしては、私への批判に適合してるでしょうか?(まあ、シカトでしょうけど) (200111090152)

 フト思ったのですが、何か悪い事が起きると全部私のせいにしているんじゃないかと思うと同時に、何か良い事が起きると私のお蔭と思う人もいるんじゃない? それって…(^^;。でも言わせてもらいますと、両方共、思いかたが極端ですよ。説明しなくても、もっと「現実的に」考えるべきでは? 私をボス猿に例えさせてもらうと、誰も周囲3m以内に近づこうとせずに、ウッホ、ウッホとかキーキーとか言ってるだけでしょ(^^;。 社会的状況や雰囲気と呼ばれるものによって発想が左右されたりせず、もっとタイトに確固とした発想に基づいて行動・判断すべきでしょ。そういう人が少ないから、社会が腐ったままなんだなぁ、きっと。(200111010236)

 今日、10/28(日)に夢を見ました。4組の方々が夢に出て来られました。昨日、下記にキツイ事を述べさせていただきました。その関連の内容の夢でした。昨日は、この世の価値観=社会に軸を置いた内容に限った為に、過激で偏った内容でありました。その点、申し訳ないと思います。シュタイナーなどが述べているような霊的な側面を考慮すれば、貧困国に生れたということ自体が、一つの彼らのカルマ的な側面を推理(飽くまで推理)できると思います。でも、カルマのようなことは大々的に言うべきものでもありませんが、昨日の私の強めの発言との関連で述べさせて頂きました。また、個々の人はそれぞれのテーマをお持ちの筈であり、人によっては(かなり例外的でしょうが)「寄付しない事を学ぶ」という人さえいるかも知れません。魂の学びという霊的な側面を勘定に入れると、個々の人に必要な事を学ぶ環境としての現在の環境なのであるという事も言えると思います。ただ、社会的には寄付する事が良いことだと一つの通念としてある訳で、そこらへんとの折り合いをつけるという意味では、寄付行為の為に人生を捧げるような「必要」は無いと思います。勿論、逆に、寄付活動に生涯を捧げるような事を必要とする人もいるかも知れません。ただ、寄付行為が絶対的に正しいと述べるよりは、社会的に勧められているという定型的なものなのかも知れません。

 また、私は「嘘をつくな」とか迫ってる感があるかも知れませんが、[ミュージックシーンに絡めて]にも述べましたが、シュタイナーによると、「嘘を付くと、霊界に破壊的作用を及ぼす」そうです。でも、お釈迦様は「嘘も方便」と述べました。この世と霊界と分けて考えますと、「本当の事を言うとこの世の何事かを破壊してしまう程度」が、はなはだしく大きい場合には、霊界への破壊的作用は、「より小さい」と期待できると思います。このような判断の分岐点が人によって差異があるのだと思います。特に大統領みたいな要職にある人は必然的に大きな影響をこの世に与えますから、嘘をつかなければならない時も度々あると思います。人によっては、つらい立場だと感じると思います。前置きが長くなりましたが、夢については、4組の方の1組目の方は、私の主張を善意で捉えてくれてました。ありがとうございます。2組目の方は片方の人がまだベッドで眠ってて、もう片方の人が起きて(何か飲んで?)いました。私は別にプライバシーを覗くつもりではなく、呼ばれたからそこにいたと思う。3組目の方は、階段ですれ違う時に「頑張ってね」と言ってくれた感じ。それで上の階に着いたら4組目の方の片方の人がいて、ちょっと私に距離を置きたい感じで、カウンターに座って何か飲んでました。

 ちなみに、下記で私はビン・ラーディンらしき人の夢など見ましたが、これは、私がビン・ラーディンを好き(^^;だったのではなく、ビン・ラーディン(らしき人)のほうで、私が眠っている時に私を引き寄せる結果となったのは明らかです。(200110281925)

 今日、27日(土)に、睡眠から目覚めた時に何故か、私をフクロウとする視点が私の中にあり、その見方を初めて知りました。これは思わぬ所に思わぬ視点があるものだと思いました。また、そう説明されると、確かに私が某神霊の言うフクロウだと思えてきます(^^;。それは、下記にもタイプしましたが、私が「善人への祈り」と「悪人への呪い」を発信しているという点を「片目の男」=「大きな男」=「フクロウ」と解釈していると知りました。なるほど(^^;。その「大きな男」の預言(1992/08/30 19:18)部分の前後を以下に抜粋してみます。

 目に見えるものだけを信じる人々が、大きな男に連れて行かれる。
 この男は、片目だけしか開けていないのだが、両目が開いているように見える。
              ****
 大きな決断は、小さな決断の積み木細工によって支えられるだろう。
 メッキは剥がれ、その下に錆びた金属が見え隠れしても、
 それでもなお、「これは黄金だ」と言う人が現れるだろう。
 この人の時代は、既に終わった。

              *****
 雛鳥は、嵐の夜に逃がしなさい。
 雷鳴の鳴り響く中を、おのれの翼の力を信じて進む雛鳥だけが、必要だ。
 あなたの許へと帰ることを、望んではいけない。
 苦い水を滴らせた髪の毛を、ほどきなさい。

 「錆び=嘘」「黄金=嘘のない真実な」という意味であると、某神霊の他のメッセージと照らし合わせて言えます。でも、彼らは、某神霊が私に関して肯定的な事を述べた日付指定預言やその他のメッセージを一切言及しない=隠すのも変だと思う。日付まで指定した預言の通りに某フォーラム内で起きた事を根拠に、それらは私の事を意味する事が明らかなものが複数ありますが、某チャネラーまで「それはあなたのことを言っていると断言できますか?」と私に問うた事がありました。だから私は「ええ、一つ一つ、具体的に説明できますよ」という旨の返答をしましたら、某チャネラーは黙り込みました。

 いつも思うのですが、ここで言っておきたいと思うのは、「言論する資格」という点です。言論の資格の無い者が随分と大きな問題を扱うものだといつも思います。私が今「議論できる資格」だと思う態度は、1.「嘘を付かない」、2.「必ず返答・応答し、結論を述べる」、3.「言論は、相手に内容が分かるように行う」です。
 1番の「嘘をつかない」については、議論の相手に問われた時はいつでも自らの魂を懸け、神に誓って嘘をついて無いと誓えなければならないと考えます。だから、議論とは真剣なものであり、いいかげんに言論を行う態度は慎まなければならないと考えます。2番については、シカトしたり、黙り込むのは反則です。また、自分の都合に関わらず、結論をキチッと述べる態度が必要です。3番については、今、私に関して、私の知らない所(芸能界)で私に気づかれないように言論を行うのも反則です。そういうことでは、その内容が私に分からない。でも、1番のような事を言う私を疑うというのは大分ネジが狂ってるんじゃないかと思う。また、当然ですが、陰で私を悪く言う人は自らの魂を懸けた言論をしているのだと思います。

 で、今日の寝起きで気づいた「私=片目の男」という視点については上記で一部抜粋したように、片目の男は「目に見える事を行う」という点がありそうです(オウムの麻原は空中浮揚写真を見せてました)。私周辺のシンクロニシティー(私個人のコントロールできるものでないのは明らかです)は目に見えますが、そう考えると微妙だと思います。
 それから、彼は「大きな決断」を何か行うようです。しかし、その決断を支える小さな決断があり、また、錆びが見られるようです。つまり、メッキであったというわけです。私の場合、「何が嘘にあたるのか?」といつも思ってましたが、「善人への祈り」と「悪人への呪い」という私の性質を「嘘」と見る事が出来ると今日の寝覚めで気づきました。すなわち、「“人”に対して片方では良い事を言い、片方では悪い心を持つ」という点を挙げているのかも知れないと思います。でも、私が善意を持つのは善人や弱者であり、私が悪意を持つのは私が悪人だと感じた者です。「それぞれ別の人」です。人間一般を「一つの対象」として論じて矛盾を指摘するのはネジが狂ってると思います。ビン・ラーディンがアメリカを「一つの対象」として考えることで、無差別な行動に出たのと同様の構造でしょ。こういう大きな領域を対象に持ち出して議論することで矛盾が出てくるのは異常な事ではなく、正常な事だとも言えます。そんな議論を隠れてしないでほしいな。例えば、イエズス様だって、神殿の庭で両替商が立ち並んでいるのを見て、「聖なる場所を汚すような事をするな!」と言って彼らの屋台・テーブルをことごとくひっくり返したではないですか。その時のイエズス様だって「おらおら、テメーラ」状態になったと思いますよ。もし、「善人と悪人に対する態度の違い」を矛盾=嘘だとするならば、全人類が上記の(ま、男性が)片目の男に該当することになりますね。そもそも、私に隠れた言論を、私に確認もせず真実だと思い込む人々というのは何か、ネジが狂ってると思います。それに、[中東情勢について]にも少し述べましたが、真正の各宗教が「時の終わり」に際して起きる事として、「死者の復活」や「極悪人が永遠の業火ゲヘナに投げ入れられる」という事があります。このようにして悪人を選別するのは神です。あなた方は神のことまで片目の男に含めていることになります。人にとって善と悪は識別されるべきです。もし「違う」と言うならば、「今まで」のように、性格の悪そうな人を避けたりするのは矛盾しています。もし、悪人と友達にならないのならば、指摘する人も片目の男になりますね。

 それから、最近、有名人が亡くなったり、事故に遭ったりしてますが、それを私と関連づける発想が芸能界にあることも可能性としてありそうだと思います。確かに私は悪人に裁きがある事をいつも願ってますが、百歩譲って、私の呪いが彼らに当たったのだと仮定しても、それを現実のものにするかどうかは「神の判断と実行」であるのは明らかです。私に力があるのではなく、私は他の人と同様、神に願い、依頼するしか出来ないことも明らかです。さらに百歩譲って(ここまで言わなくてもいいと思うが、あえて述べます)、もし、私からの依頼が実現してたのだとしても、それが当たるほど罪が深かった(つまり、本人の責任)、もしくは、そうなる運命であった(つまり、本人が生れる前に、そうなる人生を選択していた)ということでしょ(この部分はそのように考えてる人へのものです)。もし、そういう出来事が最近、頻発するのならば今、彼らの罪は最早、彼らの魂で受け止めきれずに外的現象として溢れ出していると思えませんか? 同じ溢れ出すなら、陰徳を積んで積んで積みきれずになって、ついには本人の幸を増すような外的現象となって来る事が理想でしょ。今まで何百歩も譲って来ましたが、そもそも、私が今まで色々な画策によって被害を受けてきた点はどうなるのですか? と言うと、この意見を即座に一蹴すると思います。その事実を以って、被害を受けた証拠として提出します。

 あるいは、他の可能性としては、多分、MSさんが私を今まで立場的に言論的に保護していたが、最近、そうするのを止めたという可能性も大いに考えられます。だから私を悪者にする動きが芸能界で顕著になって来たと見る事も出来ると思います。まあ、確かに「寄付活動の為に芸能界と関わろう」という私は煙たいのかも知れません。でも、それは私が悪者だからではなく、芸能界が悪の巣窟なので、自分たちの都合が悪くなりそうな私を悪者にするのだと思います。まあ、この世では、人は真実(ここでは寄付すること)よりも利益を取るのが大勢なので、充分にありえる事だとは思います。でも、彼らは利益を独占することで、世界の貧困への援助を遅らせ、大勢の貧しい国の人々を「殺している」と“言えます”。貧困というのは、「生きる」という、人として最も基本的な権利への侵害であり、金持ちの国の人々が貧困国を「忘れている」という事自体、彼らにしてみれば「あってはならない態度」です。あなた方金持ちは、何人殺したのか? どうりで国が狂うはずだ。特に金持ちは喜捨(寄付)を行えと命令されているイスラムの人ならばなおさらそう感じるでしょう。ビン・ラーディンでなくとも怒りますよ。利益を独占するのは勿論、芸能界だけではなく、社会のいたる所にあります。今まで金持ちは単に金持ちだったと私は思ってましたが、だが、上記の「殺している」という点では金持ちの罪は重い。私一人による悪人への怒りが「現象化している」などと思うのならば、貧困国での死亡率が下がらない責任の一端は一部の芸能人(金持ち)にあるという「事実」を突きつけようと思います。芸能人というか金持ちは、近づく人に対し「なぜあなたは私に近づくのか?(=あなたは金目的の接近ではないのか?)」と疑うのも立場上、自然な態度と予想できます。そういう道徳心を相手に求めるならば、(私の付帯的活動ですが)寄付活動をしようとする私との関わりを避けるのは罪ある態度ですね。そのように人を一度でも疑った言動や行動をとった事のある人は、金銭的に損失に繋がる私との関わりに「文句を付ける事はできない」点を指摘したいと思います。

 あるいは、他に考えられる可能性としては、芸能界の欲求不満です。芸能界には一つの「やり方」があると思います。それは、誰かの言葉をあえて最初に鵜呑みにしてその人を持ち上げるだけ持ち上げてから、ボロを出すのを待ち、いざボロを出したら突き落とす(お断りしておきますが、私の辞書には「持ち上げる」とか「突き落とす」という言葉はありませんので)という「やり方」があると思います。というのは、私の場合についても「ほら見ろ」みたいな動きがあったのを何度か見たと思うからです(未確認=確認不能)。でも、私は最初の最初の最初から嘘は無い。だから彼らは欲求不満に陥り、なんとしてでも私を悪者にしたいのだという可能性を思います。私が自分の事を述べるのは、その時々の必要に応じて述べるのであって、それによって欲求不満に陥られても困ります。説明を求められたから説明したのであって、それを疑うならばさらに質問すればいいのであって、陰で何かを画策する動きに転換するのは良くないと思う。それに、私を化け物のように扱う人もいると思います。私が人間であるのは当たり前の事です。その事実からさえ目を逸らして化け物扱いをするとしたら、その「意図」は何なのだろうか。明らかに、魂をかけて言論をしていない。以上、飽くまで可能性として考えられるあらゆる点について論じたものです。NGO(政府開発援助)を効率的に。(200110272134)

 最近、1ヶ月位前から、あるテーマについて述べようという想いがあります。それは物事の捉え方・価値観という側面についてです。以前自分はスブドという宗教的な会に入ってたのですが、そこで私はそれまでの苦しみが救われました。その感謝の気持ちとして自分でパソコンなど周辺装置を買って会員のデータを入力して名簿を作ったりしました。それで若輩者の私の目に奇異に映ったのは、それを喜ぶ人より、それを嫌がる人の真剣さという点です。私がパソコンを買ってデータ入力をしたのは、目立つためとか会の中での地位向上とかを「第一」としたものではありませんでした。私の第一目的は事務処理の効率化と便利さでした。導入しないよりは導入したほうが良いという簡単なこと。
 また、以前から私は「宇宙人は地球に来ている」というチラシを不特定多数に配ったりしてました。それは自分が利益とか目立つとかそういうことが「第一」なのではなく、当時私が感じていた地球の近未来に危機感を感じたから、何とか変えようとしてでした。宇宙友の会を運営する方と、そういう危機感において同志だと感じました。私の考え方と行動は、何度も言うようですが、「人間関係に利益を意図しない」というもので、利益はその道すがら、自然に発生したものを利益とすればいいのであり、それ以上を人間関係に求めないという態度です。飽くまで目的へ向かって進む訳であり、利益へ向かってるのではない。この点で周囲の人との間に価値観のズレがあり、行動にズレが生じます。(200110270218)

 某神霊のメッセージの中に「やがて錆び(=嘘)が見えてくる片目の男」というのがありますが、再度強調しておきますと、私はこの片目の男ではありません。他のメッセージではフクロウも出てきて、あたかもこの片目の男を暗示してるような場合もあるし、暗示してないような場合もあります。そのような「片目の男を暗示してる場合」のフクロウも私ではありません。暗示してない場合のフクロウとしては、「夜の森で智恵を呼び覚ます」みたいな意味合いで使われる時があります。この場合にのみ、このような人類一般の大勢に対しても当てはまるような時に、私に当てはまらない事はないとは思います。なぜ神霊が私をそのように「見せかける」のか、というと、ある特定の「用途」があると思っています。時期が来ないとこれは今は言えないと思います。

 また、「悪に対するスタンス」も、私は他の多くの人(日本人)とは違っていると思います。他の人は多分、幼児虐待を目撃したりした時(例えば)、それをシカトするんだと思います。それは色々な理由があると思いますが、キリスト教的な「悪を許せ」とか、あるいは「寛大さ」という概念がどこかで善と悪の境界線をあいまいにしている傾向が大ではないかと思います。日本人の中には他には「自分は怒らない人間だよ」というのを暗に主張しながら生きてる人がよくいますよね。それにより「怒るべき時に怒らない」という態度となり、その種の傾向などもあいまって「善と悪の区別のあいまい化」が日本人の心を侵食してるのではないかと思います。私が信じられないのは、池田小学校に包丁男が乱入した時に「逃げる」という行動を取った先生の心理が一つあります。確かに、相手が何十人も束になって力で圧倒的に襲って来たような時に逃げる、というのは理解できるのです。でも、相手はたった一人なのに逃げるとはどういうことだろう。私だったら使えるものを使って一撃で「仕留める」ようなやりかたをすると思います。ああいう訳の分からない極悪は一撃で仕留めればいいと思う。多分、再起不能にする。それは私が悪を攻撃する事に良心を感じる事がないからです。他の人は多分、あのような極悪に対しても何か思い留まる所があるから明確な態度に出ないのだと予想します。犯人が乱暴な事をするにしても、何か理由があってそのためにそうするのだと言えば、こちらとしても「じゃー、これではどうか?」と色々な解決策、対処法を練る事が出来る。そのような可能性をこちら側に一切与えないから極悪だと思います。私はそのような性格なので、私の存在というのが一つの明確な「善人への祈り」と「悪人への呪い」を発信しています。なぜなら、「悪の撲滅には良心を感じないし、制限が無いから」です。また、善に対しては、それが善であるということで行動します。何か見返りを意識しながら行動する醜さは好きではありません。そのような私は、このあやふやな日本という国に、もっとイスラムが広まれば、ある程度のポジティブ効果があると思います。入信するまでもなく、キリスト教と同様に、その精神の大まかな所だけでも人々の中に入って行くほうが良さそうだと思います。(200109230011)

 私はよく「人は肯定しかしてない」と言っています。それは、人の想念の根本として、何かを肯定しており、何かをを目指している(外的には否定形に見えてる場合もあります)という事を述べております。私個人の性格については否定形を使って構築されています。例えば「嘘をつか“ない”」とか「人をだまさ“ない”」とか「真実を曲げ“ない”」というような事です。だから、集団になったとき、その集団の偽りを私自身が共有するか/しないかの選択をすべき時に、私はその集団の虚偽を「否定」します。そして「正そう」とします。その集団が変化しなければ、私は離れるしかなくなります。つまり同じ行動は出来ないからです。そのようにして私は身近な人、特に自分に近い人とは価値観や意見の相違に関して折衝します(自然で当然の事だと思います)。私ももちろん、そのように「虚偽を否定する」=「真実を肯定している」のです。だから「肯定を実践してない」という指摘はナンセンスです。人は「誰であっても」、その想念の本質の中では、肯定しかしてないのです。社会的に良好という意味合いで言ってません。人の心の中の想念の本質は肯定である、と言ってるのです。(200007150445)

 よく「言葉で理解し合えない」みたいな言説をよく聞きますが、それって言葉のせいにして自分の努力不足や行動不足の言い訳にしてるだけのように思えちゃいます。もし、私に関してそのような主張をしてる人がいたとしたら変なことです。というのは、私は常に議論の焦点は「事実」にありますから。しかし、私は邪悪な人間、あるいは邪悪なやりかた、などは心から理解できないというのもあります。私の場合、心から理解できるのは、少しでも人間性のある人とだけです。誰とでも「心からなら理解し合える」という主張をするキリスト教系の人もいると思いますが、しかし、それは人のソフトウエア(考えの型)について見てないと思います。それは戦車(=思想)の銃砲に花(心)を差し出すような事で、ほとんど愚かな事だと思います。確かに、それも一理ありますが、それだけではこの世で思想やシステムを実現するのは無理(愚か)ではないでしょうか。イエズス様のような特殊な使命を帯びたような方以外のすべきことではないでしょう。そのような心は邪悪な人間がつけこむ為の恰好の餌食となると言えます。だから思想(広く宗教などから、個人的な思想まで)や考え方などから逃げてはいけないと思います。逃げる為に「言葉以外で人と理解し合える」とか言い始めるのかも。飽く迄それらの考え方、思想などのド真ん中に入って、正面突破すべきであると私は考えます。全般的な事しか言えてませんが、個々の場合に何がどうであるとは何も言えてませんけどね。ただ、思想には思考で、心にはで対応する事でしょう。しかし、現実は複雑ですからね。心からであるように見せながら、実は、決定的に悪かった事を、何も無かった事にしようと思考してたりしますから(例として)。(200001180439)

 私は「攻撃」してる訳ではなく、私を「裏切り者」とか「フクロウ」とか「片目の男」とか「器が小さい」とか言っているだろう事に反論を試みているのである。まるで私が攻撃しているかのようですが、原因は私にはない。そちらが「事実を隠す」のが理由である。
 そもそもの最初からの事を言えば、「なぜ、私を車ではねたのか」と質問してるようなものである。私は当時、地球の未来がかかっている神一厘の仕組にどんな細かいミスも許されないと考えていたので、車を避けなかった(できなかった)のである。しかし、人間として理解不能なのは、はねてしまった事自体はしょうがない(この場合)としても、その質問をそのチャネラーは、無視を何年も続け、さらにある時はそれを笑いの種にし、ある時は、はね飛ばした運転手を表彰までした(例え話)。このような事をしておきながら、仮に「仲直り」みたいな接近があったとしても、その「仲直り」という発想がそもそも勘違いである。私は「事実が知りたい」のである。車ではねられて、それについて何年もシカトされたりした上で「何も無かったかのように」急に仲直りされても、それは身勝手というものだと思う。他に例を出せば、Bさんが急にAさんを殴って、Aさんは血を流しているというのに、「ゴメン、大丈夫?」とか言って、殴った本人のBさんに謝られても、理解不能なのです。だから「仲直り」などという身勝手で乱暴な「まるで何も無かったような」事があったとしても対応しないのである。前回の12/31の発言で「を利用する」例で想起していた事は、殴った後で何も無かったように「情に満ちて」接近して来られても気味が悪いということである。なぜ事実説明がないのだろうか。殴った事自体はしょうがない(この場合)としたとしても、それに関して言える事すら言わずに無視したのはなぜかと質問しているのです。「事実は何か」です。なぜこのような事を聞くのかと言うと、そちらが(ヒソヒソと?)関わってくるからです。私は関わるつもりは無い。関わって来なければ、私も過去の事実を聞く必要も無い。(200001040454)

 TBSで、12/30(木)の18:00頃から特別生番組がやってて、19:00〜23:00頃まで歌を中心とした編成で、最後がB'zの歌で「君と気持ち良く過ごすうちに、小さな事も許せないセコイ人間になってたよ」というので終わりになってて、結構、こちらへのメッセージとして感じました。なんか、コミュニケーションが出来たようで、心地良いです。これはきっと、そのように「主張してる人たち」がいるという表現であろうと受け取りました。この指摘について考えてみます。

 よく「器の大きな人間だ」とか「器の小さい人間だ」と言います。それは、人間が霊的なものの「器」であるという点が記憶の中にあり、その「器」という単語からの発想ですね。言葉だけを追ってて、実態から考えてないのです。

 まず人は若い時は社会的な認知を第一に考えると思われます。そのため、人に認知される為に「大きい」か「小さい」かが「人に見せる」上で重要だと思います。なぜなら、それは「量」の概念であり、行き渡っており、理解され易いから。それで、人からの認知が「第一」になっていると思われます。故に、人からの認知を受ける為には真実を覆い隠し、嘘もつくのでしょう。だから、社会的な(うわべの)関係は良好です。特に嘘をつく人ばかりの時代には、良好な関係になるのでしょう。そのようにして、その人には「量(人数=結果)」が主な関心になるのかも知れません。
 一方、社会をはみ出して人に知られる知られないに関わらず個人的に「行」をしてるような人の場合、「質」の発想をすると思います。それは自分をどんどん掘り下げ、どんな細かくて小さな点からも矛盾(エネルギー消耗点)自体を無くそうとするでしょう。その次の第二のものとして人との関係を調整すると思います。故に、先ず真実が大事であり、真実を公開し、常にありのままを暴露すると思います。だから、人との関係性は、嘘をつくばかりの人が多い時代には、関係性の破壊と目に写るのでしょう。そのようにして、その人には「質(発想・動機)」が主な関心になると思います。

 大体の傾向として「霊的によろしい事(事実)は、世間的(嘘の世界)によろしくない」と言えると思います。大雑把で大きく「見せて」いる人も、実は、ありとあらゆる「細かい事」を考慮し、日夜その結果を考えているという「事実」があります。でなければ、足し算も引き算などの計算も何も細かい事ができない動物と一緒です。そんなことはないのは明らかですから、「大きな人」の実態、事実として「細かさ」があります。TBS編成部からの興味ある指摘(B'zの歌詞で)は、そのような側面を「せこい」と言ってるのです。もしそうならば、TBS編成部は全ての哲学者や、細かい科学者を敵にまわしているかも。まあ、確かに、世間的(嘘の世界)な価値観からすれば、霊的な主張は迷惑であり、霊的な価値観からすれば、世間的な傾向は迷惑ですね。

 では、世間的には何故、霊的な主張(例:嘘をつくな、事実を明らかに、等々)が「迷惑」なのでしょうか。それは「所有」や「縄張り」を侵し、「利益」に影響するからですね。人が生きる上で「利益」を得る事は当然の権利です。それを侵す者が罰せられるのも当然です。しかし、真実を曲げてまで「利益」に拘泥するのは間違いだと考えます。そういう意味で、私には「真実」は大切です。真実>利益
 では、霊的には何故、世間的な主張(例:本当の事を言うな、都合の悪いことを隠せ、等々)が「迷惑」なのでしょうか。それはその人自身の「真実性」に影響するからですね。人が生きる上で「真実を守ろう」とするのは個人的な利益に優先すべきだと私は思いますので、「真実」に、利己的な意味での「拘泥」という表現は当りません。故に私は、イカサマを一旦、目にしたらそれを追及します。真実>利益

 私に隠れて色々と言ってる人たちに関して言えば、問題なのは、あなたがたではなく、ただ一人のチャネラーである、という事です。問題は、チャネラーが「事実を隠す」点です。私の問題とするものは、あなたがたとの「関係性」ではなく、シカトで隠している「事実」です。私は人々が、なぜ、教祖やその類の中心的な人に対して詰問しないのか、その性質がとても不思議にいつも思います。

 最後にまとめておきますと、

・器の大きな人=ありとあらゆる考えられる限りの小さな事まで考えることの「出来る」人であり、ありのままの事実を利己的な都合で「隠さない」人。

・器の小さな人=大雑把にしか物を考え「られない」(考えようとしても潜在意識的な抵抗に会う為に)人であり、ありのままの事実を利己的な都合で「隠す」人。

 でも、思い付く限りの事で言って置きますが、私はお芝居とかフィクション(映画)とかを「事実でない」とか、そんなアホな事を言ってはいません。そういう事までイカサマなどとは感じません。・・・他になんかあるかな〜?(^_^;)

 ここでちょっと思い付きましたが、「本気で嘘を付く」という表現が歌にありましたが、その「本気で嘘を付く」意図はなのでしょうから、動機・目的は正当ですよね。だから、このような場合は大きな問題はなくなり、後は枝葉の問題としての事実性が残るだけと思います。それについては同意できます。しかし、この原理を「使って」、過去の事実を明かす事を回避する為に、に基づいて「見せて」いる人がいたとしたら問題です。その人にとってはすら「利用する対象」になっているからです。よりも利益が上に立っているから問題なのです。では、利益よりを優先している事を「証明」するにはどうしたらよいでしょうか。それは「その利益を実際に全部捨てて、事実を全て明らかにする」という行為によって「のみ」なのです。(199912310622)

 前回、スブドで私が周囲の人の心中に反応するようなテレパシー的反応が嫌がられたと書きましたが、私からすると、私を中心に「テレパシー的能力が伝達」されて行くのを見ておりました。始めは何も思ったことに反応などしなかった近くの人たちが、段々と、反応するようになって行きました。勿論、基本的には私がスブドで神の力によるオープンを受けて救われた訳ですが、しかし、逆オープンみたいな、そういう事も私は見ておりました。私もただ不思議に思っていただけです。何も「して」いません。そのようなのは私がスペース・ブラザー達との同調体験を重ねる中で目覚めて来た知覚であり、それが伝達してしまうことについては「どうしようもない」と言うしかありません。最近では、電車の中などで多くのビジネスマンが「意図的テレパシー反応」をして「見せて」おるのをよく見かけます(^_^;)。人数にして、かなりの数の人がそんなことをやっていながら、「自分だけの能力」と密かに思っているらしいのも滑稽ですが、これほどの人数になるまでに「彼ら」は相当数が我々の間に混ざっているのだろうなと私には思えます。(199912030405)

 最近、特定のスブド会員が私の言ってる「パワー」ということに異議を差し挟んでるのかも知れません。一応、今までの事実を以下に順を追って述べてみようと思います。

1.[テレパシー能力]:私は1979年の春に一番最初(→記憶エラー)のスペース・ブラザーと思しき人が近くにやって来るという体験をしました。その時、私は小平団地という所に住んでいて、小平団地内に郵便局があるのですが、なぜか無性にそこの郵便局に行って切手を買いたくなったので、買いに行きました。すると、確か私を待っているかのような男性が待機しており(?)、私が郵便局内に入って列に並ぶと、その男性はすかさず私の直後に並びました。それで自分の番が来て、切手を買ったら、次はその男性だったはずなのが、列を離れて私が出ると同時にそのままバス停まで歩いて行ってしまいました。ここから始まって1982.05.05にスブドに入会するまで彼ららしき人と電車の中などで出会っていました。その経過の中で私にはテレパシーのような能力が芽生えたのです。スブドに入ったのはこの後です。私がスブドに入ると、ある古参会員が、多分、人が心に思っただけの事に私が「反応」するので目障りだったのでしょう、「テレパシー“能力”は要らないものだ」と私に説明し始めました。でも、よく考えて下さい。私は、それまでそんな数々の反応をしていたなんてことはその時初めて知りました。それは私が意識して意図的に「反応」していたのではありません。それは無意識の反応をしていたのです。だから、あなたがたは自分で勝手にプライドを傷つけられていたのです。

2.[神の力]:スブドという会は神の力に繋がり、次にその神の力によって身体の動き等を「されるがまま」に一時的に(30分程度/回、かつ、2回/週)明け渡す事で、浄化作用を体験し、そうして行く事によって人が自分の道を発見し、救われて行くという会です。これはどうやら、人々の意識が繋がったネットワーク状になった所へ神の力は作用し易いのであろうと思われます。神の力は人の体を勝手に動かし(勿論、本人がそれを許して同意して自分を全託しているからです)、それが浄化作用となります。

3.[炎の力]:これは当ホームページに書いてますが、356の日に過去世を思い出し、359の日に「炎となった」のです。これ以来、近くにいる人が怪しんだり咳払いをしたり、スブドではプライドの高い人が拒絶したりするので、なかなか一緒の場所にいるのが難しくなって来ました。これは、スブドの創始者が生きていらした時に、その近くにいるだけで溢れるようなパワーを事実、感じたものですが、自分もそのような状況になったのだと思われます。これを体現した人々の痕跡は、仏像の後光として描かれて来たのだと思っています。しかし、そのようなパワーを近くの人が認識する度に、彼らが自分のプライドを守る為の発言を聞いているのは嫌でした。

 つまり、私が言ってる「パワー」というのは、目立って認識されるところの最後の「炎」を指しており、しかし、それはスブドで神の力に繋がって浄化を受けてきたからこそでしょうし、それが殊更に人に伝わり易いのは、スペース・ブラザーによって私の内部に開かれた「テレパシー能力(の片鱗)」があるためだと思われます。つまり、私が「パワー」と言うのは、「炎」のことを言ってるのです。「スブドで受けた力を人に伝えながらスブドの事をおくびにも出さない」というのとは違うのです。さらに言えば、スブドで受けた力を「利用」してるのではないのです。炎の力は、その発端から、どのような集団的状況から出てきたものでもありません。これが「パワー」の分析です。人間世界的には全くのオリジナルです。しかし、あるチャネリングメッセージから、「パワー」の所有権は神霊達にあるとのことなので、それで私は「パワーの源ではない」ので、トップページには「経路として」とか「震源地」という表現をしているのです。(199911250959)

 TRICERATOPSの「SECOND COMING」という歌の「余計な知識で汚さないでくれ」という箇所で気付いたのですが、これは新たな発見でした。今まで自分が感じていた「誰かの拒絶感」みたいなものは、そういう感覚のようにも思います。つまり「汚されたくない」という考え・感覚ですね。なるほど、やっと分かった気もします。確かに、そのような側面に注意が向いてませんでした。これに関して人を2種類に分けて分析してみますと、「知識に負けるタイプの人」であれば、知識に「汚される」事になります。しかし、「知識を活用できるタイプの人」であれば、その人にとっては「道具」にしか過ぎず、決して「汚される」と感じる事は無いでしょう。「汚される」と感じるのは、その人にとって知識というものが「道具」以外の(自分に近い)“何か”であるからだと思います。知識=単なる道具である人にとっては、「汚される」という主観は発生しません。でも、「知識に負けるタイプの人」であるならば、むしろ知らないままでいたほうが(一時的にはその人にとって)いいのだろうと分かりました。

 「汚される」という感覚は、多分、人の免疫機能に立脚した精神作用だと予想します。「自分以外の異物を排除しよう」という作用ですね。免疫作用が働いてしまうほどに、その人にとって「知識」というものが「自分」(に近い何か)なのだと思われます。「知ってる/知らない」ということが自分(の見栄)にとって大きな意味になってしまっているのだと予想します。

 「知識に負けるタイプの人」は、いざ「知識に負ける」と、一転、「信者になってしまう」というタイプの弱さがあると思われます。また、「知識に負けるタイプの人」は、言論活動を行うべきではないと思います。周囲の人にとっては、その言葉を真に受けないことが大切な視点だと思います。

 私の今後の言論活動(しかできませんが)については、今までと同様、「人に気に入られよう」というのが第一ではないと思います。例えば次のような事を真剣に、第一の目的として実行するような場合を考えてみましょう。例:[自分を惨めに見せたり、負けて見せたり、劣っているように振る舞う]事で、実は、周囲の人々は足元を見られているとも言えるのではないかと思います。これらを軽く第2目的以下のものとして遊んでしまうのと、飽く迄第一の目的を実現するものとして振る舞うのとでは違って来ますね。私の場合はこれらの事が第一目的とはなりません。今後も私は「知識に負ける弱いタイプの人」の存在を理解しつつも、それほど従来と違ったスタンスを採る事はないと思います。つまり、「道具としての知識・情報」を従来と同様に扱って行きます。知識に負けてしまう弱い人には、「読まない」という選択肢もあります。特にそちらに関して考慮することはあんまり無いだろうと思います。なぜなら、それはそちら個人の問題であって、「知識が正しい位置・配置にない」という問題だからであり、決して「汚された」訳では本来無いからです。しかし、「汚されてしまう(と感じる)」のは、「知識というものの位置・配置」が問題なのです。問題はそこにあります。(199910300601)

 私が言う事を「宗教だ、その支配・束縛から自由になれ」と言ってる人がいるかも知れませんが、MSさんへの第3通目に書きましたように、宗教とは、元々は、幸せを実現する為のものだとお伝えしました。それ以来、ミュージックシーンの中で盛んに「幸せを実現しよう」と歌われるようになったのです。それまでの間は、宗教というのは、単に恐くて人を束縛するものであるかのようなイメージがあったように思います。勿論、宗教の世界では、例えば天理教などのように「陽気暮らしをしよう」と謳ってます。このような側面が宗教の本旨であることについてまだまだ一般に広まってはいなかったのです。私が色々言うのは、そのような観点から言ってるのであります。決して支配したり、利益を第一目的として、束縛の為に言うのではありませんので。(199908040404)

 下記で、エドガー・ケイシーのリーディングでエッセネ=期待と述べているのに、シュタイナーが「シャベルで土を掘り起こす」ということを述べている点について、シュタイナーの名誉を守る為に再度強調しておきますと、シュタイナーがそのようなヴィジョンを多分、エッセネという言葉の意味に関して霊視している時に認識したのだと思われます。その映像に関しての追及が甘かった「だけ」だと思います。この(多分)ヴィジョンは、「埋蔵金などを期待して、シャベルで土を掘る姿」すなわち「期待」という意味合いがあったのが、シュタイナー自身としては、他の事に気を取られるか忙しいか何かで、この些細なヴィジョンなど到底追及していられなかっただろうと思います。ケイシー・リーディングによりエッセネ=期待と確定されていますが、シュタイナーももうちょっとだったと僭越ながら、思える訳です。だから、全くのデタラメではないことが予想できると思います。(199905290345)

 私が転生の記憶を思い出した点を無価値にしたい人は、類魂(仮に)とか集合魂(仮に)とか言って、「複数の人がそのような“記憶”を思い出し得る」という点を強調しているようですが、個人は個人にしか転生しない事はルドルフ・シュタイナーも「神智学」(イザラ書房)の中で述べています。確かに、彼の推し進めていたものは、「学」ではありますが、それは彼の持っていた霊視・霊聴能力によって検証されながら進められて来たものです。確かにシュタイナーと言えども、エドガー・ケイシーのリーディングと矛盾するかのような事も言ってますが、しかし、それさえも、表現(シャベルで掘り返す)が変なだけで、本質を捉えてはいることが伺われます。特に「神智学」(イザラ書房)を含めて数冊の彼の著作は、何年もかけて彼の霊視・霊聴能力によって根拠付けられ、そこに記された事柄には「確認されていないものは一つも無い」と言うほどにシュタイナー入魂の書です。類魂(仮に)とか集合魂(仮に)とか(私には)訳の分からない分類で(意図を持って)転生を考える前に、このような著作を研究すべきでしょう。ちなみに、UFO関係ではスペース・ブラザー達が「人は人に転生するのです」と述べている事もあります。また、チベットではダライ・ラマは亡くなった後、彼の転生した子供を探します。更にちなみに、類魂とか集合魂という言葉を誰が使っているか知りませんので、個人的な攻撃ではありません。

 時々、ムー誌などに、「牧場主が亡くなった直後に生まれた牛の皮膚に、牧場主が生前に負った火傷の跡と同様のものを持っている」という現象が報告されますが、これはシュタイナーに基づいて考えようとすれば、「本人」の転生ではなく、彼のエーテル体が牛のエーテル体として取り付いた例となると予想します(動物は、物質体+植物体+動物体)。このような牛は当然、生前の牧場主と似たような植物的傾向を示すと思われます。食べ物の好みとか。このような現象は植物(木など)でも起きる例が報告されてますね(植物は物質体+植物体)。シュタイナーによれば、本人が亡くなった後、エーテル体、アストラル体は地上に取り残され、やがて解消され、消えて行くそうです。仏教でも49日とか法要がありますが、これはエーテル体の生存期限では? 魂の抜け殻とは言え、エーテル体(いわば、植物体)も、「生きよう」としているだろうから、牛に入るという場合もあるのかも。さらに、アストラル体(いわば、動物体)については、インドネシアでの法要に「1000日」というのが、イスラムだからでしょうか、ありますが、関係あるのかな? 以上、人は人にしか転生しない、と考えるべきではないかという主張でした。(199905170346)

 「事実を述べる」に際して、それが必要であっても、いざ「自分のこと」になると、述べるのを控える風潮があるように思います。そのような風潮が人々の心理的傾向の「基礎」となっているために、質問に対してホイホイと私のように「事実を述べる」人は、「自分を認めて欲しい」という欲求が強いと見做される傾向が出てくる事に気付きました。では、なぜ、そのような「社会的風潮」があるのでしょうか。それは多分、「自分について述べる」=「言い訳(嘘)」という観念があるからではないかと思います。つまり、そのような風潮に従っている事自体が、「自分を認めて欲しい」という欲求が強いという事になりそうです。実際に嘘ではなく、事実であるのなら、その風潮に従う事は不要と思いますけどね。つまり、議論するに際しては捕われなく、問いに対して事実を提示する。これだけでいいのではないかと思います。(199905100325)

 私は今まで芸能人の人たちとの縁が出来、そのため、コミュニケーションする「必要」が発生しました。世界の運命の為でした(過去形)。なのに返事が来ませんでした。故に、テレビ等で彼女達や彼等の発する情報を一瞬の印象なども拾い上げて分析する「必要」があったのです。それで、色彩やら何やらなどに関する発言などもしました。けれども、このような私の「性質」は、実は私自身の性質というより、訓練されたものです。このような傾向が訓練されてしまった理由は、多分、レターが売買されており(可能性)、それで返事がない故に(可能性)、コミュニケーション不全に陥った為ではないかと思います。私はそのような自己中心的な物の考え方よりも、「理念」から発想する事を重んじるタイプです。(199905070457)

 下記の*****部分はB'zのヴォーカルの稲葉さんが、カッコマンに疲れて「もう執着も何もない」みたいな内容の夢を見た、という記述をしたのですが、翌朝に「B'zの名前部分だけの削除依頼」を受ける夢を見たので、*****に変更した訳なのです。しかし、その依頼が本人様以外の所から出ていた可能性については思い至りませんでした。つまり、名前を隠すというのが「良くないかも」と思ってこのように再びタイプしました。また、ここにこう書いたからといって、業務(?)に差し支えは出ないだろうとは思ったのですが。(199903270014)

 私は今まで精神世界的な本などを、その内容で選んで買ってそれを読んでいました。誰が言ったとかいうことも視点の内ですが、それに「抵抗」を覚えるということは無く、誰でも彼でも読んでました。精神的な事、例えば、説教みたいなことを身近な人(スブド会員をイメージしてます)が私にするような時にも、特別な抵抗を覚えることはなく、相手の言わんとすることを聞いてました。でも、人によっては、「誰某の言う事は聞きたくない」という人もいて、私はその感覚がピンと来ませんでした、今思うと。
 本などでは、よく批判もされるオショーなど、深い事を言ってますけど、人の心の深い事について述べてても、私は啓発されることはあっても抵抗は感じませんでした。彼のアシュラムへ行って、直接聞いてたとしても、抵抗を覚えることは無かったはず。社会的に自分を並置する意図ではありませんが、私も同じ事「覚醒意識」について言ってます。抵抗を示す人は誠にお気の毒だと思いますが、言わないでいる訳にも参りません。今後も伝えるべきは伝えるつもりでおります。また、人が抵抗を示さないような配慮をして行く事が必要だと思いました。(199903150438)

 下記で私はピースマークを攻撃しました。このマークは特にミュージシャンの方は平和活動と一緒によく使われていたと思います。それでショックを与えてしまったかもしれません。まことに申し訳ありせん。この攻撃の理由は、パソコン通信の中で、は*さんという人が私が使っている、「球形の上に十字」という「形」は、アンク十字(は*さんは、これが正義だとしました)を逆にしたもので、確か「悪魔の記号だ」みたいな攻撃発言があったので、それに対する迎撃を行ったものでした。すると彼(彼女?)は態度を180度転換させたので、深い意味はなかったのだと思われます。ニーズがあれば、彼(彼女?)の発言内容・日付・時刻をお知らせし、迎撃の根拠を明白にいたします。(199903131436)

 以前、自分は時計の針のような位置にあると書きましたが、この特異な立場を見ると、「集合意識の一つの結節点」だと思うようになって来ました。人類が今後進んで行く方向として色々なチャネリング本などに書かれていますが、人類の意識はネットワーク化が進み、終いには、物理的実体としての肉体人間がテレポーテーション(瞬間移動)を引き起こすようになる特異な人間がポツポツと出てくるそうで、それからはドッと瞬間移動を大勢の人が出来るようになるのだそうです。でも、これは地球の遥かな未来の話でしょう。現在は、炎が目覚めて人類全体へと伝播しつつあります。

 人は感覚器官を持っています。故に、目で見たり耳で聞いたりする外側の世界に引き込まれます。それは、人の諸機能が外界に影響されて、それはまるで外界という磁石に吸い寄せられる砂鉄(諸機能)のようです。下記にも、覚醒意識について書きましたが、そのように人は眠っているのです。眠っている人の諸機能(意識、精神作用)は外界に引寄せられており、本人の存在を忘れています。だから、覚醒への欲求が生じます。それは、例えば、「もっと激しく!」とか、あるいは「もっと満足感を感じられる家が欲しい(真の目的は満足感)」とか、「有名人になりたい」とかです。「有名人になりたい」というのは、「覚醒の社会的展開」を目指してますね。知らずに人類の次の進化段階である「集合有意識への参加」を指向しています。つまり、大勢の人に知られる事によって心と心を結びたいという本来的な要求なのです。

 ところが、本人は覚醒への欲求があったとしても、眠っていますので、視覚や聴覚の世界に引き込まれております。視覚や聴覚の世界(テレビ、ラジオ等)に幸せが待っていると思ってしまうのです。それで表現の世界、形の世界で何だか知らないけど頑張ってしまうのですね。というのは、前から夢見ていた芸能人になったのですから。でも、ここで理解の為の分別が必要です。自分(人間存在)が望んでいるものは「覚醒」であって、その社会的な展開が「集合意識への参加」である故になのです。それで「有名人になりたい」と思うのでしょう。人が望むものは、全て覚醒への欲求がその根本にあるのです。

 集合意識の結節点である私は、集合意識の中で起きている事を時々、ここに報告しています。「筑紫哲也さんの夢を見た」とか「誰かに殴られた夢を3日位連続で見た」とかです。他では*****と言ってる夢を3回位見させてもらったり等しています。この夢を見てしばらくしたらサーフィスという二人組が出て来ましたね。意識のネットワークは既に構築されており、その中心的な結節ポイントにいるために、集合意識からの要求によって、歌の一覧など作るようになったのだと思います。

 人によっては、私のこのような立場を「欲望まみれ」とか言ったりしてますけど、そういう側面だけしか見えない事を露呈してます。「欲望まみれ」というのは、覚醒への欲求を本人が視覚や聴覚の世界へ埋没したがる眠りへの欲求へとすりかえてしまったために、見えたり聞こえたりする「物」や「立場」や「礼儀」を欲しがるようになったからです。人が実際に求めるものは、覚醒です。見えたり聞こえたりするものではなかったのです。私のこのような立場は過去からの贈り物であり、同時に、集合意識のアウトプットとして機能して行くのだろうと思います。

 ちなみに、日本の昔の賢人で「あなたの目の前に仏陀を名乗る者が現れたら殺せ」と言った人がいるそうですが、この言葉はまだまだプロセスの世界=価値観の世界=宗教の世界の言葉ですね。覚醒意識=自己想起の実体験という基本を押さえておけば、思考が影響を受けようと受けまいと、もはや、それらは全て「プロセスの世界での出来事」として分別されるだけなのです。一方、覚醒意識は、プロセスの世界ではなく、リアリティーの世界です。昔の人は勢いがあるけど、この人、この価値観を絶対視していたのだと分かりますね。覚醒意識はそのような言葉、価値観、プロセスの世界の「全てを忘れる」事だと言ってもいいのです。「忘れる事が大切だ」などという価値観を言ってるのではありません。(199902200518)

 今日、2/12(金)のTBSのニュース23で、ノストラダムス現象について特集してましたが、その中で「ルシフェル=悪魔」とか簡単に言ってくれちゃってなんだかなぁ、です。というのは、LUCIFER=74なもので、このことに責任をもたなければと思ったりするわけです。で、人の考え方や感性を見てますと、とにかく「認知欲求第一」でしかない、という実際を見ており、知っております。私は人間です。見れば明らか。にも関わらずルシフェルとか言いたい人の心の中は、まず間違いなく、私の存在という社会的な側面に対する攻撃であって、私の事を本当にルシフェルであるとは思っていない、ということです。そのような傾向は他にも色々と見られますよね。例えば、「本当の事を言う人が必要だ」といつも言ってた人が、いざ、実際に本当の事しか言わない人間が現れると、実は、「本当の事そのもの」が彼の目的ではなかった事に自分で気付いたりするわけです。(←この例は不適切だったかも知れません。もっとよく考えれば良かったと思います。これは宗教の世界をイメージしてタイプした部分でした。つまり、精神的な探求、神、真実の探求のためにそのような世界に入ると思うのが普通だと思うでしょうが、実際には[近視眼的には、ですが]神を探求する人は、希なのです。ほとんど99%は、集団に所属して自分が利益を得るのが真の目的です。そのために集団に利益をもたらそうとします。逆に言えば、その組織に不正や矛盾を発見しても指摘せず、実際には皆が気付かぬフリをするもんです。このようなイメージで上記の「本当の事しか言わない人間の例」をタイプしてます)(199902161134)このように、人の欲求は社会的な認知へと向っています。それは、眠っているからですね。眠っているから、外的な状況を欲する訳です。(欲する事自体は全然構いません。色々な道があります)でも、「一人で静かにしてるのが好き」という人は、覚醒に近いのです。自己の存在、自己の実在をアリアリとリアリティーを感じられるようになるのは時間の問題かもね。そうすれば、自分の中にある諸力が外的・社会的な磁力に吸引されるよりも、自己存在に吸引されてまとまりが良くなるのです。単にまとまりが良くなるだけじゃないのです。今まで潜在意識的に求めていたものの全てを見出す事が出来るでしょう。「満足」とは社会的状況にあるのではなく、自己の覚醒にあるのです。

・例:今まで:「なんか、かったるいなー、生きる意味なんて何もないな」
   覚醒すると「お、このようなリアリティーは子供の頃感じていた充実感だ」と、ここで一つの解答を得る訳です。細かい事は言いません。不要です。あなたが自己のリアリティーから得るのです。(199902130516)

 自分で嘘をつかないとか言ってますけど、お芝居が嘘だとは思いませんし、ジョークが嘘だとは思いません。また、相づちを打つ事が嘘だとは思いませんし、共感を表現する事も嘘だとは思いませんし、つき合いで笑う事が嘘だとも思いません。ハンドル名を使う事が嘘だとも思いません(200403230230)。私が嘘だと思うのは、例えば、缶ジュースを買ってそれを飲んでから家に帰った時に「缶ジュース飲んだ?」と聞かれた時に「飲まなかった」と答えるような事を「嘘」だと私は思います。「事実性」に関する事柄の範疇だと思います。(199902070418)

  以下は、全くの私個人の擁護の為にタイプしたものです。というのは、一つ思い付いたものがあります。色々な歌(の歌詩)やCMなどの断片が一つに繋がる視点が浮んで来ました。それは、私が「失ったのか/得たのか」という捉え方の問題です。結論を言いますと、私は「満足して」います。

1.一番最初は、衝動・感情に従って、MSさんへと接近しました。その時、彼女は俳優の神田M輝さんの妻という立場であり、私の意図は結婚でないのは明らかです。しかも、彼女一人だけと関わるだけのつもりでした。そのようなレターが他の多くの芸能人に知られるようになるという事は全く知りませんでした。動機は、1988年の出会いの真実を、この生の間に本人に知ってほしいという気持ちからでした。それ以外の動機はありません。従って、私は満足しています。

2.その後、356の日に過去生を思い出し、その後、シンクロニシティーによって中森明菜さんとの不思議な結婚縁が示されました。彼女が芸能人だからではなく、シンクロが示されたからです。それだけが動機です。彼女は自殺未遂を何度かしたことのある人でした。しかし、神の命令が第一です。故に、実際にレターを送って結婚の必要を説きました。そうしなかったら私は後悔していました。しかし、私は実際に結婚するつもりでした。従って、私は満足しています。

3.そうしていたら、ある時、女性週刊誌に「明菜借金10億」の記事が出ました。故に、その借金を将来一緒に返すつもりで、その時には300万円位の借金をして自分のビジネスを始めました。もし、ここで10億円に負けていたら、後悔していたでしょう。しかし、実際にはそうではなかった。従って、私は満足しています。

4.この頃、自分の担っているこれらのシンクロが、どうも大本教の神一厘の仕組以外の何ものでもないように思うようになっていました。それで自分の果たすべき責任を感じるようになっていました。明菜さんに3年程度関わって、上からの指示があってから、明菜さんを離れる事になりました。その判断は私の判断ではなく、「上からの指示」でした。自分の損得や利害ではないのです。従って、彼女を離れた事について後悔はしてません。満足してます。勿論の事ですが、明菜さんからも誰からも返事は一つも貰った事はありません。

5.その後、他の人と縁が繋がりました。それで松本明子さんに接近するようになりました。彼女からの吸引力を感じる事が最初でした。そして関わる内に、段々と何重ものシンクロが発覚して来たのです。それで松本明子さんに「決定」することになりました。結婚の筋が示されたからです。神一厘の仕組でしたから、自由な結婚はあり得ませんでした。これを成就しないと地球の将来に不安を残します。それで、彼女に、やはり3年程度関わりましたが、その間に10回位裏切られて、心臓にストレスがかかりました。明菜さんの3年を経た後、松本明子さんに3年をかけました。

さよなら:
 とうとう、1998年の1月頃には、これら仕組の筋である父なる原理が、母性原理を指し示しました。それで彼女にさよならを伝えましたら、彼女はテレビ番組で怒ってました(2ヶ月後には別の男性と結婚しました。なんとなく、常に感じていたのは、彼女がなんとか私に理由を帰して離れてしまおうというものでした。私が離れた事を怒っていたのは、そのようにして私に原因がある事にしようとしてたように思います)。

さよならの解消:
 母性原理が示されて離れた直後に、上からの指示があったので、目的は地球の未来であると思い直し、再び結婚解消を解消し、結婚実現を指向し始めました。しかし、彼女は今までもそうでしたが、結婚について私に肯定的な様子を見せておきながら、他の男性に、番組であったとしても「結婚して〜」と迫ったり、あるいは、他の男性と付き合っている事が発覚したり等、ショックな事が多かったのです。その間、具体的な返事は勿論、一つももらってません。なので、彼女が結婚に肯定的であってもすぐに引っ繰り返ったものです。まあ、そのように私が利用されてる可能性を受け入れつつレターを出していたのも事実ですが。1998年の2月に入った時は彼女は結婚に対して肯定的反応だったのですが、下旬になると、きっぱりと結婚を否定してました。つまり私が上からの指示に従っても、実を結びませんでした。彼女が結婚を否定するのだから最早、私も離れるしかありません。それで私は3月14日(聖マチルダ皇后の日)を記念して、当HPで私に興味を持つ人を公募してから、結婚について自由の身となりました。そのようにして私が自ら身を引き切ってから2日後の16日に、松本明子さんは結婚発表を行ないました。しかし、彼女は私が去ったから結婚発表をしたのではありません。2月下旬に私にNOという解答をしていた事が理由で私を離れさせたのです。それまでの間はYESだったのです。しかしそれは表面の事で、実際は、他の人と付き合ったりデートしたりしていたのです。多分、私との関連をアピールすることで他の男性の接近を加速するようにしていたのではないかと思います。そのために、私を長期間捕まえておくために、YESを提示していたのだろうと思います。そして、こうなることは、最初から松本明子さんには分っていたのでしょう(^_^;)。

 そのようにして7年以上の時間を費やしましたが、これらの困難な道に私は満足しているのです。神に従ったからです。故に後悔は無いのです。これは強調しておきます。後悔は、してません。勿論、このような神仕組が無かったとしたら私自身も「無駄な事をした」と感じていた事でしょう。しかし、神仕組があったのです。これ(父性原理=筋・論理)こそは理由であり、動機だったのです。この道を外れる事があったとしたら、この仕組の結末に母性原理(感情を神格視)が示されるのを知る事もできなかったでしょう。それこそ後悔です。しかし、私は結末を見たのです。これら全体の意味・真実を解明し切ったのです。これこそ満足というものではありませんか? 確かに、外形的な点では私は何も「得る」ものが無かった事になります。そして、人生の7年という時間を「失った」ように見えるかも知れません。しかし、そのような個人的な視点に注意があまり向かない人なのです。何よりも地球を背負う事から開放されたのですから、私の安堵感を御理解頂けると思います。それに、今は結婚をアセルという事もなくなりました。地球の未来がかかってる訳でもないので気楽なもんです。未だに結婚しよっかどうしよっかかんがえちゅうという感じです。個人的な視点が希薄な人なんです。それは当然と言えば当然ではないでしょうか? もしあなたが出口王仁三郎の神一厘の仕組についてよく御存知であり、自分の身の上にそれが示された時に、どうしますか? 自分個人の事を満たす事と、仕組を満たして地球の将来を守る事のどちらを選びますか? 個人的な視点で後悔する/しないとかいう事は問題ではなく、危機は始めから無かったのだという「大安心」に至った事が問題の核心です。それ(大安心)が心の大部分を占めるのは当然だと思いませんか? ただ、それが過ぎれば、後は普通に個人的な問題に戻って行くのも事実ですけど。

 ですので、御心配には及びません。後悔もしてませんし、寂しくもありません。寂しくないのは、集合意識と繋がっている状態です。最近の歌で「一度しかない人生」という言葉もこれらを思いつく要素になりました。「一度しかない人生」みたいに大切に歩む事は大切な事ですね。私は今まで「人生を無駄に過ごそう」と言った事はありませんよ。勿論、転生も事実ですが、人生を大切に歩くというのは当たり前の事ではないでしょうか? 「一度しかない」というのは間違いです。ただ、何度あっても、大切なものは大切です。なぜ、私が人生を大切にしてないように「見える」のですか? あなたから見て私が人生を棒に振ったように「見える」だけであって、本人の私は大きな満足をしているのです。私はこの人生を大きな事のために「使う」事が出来ました。逆に私のほうから見たら、大金持ちになっても毎日嘘をついたり、人を貶(おとし)めたりしてるような人を見ると(仮のお話です)、「この人の人生は無駄だな」と思うと思います。それは人が、私の人生が無駄に「見える」のと同じだと思います。というのは、人によっては「お金があれば、もうそれでいい」という人もいるだろうからです。私にはちょっと信じられませんけど。多分そういう人は物事の表面しか見えてないからでしょう。いつか死ぬという事も忘れているのでしょう。

 もう一つ気づいたものが「さび」です。飽く迄も私を錆びさせたいと思う人は、錆の解釈を「嘘」から「老化」へ変更する事で自己満足しているようですが、これは年齢というものを拡大解釈しているのは明らかです。さびという結論が先にあるからでしょう。また、実際、自分というのは年齢とは無関係です。

 基本的に、批判する人は「自己の覇権拡大、自己利益」という視点でしか見ていないからだろうと思います。そういう人は常にその側面が第一になる人なのでしょう。

 以上、個人的な話でした。(199810111232)

 まあ、あんまり強い強いとアピールしてても変ですね。単独個人としては強いほうかも知れませんが、その分、自己への規律が定まっているので、集団になると、弱くなるでしょう。集団としての規律(例えば、人を騙す事とか)を自己の規律にはできない面が出ると、すぐに抜け出します。そんな規律はいらないし、その組織の目的にも同調しないから行動も別になるからです。だから、社会派の人から見ると弱く映るのだと思います。そのような批判を意識してこの書き込みをしました。もし、何らかの事情で組織を抜け出せない時は、ある程度まで譲歩するだけで、人と同じ。パソ通やインターネットでは個人の力が発揮され易い場であると思います。だから組織や集団をあまり意識することなく、内容主体で活動できる点が素晴らしいと思います。「目的がどうであるか」ということが群れる(俗な言葉ですけど、意味としては適当)かどうかの判断の中心になります。というか、群れても群れなくても、目的次第でどちらの形態も取ると思います。と書いてて、とても普通な気がします。(199809010425)

 8/30(日)のNHKの「青春のポップス」で荻野目さんが「NEVER MARRY A RAILROAD MAN(悲しき鉄道員)」という歌を歌ってました(^_^;)。まあ、歌詞なんですけど、一つ考えるヒントがありました。「あなたは1回でも2回でも失恋したことがありますか? もしその答えが“YES”ならば、それは彼の最初の嘘」という箇所がありました。それでは私が馬鹿者みたいではないですか(^_^;)。でも面白い御指摘です。確かに、他の人のような(?)深刻なものにはなりません。そういう事が囁かれているかも知れないので、ここで述べてみようと思います。

 私は高校2年の時に、ある瞑想で失敗して、今になってみると分かるのですが、PTSDになったのです。オーム事件の時に、サリンの水溜りによって死にそうになってしまった人たちはその後、普通の水溜りを見ただけで動悸が激しくなり、死にそうな感覚に襲われるというような、「身体に染み付いた記憶」のようなものに悩まされています。これを知って自分が18才頃から約10年間悩まされていた症状と全く同じである事を知りました。それで、自分も瞑想で「実際に死にそうになった」ことにより、深刻なダメージが身体に刻まれ、それがPTSDと名づけられているものと一緒だと分かりました。これは人に言うような事ではありませんが、辛いです。「死」が扉を開けて目の前に漂っているのですから(例え)。ちょっとでもバランスを崩すとどうなるか(例え)。上記の歌の歌詞(^_^;)では、私が失恋というものに対して人と同じような深刻なスタンスを取らない事に対する批判という、ここでの議題が一つありますけど、PTSDの前では失恋という経験は軽いものです。PTSDがバットで殴られたようなものだとすれば、失恋は蚊に刺されたようなものです。失恋とは「特定の何か」に対する苦しみです。私の場合のPTSDは、「意識がある」ということ、精神作用が存在すること自体が苦しみでした。このようなPTSDの場合はどうなるか。本人は、まさに「必死」で自分の精神作用の解体を始めるでしょう。不思議な事ですが、自分の頭の中で「爆発音」を2回程聞きました。それまでの自分の精神がほとんど全部解体されました(人間じゃねー!)。潜在意識のイメージの意味をいちいち認識しながら日常を生きていると、起きているのに同時に夢を見ているような状態になるのです。電車などに乗ってても、人の想念が渦巻きとして見えたりするのです。断続的にそういう夢見の瞬間が平行してありました。しかし、私の目的はそういう精神の再構築をして「普通」に戻ることでした。そんな中、スブドに入って枯れていた気を充電することが出来、大変に偉大な支えとなり、スブドの霊的パワーには感謝しております。そのようにして、私はひとえに唯一全能の神の威光によって正常に復帰することができました。「失恋?ああ、人生の経験の一つですね」という程度です。私の中では例えば、「失恋」の1ヶ月が占める位置と、PTSDの10年が占める位置はどれだけの差があるか、という事なのです。失恋が私に対して深刻な影響を与えていない理由は、このようなところにあったのです。(199808310456)

 よく、歌などで「夢」と言われますが、その意図は善意なので、何も意見はありませんでしたが、最近、気付く事があるので、一応述べておきますと、私の「お話」は、「事実」です。捏造したものではなく、全てが、ありのままの真実です。空想とか嘘は存在しません。空想なら空想と明言して区別を行っております。「夢」というのは、私が聖マチルダ皇后を女神と思い込んでいたという側面については、ありますが、彼女は人間であったと20世紀に認識を新たにし、目を覚ましたという意味では「夢」とも言えますけれども。

 また、サザンの新曲の歌詞で、最近の発想(の一つ)に気付きましたが、私個人の意図は人々の為を思っており、また、私をプロデュースする神様の意図も同じであることは明らかです。私が社会に出てゆくことによって、人々が「無にされてしまう」というのは妄想です。それは、特に私を否定したくても否定が出来ない人々が、どうにかして被害者になろうとして出したアイデアです。彼らは「自分たちの存在が無意味にされてしまう」と叫んでいるのでしょう。また、そのような路線に沿って色々と、例えば「ファシスト」「獣666」とか色々言うのでしょう。しかし、私本人に言わせてもらえれば、一体何なんだ?ということです。それは、まるで、例えばボス猿の周囲1m以内に近づくことも無しにキーキー騒いでいるだけではないか?人々は、私の存在によって無意味に「される」のかい?わざわざそのようにして、それを表明しようとする事に、やけに積極的ではないか。そもそも、最初の最初から、(芸能人の)人々は間違っていたのではないか?つまり、私が述べていたような情報を密かに取り入れて歌など歌う事で、教祖のような格好をしていたではないか。その真相がバレル事を嫌うというのは、筋を外している。それならば、最初からそうしなければいいのだ。基本的には、良い情報は広まる事が良いのは明らかです。本来ならば、「誰」という視点は超克されるべきでしょう。ここで述べているのは、社会的な側面についてです。利己主義、エゴ的な勢力にとっては確かに驚異?(例:666)として心に映っているのかも知れません。必要な利己主義は「必要」です。ここで述べているのは、無駄・不必要な利己主義のことです。歴史的に言えば、魔女裁判のような発想をしようとする人々のような態度の事です。同じ人間の間にそんなに距離を、しかも自分から空けなくてもいいのではないか?(199807270449)

 最近は、矢沢永吉さんのCMや、ROBOTSという歌手の歌で気が付きましたが、これらは「批判」なのかも。こういう時はこう、ああいう時はこう、と決まっているこちらの性質をロボットだとして、ある種の批判をしているのだと思われます。一応、これに答えてみようと思います。

 これはキリスト信者ですと一つの常識のような面がありますが、「自分の罪深さ」を深く認識する=悔い改めるという心の浄化の道があります。これを適用できるのは、勿論、万人ではなく、そういう時期にある人だけです。そういう時期にある人が、「もう二度と同じ過ちはするまい」と決心すると、それは通常よりもとても強いんだという事です。同じような状況が何度訪れても、まるでロボットであるかのごとく、決して踏み外す事がないかのように見えます。しかし、その本人の心の中の強い決心と絶えざる努力がある事が「分からない」人も沢山いると思います。それはある意味で当然です。外面しか見えないのはある意味で仕方のない面がありますから。外面的にロボットであっても、その動機は、本人の絶えざる努力と悔い改めがあったということなのです。(199711150507)

 よく、「言葉にすると嘘っぽくなる」とかいいます。色々と微妙な意味の違いがあると思います。私はよく、「伝達の為に」言葉を使いますが、言葉は、密接に「意味」と一つになって使っております。人によっては、それを指して「言葉の世界」と一括りにして、別扱い=嘘扱いをするのでしょうが、嘘はありません。言葉のままに「意味」を表現しております。私は、「言葉の世界」にあまり嘘を感じない面はありますんで。ここで一つ気付きましたのは、だから人は(特に日本人は)言葉による交流が極めて少ない傾向が出てくるのかも。ということは、「言葉」というものをなおざりに扱っている人の割合も、かなり多いのかもしれません。(199711090320)

 もう一つ気付いたのですが、「言い訳」という概念です。「言い訳」という言葉には、過去の事実に関して後から「嘘」によって説明を行う、という印象がありますが、私は嘘を使いませんので、「言い訳」とは違います。過去の事実がどうであったかという説明なのです。199708220242

もう一つ気付いたのですが、私がSさんに「永遠にする」という誓いの過去です。確かに、人間は有限の存在で、未来に渡っての自分の意志を決めておくというのは不可能ですね。それが有り得ないと思い、そこをつっつくのでしょうが、それに気付いたので、こっちも指摘しておきます。それは、神なる自己に引き継がれるのである。それが希望である。もし、誓いに変更があるならば、それは神の御意志なのである。神の御意志とはどういうものだろうか。変更や取り消しと見えたものが、実はより深める為であったり、より美しさを増す為であったりするのである。なぜなら、神はなり、だからです。(1997.07.11)

 私の住所と同時に、仕事の場所についても明確には述べてませんが、仕事の内容については、具体的なヒントは色々と伝えてきました。問題なのは、「具体的な場所」であって、内容ではないからです。それに、私がレターで色々と伝えてるので、芸能関係の人は皆さん知ってるはずです。なぜなら、芸能関係の人に知らせても具体的な場所の問題とは関係ないからね。「借金10億」と女性誌が報道した明菜さんの借金を返そうと思って当時始めた仕事を隠したがっている訳ではありません。ただ、ある種の人間の目の色を考えると、順序良く伝えて行く必要はあると思っています。それで、内容についても、具体的な「言い方」はしていません。私には裏がありませんので、よろしく。

 もう一つ気が付いたのですが、私が使っている卍記号はナチスとは関係ありません。そもそも、これは神社のマークであり、古代遺跡(ペドラ・ピンターダ)に書かれてあった記号であり、ナチスとは回転方向も逆である。また、もう一つの記号として、宝珠というものを紹介しておりますが、これは地球(当時は地球が球体であると知られていたと思ってます)の上に十字架を乗せて、キリスト教による世界統一、神聖ローマ帝国の権力の象徴としてのマークでした。その上下を逆にした♀記号に似たアンク十字(球形部分が逆水滴状である)というマークがあります。人によってはアンク十字=善、ここでの宝珠=悪という見方を取っていますが、アンク十字については、1977年11月21日のニューヨークでヴェロニカ・ルーケンにキリストが御出現の時に次のように言われています。

『私の子供たちよ、あなたたちは、アンク十字が何を意味しているのかわかるようになるだろう。このシンボルは、あなたたち子供の首につけるもので、今、流行しているものである。このシンボルを受け入れてはならない。それは悪魔の力、私にそむく計画のひとつだからである』
 つまり、私としては、アンク十字のほうが何か危ないぞ、という立場です。

 ちなみに、ピースマークとして知られる、円の中にカラスの足跡のような、「腕が折れた十字架」が書かれてあるマークがありますが、1971年2月1日のニューヨークでヴェロニカ・ルーケンに聖母マリア様が御出現の時には次のように言われています。

『666は、自分の破壊力を地球全体に広げているのです。その地獄からの使者のしるし、反キリストのしるしである、“壊れた十字架”が、いわゆる“平和のシンボル”となっています。これを身につける者は、すべての死を宣告されてしまうのです』
 これがどのような状況のどのようなことを言ってるのかは分かりませんが、注意を喚起しているのは確かでしょう。でも、特定の記号、形を使用するラジオニクスという技術が知られている現在、これらの形・記号に注意する原理的な根拠は確かにあると思います。以上は、フットワーク出版(株)の「ファチマ奇跡の写真集」\980のP148〜p152を参考にしました。

 ここで、また一つ批判に気付きました。その批判に対する解答は整っています。しかし、今はそれを言わないでおきます。言わない理由があるからです。直接言わない代わりに以下に回り道をして解答を考察してみます。過去の私の考察は、その時の無意識の批判をかわすためのもので、その時に丁度気付いたものでした。例によって私には一切何も知らされずに、批判だけが行われてるなぁ。しかし、いい加減、やり方が卑怯だな。そういう批判を、何一つ情報が与えられない私が、どうやって気付けと言うのでしょうか。ま、気付いたけど。「食欲」に例えてみますと、テーブルの上のクッキーを手にとって食べたのを見て、「ほら、彼は食べたくて仕方がないのだ」と囁いているのが、そっちですね。「食べたくて仕方がない」と決まっているのだろうか? 私の動機については既に述べた通りであり、また、私は個人的に直接の対話を行い、シカトを6年も続けた理由を聞きたいと思っている。一方、社会に対する個人的な意図・欲求は無く、この仕組の存在を世に知らせる役目としての意図はある。あなた方は、ほとんど動物のようだね。私が「本当に」神だと思っているのですか? 思ってないから、そうやって批判をするんだろ。じゃー最初から神だと思うなよ。人間に決まってるじゃん。何度言ったら分かるのかなぁ。逆にこちらから質問しましょう。「何故、私は“型”という言葉を使っているのでしょうか」これは、神の仕組である。私は神に従う者でありたい。

「私は社会を目指さしてない」と言ってますが、その意味は、「動機(原因)」について言っています。「結果」として何かの組織を「作らない」とか、マス・メディアに「出ない」とか、決めてる訳ではありません。もし仮に必要とあれば、そうしないとも限りません。でも、仮に組織を作ったりマスメディアに出たと仮定して、私はそこから金銭を得たり、権力を志向したり等の動機ではありませんよ、という意味合いで言ってます。つまり、これほどの弥勒情報が与えられておきながら、金銭を得たり等の事を優先する訳ないじゃんという訳です。「社会を目指さない」という「動機」を言ってるのです。「動機」としては、社会的認知欲求に突き動かされた訳ではなく、そのような動機で社会を目指さない私が、社会を目指しているのは、目的があるのです。私自身にさえ、どこへ行くのか分からないのです。私はただ単に神に従うのみです。神一厘の仕組については一二三神示に示されており、私はそれに従う必要があると考えています。私の性格上、もし、簡単に出来る事であったならば、突然にマス・メディアに出るという方法を取ったでしょう。しかし、そう簡単にマス・メディアに出る事は出来ないから、インターネットや出版やらの方法を試みている訳です。再度、ここでも強調しておきますと、そのようにして表に出て収入を得始めたとしても、目的が金銭でない事を証明し続けなければなりません。大切なものの一つは、動機を明示しておく事でもありますから。従って、私が弥勒情報によって大きな金銭的利益を結果として得ても、自分の収入にはしないでいる事を、継続する必要があります。ただ、この話の故に生じた、私個人の側での金銭的負担があり、それを埋めることは可能だと思っています。まあ、弥勒情報による収入も何も無い時にこんなふうに決めてます。

 私は、神=0=∞と述べております。これは、社会派の人から見れば、まさに一神教に見えるかも知れません。欧米が一神教、日本が多神教という分類をしてる人達がいますが、神の本質は、文化や社会習慣や伝承等々の事柄とは「全く無関係」なのです。神は文化や社会によって規定されるものではない。私は「神」について述べています。国や文化や伝統等々という側面とは全然違う事を言ってます。それは、私が社会を目指してる訳ではないからです。

 「私は社会を目指してる訳ではない」これは、社会派の人から見れば「信じられない」か、または「思いつかない事」かも知れません。法律は勿論、大切です。社会は勿論一つのシステムであり、システムはどこにでもある普通の事です。それらは形として機能するものであり、そのような社会的な形が維持されてる事が必要です。それらは、社会を目指す人間にとって必然的に大切なツールです。しかし、それらは人間の内面的な用途ではありません。社会的な用途です。では、社会を目指さない私が、何故目立つような事をするのかと思うでしょう。それは、多くの人の意識に触れるというの方向です(認知欲求に突き動かされた訳ではない)。社会やら金銭的利益を指向してもいいけど、指向しないのです。また、多くの人の意識に触れることで伝わる力もあります。色々な「理由」があるように見えますが、それは自然の動きであります。逆に言ったほうが分り易いかも。つまり、もし、一切を隠蔽して誰にも言わないままでいたら、どれほどの罪深い行為だと思いますか? その為でもあります。色々な「理由」がある。これを指して「私が目立つような行為をするのは、目的がある」と表現したりします。「目的」といっても、それは私の意図的なものではありません。しかし、踏ん張るべき場面ではその、「与えられた目的」を実現しようと意図し、意識して行為もします。そのような行為がどのような結果をもたらすかは私は知りません。私としては、神をどれだけ表現するか、ということです。その方向は外的社会的なものではなく、内的精神的なものです。自然に適った生きかたをしていれば、自分には気付くことも知ることも無い、色々な波及効果も出てくるのでしょう。

 社会を目指さない私が目立つように振る舞うのには、目的があるのです。


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