神一厘の仕組及び、自分で思う自分の立場]に「ARIONの正体」という刺激的な題名で文章をタイプしました。(200802222039)


 たまBBSの発言からのリンクにあったので読んだのですが、王仁三郎の霊界物語に次のような記述があります。

『それについては通力自在の大真人が底津巌根《そこついわね》に埋めてあるから、この者を一日も早く世に挙げて御用に使はねば、ミロクの神代は成り立たんのであるぞよ。この者は三千世界の大化物であるから、現はれたらこの地の上には、これまでのような惨酷な戦争も根を絶ち、悪い病魔も消え失せ、世界に大きい困難も無く、盗人も出来ず、天災も地変も末代起らず、誠に結構な平穏《をだやか》な神代に成るので在るぞよ。』
 私は「通力自在」ではないので、私ではないようです(^^;。もしかしたら2080年に出現する人(?)なのかも?(200710090053)

 でも、もう一つのリンクにある「高姫」って、誰かさんに性格が似ているような…。(200710090055)


 最近「あなたの行いはあなたのその立場が作った」という想念をしばしばしばし感じています。これに対して異論・反論・Objectionがありますのでその事実を(前にも言ったんだけど)提示いたします。
 私に色々なシンクロニシティが提示され始めたのは1991年5月になってからです(この立場[=弥勒]は1991年以後に判明)。そこで、1987年に自費出版しました「世紀末研究」という本や、1979年に自費で印刷して自分で配布したチラシを示します。これらのテキストをもし読まれれば、私の「この立場」以前の1987年に「20世紀末」に対してどんな危機感を感じ、何を意図して、どんな発見を広めようとしていたかが分ると思います。現に、ラルフ・チャーコンのコンタクトを読んでもらえれば、米ソ対立の中で核の使用が、ほぼ有り得た未来があったらしいことが分りますし、ファティマ第三の秘密は第三次大戦のことのようですし、たま出版のニラサワさんも「パチカンの外交努力が20世紀末の第三次大戦の可能性を消した」という旨の発言がありましたし(←記憶です)。某神霊が某チャネラーにメッセージを与え始めたのは1985年末の頃のようでした。後になって思えば、「世紀末フォーラム」という名前を与えたのは「もしかして、この自費出版本の題名かも」という気がするのも事実です。ちなみに、私が「オリハル」というハンドルネーム(HN)を使い始めたのは1986.01下旬からです。

 個人的なことについて思っていたら、一つ思い至った点があって、まだ言ったことが無かったように思われ「自分で自分を弥勒と言う事について」言っておこうと思いました。

 先日、[プライド]にも書きましたようなことです。そういう事については、放っておくと(外向きになって)増長しますでしょうから(^^;、私としては、弥勒であるという「外向的な展開」はなるべくしないように、しないようにと気をつけてきました。
・自分の顔写真などをホームページ上に出さないのは、個人を特定される危険を避ける為ではありましたが、無意識的に「外向的な展開」に注意していたように思います。
・また、社会的に自分を「弥勒として」押し出すような、それを第一目的とするような発想、考え方を潜在意識の中で持ってしまうような方向性を(いつのまにか)採ってしまうようなことにも気をつけていました。故に、マスメディアの中に弥勒として出て行くという行為可能性については「自分でそうするのではなく、飽く迄も受動的でなければならない」と思っていました。つまり、メディアや社会、世界のほうから働きかけが無い限りはそうすべきではないと決[め/まっ]ておりました。故に、いつでも社会的な展開は、「(個人的利益の観点で)捨てられる」スタンスが必要でした。(ただ、このような側面もあります)

 このような自律について、ある種の人々(芸能界に多そうです)は「やせ我慢」に見えるでしょうし、他のある種の人々(堅実・律儀傾向なタイプ)は「当たり前」と言うのでしょうね。前者は「内的に不活発で、外向的に活発」傾向でしょうし、後者の人々は「内的に活発で、外向的に不活発」傾向でしょうね。
 「弥勒として自己を社会的に展開プロセスしない人(しかし弥勒存在として許されている)」へ「自分でそうしようとしないあんたが悪い」みたいに前者の人々は言いそうです。この表現そのものが最初から欲望欲求所有史観の上に立っていますよね。弥勒という立場が「利権の塊にしか見えない」傾向の強い人は、思考も感情も行動も片面的な危なさを感じます。もし、その傾向が強い人が仮に弥勒にでもなったりしたら、自分の為に利益を吸い尽くして終わりだと思われます。そのような行為(プライドの外向化)を禁忌きんきとする事を当然だと考えるべきであって、「利益の塊にしか見えない」という認識の偏りの理由は内的な不活発=怠惰だと思う。特に、近未来に現れるとされる反キリストには、この傾向が顕著だと記されております。(200703122125)


 既に発売されていたのを知らなくて、つい先日、下巻を買って読んでましたら、下記のとは正反対の記述があったので、下記の分については、バランスに気をつけて「著作権を放棄しない」認識程度に留めるのが適当だろうと思い直しました。(200412310103)

 私の言う神一厘の仕組のところにもあります、某神霊の1993.08.04 03:31の#00848発言のテーマは「アトランティス崩壊」のことだと思っております。これは1993年の神霊の発言ですが、私自身がアトランティス崩壊に関わったらしい確信のようなものは1979年に自己分析で発見し、知り・理解しました。私は確か1977年頃から覚醒意識の瞬間体験を重ねる中での精神の解放・高揚・覚醒の素晴らしい霊的な体験を持ち始めていました。そんな時期に人類に溢れて、自分の体験を基にしてチラシを配布しました。ところが、1978年の確か11月に他の瞑想を習って、その瞑想をしていた時に、息を止めていたら本当に死にそうになり、それで突然に飛び起きるような事をしてしまったために、そのショックはその後10年程続くことになりました。瞑想で失敗した翌日から、気持ちの悪い夢を見たりと、精神的・霊的などん底状態に突然に突き落とされました。私は、この「突然に突き落とされるパターン」にアトランティス・カルマを見出したのです。一種の気づき・発見です。その先にこの発見を検証する作業をして物理的に確認できれば「完全なもの」となりますが、それは実際のところ、今のところ、不可能です。

 もし、あの時、あの瞑想法を習ったりしなければ、私自身で色々な霊的体験を重ねて行けたのに、と思います。その瞑想を習いに行こうと思うと、その瞬間に「鬱」が私を襲った確かな記憶があります。その時点で、瞑想法など習わなければ良かった。その瞑想法は本物で、とても深い状態に入ります。だ・か・ら・こ・そ危険な事になったのです。また、好奇心とか気軽なスタンスで瞑想に取り組んだのも間違った?原因です。それとも必然だった? 一体、誰が「息を止めて一度死んで霊界に行ってみよう」などとするだろうかと思います。公務員のようなそこらへんのスタンスが自らに危険を招いたのでした。気軽過ぎた。慎重さがほしかった。

 この時に「将来、神仕組みに関与する運命になる事実」など思い付きもしませんでした。私の身体の神経系に変調を来たして、霊的な体験があまり出来なくなり、鈍くなったとしても、神の世界では、別のプランが起動していたような気がする時が時々あります。つまり、私が霊的な体験で理解を深めるどころか、先ず自分の生理的変調による様々な困難に取り組んで解決しなければならない身体になってしまったために、神はチャネラー経由で外部から情報を伝えるようにされたのだという思いを持ちます。某チャネラーの前には神山会の山本鈴美香さんが龍神のメッセージを「ムー」誌上で発していました。私はとても引かれるものを感じたものです。ただ、何かが原因して、山本鈴美香さんは霊媒・チャネラーとして用いられなくなったらしき事が「メッセージの停止状態」という継続的事実から分かると思います。そのような「外部からメッセージ」という方針転換については、一二三神示ではMSさんへの第21通目にも振れましたが、

「天つ巻」の第七帖には、日本に関する神の御意志の基本が述べられています。日本では、必ずペアの仕組みとなるそうです。

『 二二(ふじ)は晴れたり日本晴れ、二本のお足であんよせよ、二本のお手手で働けよ、二本の神の御仕組、いつも二本となりてるぞ、一本足の案山子(かかし)さん、今更何うにもなるまいが、一本の手の臣民よ、それでは生きては行けまいが、一本足では立てないと、云ふこと最早分ったら、神が与えた二本足、日本のお土に立ちて見よ、日本のお手手打ち打ちて、神おろがめよあめつちに、響くまことの拍手に、日本の国は晴れるぞよ、二二は晴れたり日本晴れ、二二は晴れたり、岩戸あけたり。九月一日、ひつ九のか三。』

 ということでしたから、これも運命であった可能性が高いと思います。先ず、十中八九は、瞑想で失敗し、こうなってしまったのだろうと思います。今回の発言冒頭にリンクした某神霊のメッセージは、私の1993.07.29の発言に「応答したもの」のような気が当時しました。6日後に出たこの神霊メッセージの「その者達」や「同じ問い」は、アトランティスを崩壊に導いてしまった者達という意味合いであろうと思っています。私の1993.07.29発言の最後でアトランティスについて触れた根拠は、ケイシー・リーディングと自己分析による直感的・個人的確信でそのように述べたものでした。

 現在、私がパワーの放送塔であるかのごとくですが、また、そう思いがちですが、そんな風に言ってはいけない様子がありました(当時の神霊の様子を根拠にそう思っている)。アトランティス当時は放送塔であったのかも知れませんが、現代では、神霊が言うように、「複雑なネットワークには高次のエネルギーが溢れる」という原理があるそうですから、正確には人の心と心が結ばれてネットワークとなってそこに流入する形態なのでしょう。しかし、自分が過去世を思い出した356の日の3日後(平成3年5月9日)に炎と化したのは事実であり、それを某フォーラム内で私が触媒となって(触媒という断言なら可能?)、神霊が主体となって、その炎の力が多くの人に伝達されました。この時期に神霊は、私個人が目立たないようにすることが肝要であったらしいことがありました。つまり、現在の私は、アトランティスの時のような(?)「最終的には大陸を海に沈めてしまう破壊的影響力」を恐怖の大水晶を使って、自分を通じて放射していたという過去のカルマとして償わせられているのだろうと思います。ケイシー・リーディングによると、そのような破壊力は、最初は恐竜たちが人間の住居に入って踏み荒らすようなことのないようにと、使われていたのが、その破壊的な力が増大して手に負えなくなった(「恐怖の大水晶」との表現から)らしき当時の事情が推定できると思います。(200412160022)

 これは以前から感じていたことなのですが、動画などエンコードしても、それは非常に重たいテーマばかりとなり、それを見る人の精神に対する負担になってきます。イラクのファッルージャで亡くなっていった民間人の人々の遺族や当事者達からすれば、「日本人は甘すぎる」とお叱りを受けそうです。でも、アーキエンジェル・マイケルの2004.11のメッセージの文字列「戦争、争い、破壊の嵐が吹き荒れ地球全体を覆い、」から始まる段落部分に書いてあることは、非常に重要だと思いました(全体的に重要だし、毎度重要ですが)。つまり、当事者でない世界中の人々は、その精神性を楽しく明るく創造的な状態を維持したほうが良い、ということです。心の中を満たすべきは、イラクや現場での悲惨さよりも、自分が楽しい・興味が引かれる・嬉しい・やりがいを感じる事で心の中を満たすほうが、「その心的波動が好ましい影響を世界に与える」ということがありそうです。私の今までの認識では、心的影響を与えているかも知れないとは分かっていましたが、そのような大きな?深い?影響があったなどという大局的な見地を確固としたものとして認識・確認したのは今回が初でした。それで、動画のエンコードは必要最低限度に極力搾って行きたいと思います。私的にも今まで負担が過度になっているかも、という想いがありましたし。そういう悲惨な話題ばかりを載せるのは、特別に研究対象としている人とか、当事者でもない限りは、なかなか見られる事もなかろうと思うのです。(200411242206)

 最近、私はスタンスが少し変わりました。それは、アーキエンジェル・マイケルの2004.05のメッセージの中に「Claim your mastery(あなたの支配を主張して下さい)」とあったのが始まりでした。大天使ミカエルの言葉は意味深長であるため、一つ一つの言葉の背景があるものだと考えております。表紙ページに、IEで見れる縦書きの文章を加えたりしたのも、そうです。今後もそういう「傾向性」が織り交ぜられると思います。(200411102150)

 最近、「その人の立場がその人を創る」ということが言われているようです。ちょっと前にも、それに意見しようとして忘れておりました。私が弥勒の第2波であるという「社会的立場」が私の性格を作った側面は、周辺事項です。私は中学1年生の時にジョージ・アダムスキーの「宇宙哲学」という本を読み、「哲学」という言葉を辞書で引くことから始めました。その後、「生命の科学」、「テレパシー」という彼の著作を買って読みました(リンク)。「非個人的であれ」とか「利己主義的ではいけない」や「一瞬一瞬に気づいていることが大切」などの教えを守っていました。高校生になってからは高校は東村山という所にあるのですが(^^;、三鷹や吉祥寺から電車で通ってくる友達もいました。私は自転車で小平から通っていました。友達から「家まで送ってよ」と言われれば、「NOと言う事は(特殊事情が無ければ)無かった」のでした。高校3年だったか、瞑想で死にそうになるのですが…。その5〜6年後にスブドという会に入って、会員部というのを担当しました。この時までに私は色々な事を考えました。スブドの建物は神奈川県川崎市宮前区鷺沼にあるのですが、入会希望者が時々訪れます。オープン前にスブドのヘルパーと言われる人々と話をして、疑問など解消したり、何かを感じたりします。ほんのたまに参加ヘルパー全員が答えられない質問が出てくる時があります。そういう時「だけ」に、事務員である私が霊的ヘルパーの替わりに答えるのでした。それでか、途中から、会員部は出席してはイケナイということになりました。
 スブドにパソコンを個人で購入して導入したのも私でした。一人でデータ入力して名簿など後の便宜を図りました。当時はμCOSMOSというリレーショナル・データベース・ソフトでデータ入力しており、漢字は単漢字で入力しないといけない訳でした。当時の最新式のワープロ・ソフトはjWORDというワープロで、文節変換が出来る!というのがうたい文句でした。最近、私はクライオン・サイトの翻訳など突然始めましたが、日本人というのは、あまり論理的なニーズに則った考え方ではなく、何か権威主義的な関係主義的な人が多いみたいです。一人で120万円でパソコンを買ったのは、1982〜3年で、弥勒の仕組みが現れたのは1991年です。
 MSさんとの生中継を通じての魂の出会いも、徹底的な善の中で発生しました。弥勒が明らかとなるのは1991年です。私の場合は「社会的な立場というものがコアとなって精神・内面が整う」という順序ではないのです。勿論、普通は職務がその人の人格を機械的に形成する事は多いのだろうとは思います。(200211072359)

 私は今の宇宙的状況(フォトン・ベルトの接近等)は、「形・皮相」と「本質・深層」と分けた時に、本質からの変革が起きているのだと思います。それを一人の(個々の)人間の出来事として理解しようとすれば、本質とは、すなわち(社会ではなく)神へ向かうベクトルであるのは明らかだと思う。皮相的な部分は割礼を受けてしまうのだと思います(^^;。今まで数年間、私は社会勉強があまりに不足していたのでニュースを見て勉強していましたが(社会的側面を中心にして私をどのように理解・解釈するって言うんでしょうか)、今は、社会的な出来事からは心を自由にして行く機会を増やしたほうが良いのではないかと思い始めています。悲惨な出来事に「たまたま」出会ってしまった弱者の方へは出来る限りの応援をし、同時にそういう方々もなるべく心が自由になり、神へ向かうベクトルを示唆し続けるしかないのではないでしょうか。

 イエズス様が単に「父」と述べていた神との交流の豊かな内実を(勿論、他者はそれを知り得ない訳ですが)、現代では、細かく説明したとしても、ある程度は「大丈夫」な時代だとは思いますが、もし細かく説明したとしたら、随分と嫉妬されるだろう事は想像にかたくない。でも、今起こっている変革は、そのような領域で起こっている事だから、情報的な弱者を生まないように意図する事もまた大切な事と思います。(社会的な側面では私はかなり徹底的な情報的弱者ですけどね) ただ、その時、「どの情報が真正か?」という問題があります。神がバックアップしている人・情報はどれとどれか、という側面もある、という事を言おうと思います。(200210102118)

 未だに、某神霊預言の中にある「大きな男」を私のことだと言いたい人々がまだいるようなので、以下の主張をしたいと思います。

(1).某神霊の、第13番詩の最後のほうに

このような時 即ち今から六四回目の満月を見るとき
立って出る者は 全て招かれざる者達である
とあります。この13番詩は、日付がありませんが、12番詩(1986.01.06)〜15番詩(1986.02.15)の間にあると思われます。

 さて、月は地球の周囲を28日周期で回っています。28日×13=364日(=1年-1日)です。つまり月の暦(太陰暦)では1年=13ヶ月+1日です。1年に1日の余剰日が出ます。5年=13月×5年=65回の満月ですから、上記神霊の言う64回目の満月までは、5年弱です。少し正確に言うと、64回の満月の期間は、5年-28日(太陰暦1ヶ月分)-5日(5年分の余剰日)です。
 さて、私がMSさん宛に第一通目をポストに投函したのはレターの締め日から判断して、早くて1990.12.16日で、MSさんの所へ到着したのは12/17(以降)です。
 ここで、問題の「13番詩が出た時から64回目の満月」がいつになるかを理科年表で調べてみましょう。

1) 13番詩が12番詩と同じ1986.01.06に早めに出されてたとしたら、第1回目の満月は1月16日にやって来ます。すると、第64回目は1990.12.24です。
2) 13番詩が15番詩と同じ1986.02.15に遅めに出されてたとしたら、第1回目の満月は2月13日にやって来ます。すると、第64回目の満月は1991.01.21です。

 この事についての計算は今回が初めてだったのですが、両方共、MSさんへの第一通目を出した日にとても近い(^^;。13番詩では、「六四回目の満月を見るとき」と言ってます。でも、私はこの時、「立って出る」とは程遠い認識でした。つまり、MSさんへ出したレターが他の芸能人に同時に読まれてるなどとは知りませんでした。他の芸能人に話が伝わっているらしきものを始めて感じたのは1991.03.08(金)の「ミュージック・ステーション」だったと思います。1990.12.28(金)の「ミュージック・ステーション」の時点では、他の人へ伝わっているとは認識しておらず、MSさん一人だけが私からのレターを認識してるだけだという意識でした。この時から10年以上を経た現在も、「立って出る」とは言えない状況と思います。この期間に「立って出る」に該当する「片目の男」は、オウムの麻原と、「これは定説です」で有名なライフスペースの代表の二人ではないかと思います。この頃、オウムやライフスペースはどんな活動をしてたのでしょうか?

(2).天理教の教義の中に「親様」と呼ばれる特殊な霊的グループの存在があります。その中に含まれる教祖の中山みきが、彼女の生前の予言通りに死後100年経ってから埼玉県川口市の伊藤青年の口を借りて活動を再開しました。天理教は、黒住教、金光教などと共に大本教と同じ霊統だそうです。一二三神示は大本教の出口王仁三郎に近い岡本天明という人が王仁三郎が生前に果たせなかった部分を託されて出てきた自動書記の神示です。某神霊は一二三神示と同じ霊統だと述べています。つまり、私は、そのほんの数日後に活動を始めた親様の御活動と同じ霊統ということになります。[親様の御活動との同期(資料をSさんにお送りしました) ] 私の第一通目のレターが上記(1)の「64回目の満月を見るとき」じゃないかと言って「飽くまで第1通目を出した日付」を指摘したがる人がいたとしても、親様が私の活動開始に同期して下さったお蔭で、私の立場は正統派かられてない事になると思っています。それだけではなく、一二三神示の示しや、某神霊自身の発言によるバックアップがありましたところからも疑いの無いものだと思います。素朴に考えられる人々の為には、30重を超えるシンクロニシティーだけでも不足では無いと思います。

(3).聖母マリア様が1993.03.06にフィリピンのルソン島(かつて、神風特攻隊がここから発進したそうです)に御出現になられました。[MSさんへの第39通目] この日付は「536の日」です。私がMSさんとの過去世を明確に思い出したのは356の日(平成3年5月6日)でした。ちなみに、これは多分、某神霊の26番詩とも関係するのかも知れないとも思います。

 以上を根拠に私は某神霊預言の「大きな男」でもなければ、同じ人物を意味するところの「錆び(=嘘)を生じる片目の男」でもないし、「片目の男を暗示する場合のフクロウ」でもないと主張します。(200110160055)

 私がほとんど誰ともコミュニケーションできないという現状を鑑(かんが)みるとき、もしかしたら、自分はノストラダムス予言の中に出てくる「別のもの」なのかな、とか(^^;。本来、歴史の上に出てくるはずではなかったのかも? だから、コミュニケーション自体が困難なのかも、とか(^^;。
・あるいは、最も有り得るのは、ほとんど100%の人が嘘をついている。そのためにコミュニケーションを「開始する」のが難しい(怖い?)のかも知れない。
・あるいは、私は以前入ってた複数の会の中でもそうでしたが、自分が誰寄りであるかとか、どのような派閥であるかというスタンスは取らずに、常に意味・内容によって自分の価値観で考えていた。その場の誰との関係ではなく、価値観に従って考えていたのだけど、人はそういう私を当該集団から追い出そうとした。なぜなら、私の表情とか相槌とか、タイミングとかで計れない性質があるから。なぜ人はそんなものによって人を判断するのだろう。私から言わせてもらえば、私が言葉で主張している内容が、なぜ理解できない(などと言う)のか、よく分かりませんね。人の主張は、その言葉で知るべきだと思いますけどね。
・あるいは、芸能界について言えば、人々は私個人とは一切、何も言葉による具体的コミュニケーションを「しない」という「失礼」をしている。つまり、彼らが私へアピールするのは、その金銭的利益がほとんどの理由なのだと思う。まあ、上記の「怖い」とか、その種の理由の為にコミュニケーションしない・できない、という側面がある可能性は若干残ると思いますけどね。以前、[ミュージックシーンに絡めて]でJUDY&MARYに問いかけたら、mottöという歌が出てきて「最後に笑うのは誰?」と言って、「をもっと〜」とか言ってます(^^;。まあ、その種の側面(私個人の利益という側面)が、かなり気になるようですね。しかし、神仕組みにも顕れてますが[「後ろの正面=松本明子さん」及び、万灯を掲げます]、誰にも真似のできない誕生日や本籍地や意図せずの現住所や一二三神示等によって絶対不動の立場(弥勒)であるのは、それだけひどい理不尽な仕打ちを、過去世で受けてきた為である事は、ほぼ明らかな事です。神霊の預言の中でも、「この度は繰り返してはならない、同じ過ちを」と述べております。これはチャネラーが私を知る以前に出された預言メッセージです。すいません。ふと気になって調べてみたら、このメッセージはチャネラーが私を知ってる時に出されたものでした。このメッセージは同時に日付指定預言が含まれていて、その一部は、チャネラー本人が「多くを知り、多くを為さない事が理由で揺さぶり(=私からの質問)がある」というのが日付まで指定して出ていたもので(つまり、神霊が「チャネラーに原因がある」と言ってるメッセージ)、それで私はこのメッセージに対して信頼性が比較的には高いと感じていたのだと思います。そもそも、預言に関しては信頼性はあるように思います。ただ、わざわざこのような「預言パフォーマンス」にしか見えないメッセージが出てきたのはそのようなパフォーマンスをチャネラー自身が意図した為に、神霊が応えた図式があるかも知れないとは思います。(200012220315)私が世界へ関わると、多分、革命的な変化が起こると思います。ところが、人は、物事を断言したりせず、責任を持たずに逃げたりする。これでは世界は変わらない。しかし、この種の「可能性の無いと感じている人々」は、私のような「個人的に可能性のある人」に対する嫉妬や攻撃に関しては凄い。私が悪い訳ではなく、あなたがたの精神的な側面が真の理由なのに私を攻撃する。「復讐」というのは私は正しい側面があると思います。普通、復讐というのは「相手にやり返す」みたいな事だと思います。でも、私は逆人間なので、過去世の復讐は、「自分を生かす」という方法によって、しかも、神からの強力なバックアップ・権利を受けて生まれて来ていると思います。だから、私は「当時」、「彼ら」が「私の死を喜んだ」事に抗議する意図があります。だから私は弥勒として世に出ようと以前から意図しているのである。以上が、人が気にする私の個人的側面の理由であり、復讐でもあるのだ。また、常に言ってるように、これは、全体への奉仕となるのである。(200012180537)前回の発言に対するちょっとした念を感じますので、補足しておきますと、過去世に関しては、勿論、推定です。私がハッキリと過去世を思い出したのはほんの数える程度です。過去世の「彼ら」への復讐として自分は弥勒として立っているのだろうという推定をしているのです。しかし、勿論、「彼ら」が今の世でどの程度ダブっているのか、そもそも、いるのかどうか確認などできるわけがありません。だから、自分個人の問題として、弥勒として大勢の人に知らせるという事の「個人的な意味合い(今回の発言テーマ)」としては、これは過去世の復讐の成就で「あろう」と思っているのです。ただ「あろう」とは言っても、私の気持ちの中には善をバックアップし、悪を潰したい気持ちは誰よりも強いと自分で思います。私が表に出れば、「不当な仕打ち」は減ると思います。なぜなら、私の視界に入ったら、見逃さないからですね。要するに、私個人として表に出ようとしている、という事ですね。過去世がそうでなかったとしても、今の私の感情的傾向としてはそうである、という点については事実です。それが私が行動するときの基準です。つまり、善を促進し、悪をくじくということです。過去世の復讐としてという上記・前回の言葉は「推定」です。ただ、そのように考える傾向なのは、それが今の自分の傾向だからです。(200012220359)

 2/28(月)に気付いた事があります。今の私はマスメディアによる宣伝を、飽く迄指向するかどうかの岐路にあるように思います。というのは、インターネットという宣伝経路が幸いな事に、あるからです。

 「情報を伝える」為には、「心情的に人に受け入れられる」事が必要です。でないと、たとえ言葉がテレビで聞こえたり、文字が読めたりしても、「伝わらない」からです。あまり「自分自分」してると人が敬遠するということに2/28(月)に思いが至りました。今まで私が「居るだけ」で人が敬遠したりする理由が分からず頭に来ていたのですが、炎に包まれている事を頭で認識したためにそれが嫉妬の引き金になっている程度の理解しかなかったのですが、これを立場を変えれば、人によって猛反発するということを「心情的に理解できた」のです。なぜそれほどに過敏な反応を人が示すかといえば、オーラが燃えている人というのは客観的に「有り得ない」と思っても、現存している所にあると思われます。しかし、難しいのは、そういう事を特に気にしない人もまた多いという点です。また、特に女性の方は、それを好意的に受け取って下さるようです。ですので、嫌がる人が多いのか、好意的に受け止めてくれる人が多いのかという、統計的なデータが、分析の為に必要になってきます。だから「難しい」のです。

 つまり、それを「嫌う人が多い時」には、テレビなどへの露出を控えたほうが「言葉が伝わる」という判断になり、「好む人が多い時」には、テレビなどへ露出したほうが「言葉が伝わる」という事になります。人数として最も多いのは多分、「どちらでもない」人々だと思います。従って、どちら側に偏っているかという判断になります。

 前からこのような事を言ってますけど、芸能界・宣伝業界の中で、こちらが発信する情報が「せき止められている」からなのです。広く一般へ向けて伝えられてないからです。それを「自分のもの」にして下さった点は評価に値しますけど、一般の人に全然伝える気がないとしか思えません。私の意図は、そのような壁・ダムを決壊させることです。このような点から言うと、芸能界・宣伝業界には伝わっているので、「あまり用がない」という言葉になります。これは個々の人は意味しませんが。「用がある」のは、そういう人々以外の全員です。

 そのように情報を広めようとしている私が女性芸能人との結婚のついでとして宣伝しようとしているのですが、その事がどの程度必要であるかという点が今の問題です。インターネットという経路が今ではあるので、あるいはほとんど必要がないのかも知れない気がしています。どういう訳か、まだ誰からも電子メールとか来ませんね。この断絶は一体、何なのでしょうかね。また、情報は徐々に伝わったほうがショックが少なくて良いという事もありそうですし。そうすれば、私はもっと自由に考えていいような気がしています。まあ、義務優先型の人なので、また今後、何らかの義務を抱え込むかも知れませんが。今はこのように考えています。(200003130543)

 多分、歌というものは、考え方とかを伝えるのに向かないのかも知れませんね。そういうのはやはり本とかホームページという形にならざるを得ないのかも知れませんね。弥勒の仕組が出現したのは、この国に対して与えられたものだから、私の一存でそれを引っ込めるようなことは、他人からの隠蔽工作に屈したのと同様の結果を生んでしまう為、私はとにかく弥勒の出現について宣伝しようとしてるのですが、歌でも具体的にメッセージしてくれる人はお一人もいらっしゃらないというのはなぜかなとフト思うのですね。そもそも、私は最初から嘘が無いのですから、例えば歌詞などで「ベッコアメのオリハルさんは弥勒の仕組だ」とか歌ってくれてもいいと思うのですが(^_^;)。そうすればチョー簡単に日本中に知らせる事ができるのに(^_^;)。それに、私はこのことで利益チューチューしないのになぁ(一二三神示の中で、その種の行為が禁止されてます)。私の考え方は「人生の宝とは、お金ではなく、自分が納得できる自分であること」というものですから。だってそうでしょ。いくらお金を持ってても、それを儲ける時に自分の友人に大変な損害を与えてしまったりしたにも関わらず、自分の利益が減るのを避けるために関係を断ったりとかいうことを繰り返してるから、人目につかない裏側へと回って行くのだと思います。そのようなことが人生の宝とは思えないですね。ま、私も人目につかないようにしてますが、それは一人で自由な事が好きだからです(これは「結婚」の事柄ではありません)。

 あ、そうか、今初めて気付いたけど、色々な宗教があるから、それらの色々な立場からの要求が来るので、なかなか単刀直入に正攻法で言ってはダメなのかもね。でも、私だったら、ただ単にダイレクトに事実を言ってしまえるんだけどなぁ。

 あ、それから、「戦争終結への道」の中に動物性の一例として「誠実さ」とか簡単に出してましたが、これは安易な例だったと思います。私は自分が誠実な人間だと思っています。だから人間関係=義務、という傾向があるのです。自分の義務は果たす、というスタンスです。なんというか、そういう自分の性質を自慢するのではなく、ちょっとからかうような提示の仕方をすれば、「受け」がいいような気がしたので誠実さを犬に例えてみたりした訳ですが、それは例として適切ではなかったかも知れません。というのは、昨日、フジテレビの「笑う犬の生活」というのを見てて、ちょっと気付いたのですね。犬というのが誰か他の人をそういえば意味していたかも知れないと。昨日も桃の節句の発見をタイプしたのですが、もう芸能的な側面は宣伝という側面でしか見てません。笑う犬の生活とかの番組でも歌でもそうですが、個人を単に楽しませるだけのようなものが多いのは結構な事には違いないのですが、なんというか、意味薄弱というか、意義が無いような気が。メッセージ性のある歌とか、ある種の価値観を主張するような歌とか、その種の議論や戦いみたいなものがテレビではとても少ないですよね。でも、TBSのたけしさんのやってる「日本人のここがいけない」でしたか、あの番組では主張がぶつかっており、意義ある番組と思いますし、面白いですね。そのような事に私は意義を感じますし、芸能的な側面ではあんまり意義を感じません(歌など芸術は別)。そこでは「単に面白い」とか「単につまらない」ということになります。だから、桃の節句についてタイプしたのは、シンクロの発見を述べる事が第一であった訳であり、CMのことではないのです。ま、そういう訳で、誠実さに動物的傾向(恐怖に基づいた誠実さ、等)があることはありますが、例として不適切なので、削除したという報告が、あらら、こんなに長くなってしまいました。(200002210447)

 上記で、「なぜ私個人の深層心理をわざわざ専門家に分析依頼する(?)のでしょうか?」と書きましたのは、「ミュージックシーンにからめて」のここに書いたのと同様のものです。上記の記述では根拠に触れてませんでしたので、だからかどうか分かりませんが、上記の記述の事実性に対する疑念を感じるので、これをタイプしています。実際の所は、私も念を感じたりするだけであり、その事実性を確認できていないし、私の中で情報が歪んでいる可能性もあるというのが、より正確な事実です。(199911080338)

 でも、時々思いますのは、テレビという媒体を使って流される情報というものはどうでもいいというか、軽い情報が大半な気が時々します。まあ、意義の大きな番組(報道番組)もありますが、どうも、意味の(あまり)ない事柄に関わっている人の数のほうがずっと多いと思います。でも、インターネットが出てきたからね。もっともっと孫正義氏のような天才肌の方が一肌脱いで下さっているので、インターネットもますます安くなってテレビのように普及して行くのでしょうね。(199911080349)

 今の自分は、基本としてのカルマ返済の仕組を通過し、今はどうにかマスメディアを使って三位一体としての弥勒出現をこの国の人々に宣伝しようとしているのですが、どうもこの国の芸能界・テレビ界が情報を所有してしまい、ここからの情報をチビリチビリと出す事で儲けられるだけ儲けようとしているような可能性を思います。

 でも、今月初旬にテレビ朝日のニュース・ステーションのメインキャスターの久米宏さんが辞める時に「私はテレビというのは多くの人に“伝えられる”と思って始めたんですが、どうもそうではなかった」とコメントされてたのが記憶に残ってます。もしかしたらテレビというメディアでは「伝わらない」のかな? 確かに、あんまり多くの人の手を介するから、情報の質が落ちるというのはあり得るかも知れません。そういう点ではインターネットは本人自らの文章が登録されるので、そういう側面を考慮しなくていいですね。

 でもやはりテレビは「量」として考えれば、ものすごい量の宣伝効果になりますよね。私は戦う天使ミカエルに加勢する側面を持ちつつ生まれて来たのでは? 故にミカエルは私を加勢したのでは? やはりこの国に与えられたものは、この国の国民に広く伝えるべきでは? 現在、裏で表で利益を「主にチューチューしてる人たち」は、私自身の個人的な栄光とか利益の側面しか見えなくなっているように思います。私はそんなにYOUの立場・利益を脅かすのでしょうか? そう思うから私「個人」の動きを金銭等で妨害しているのではないのでしょうか? なぜ人は「まず被害者になろう」とするのでしょうか。「嫉妬をする=被害者になる」事なのでしょうか。なぜ「嫉妬したら攻撃していい」のでしょうか。なぜもっと多くの国民に真実を「溢れるほど」伝えようとしないのでしょうか。そんなに情報をせき止めてていいんでしょうか。
 なぜ私個人の深層心理をわざわざ専門家に分析依頼する(?)のでしょうか? 何の証拠をつかもうというのでしょうか。なぜ「結論が先にある」のでしょうか。「そうせずにはいられない」というのは、自由ではなく、ロボットであるという証拠です。そういう人が「仕える」のは欲という「地上的な諸力」です。それは「自分ではない」のです。(199910180353)

 多分、人類の心の中に、ある種の記憶を呼び覚ます為にも、奇跡(神意)に彩られた人間が人々の中に配置されたという側面もあると思います。(199905290351)

一応、明確にしておきますけど、私は「単に」自分たちが弥勒である等々の事が「やりたい」のでは全くありません。私は1989年に、ポール・ソロモンの予言を読んで、それが自分の事と深い関わり・使命を感じて、強烈にそれに自分がなれるようにと祈りました。その動機は「世界崩壊への危機感」なのであって、そのために自分が生まれたのだという類の思いがあって、また、何かをやるとしたら自分しか出来る人間はいないだろうという確信があったためです。自分の身の上に顕わされていた神一厘の仕組は出口王仁三郎聖師達の成した型が反映していただけのようで、その意味内容を詳らかにする時期が来たので、私のような情報公開タイプの人間が公開することになったのだと思っています。実質的な部分は既にずっと以前に確定していたはずです。これは確かに、ある程度、社会的な方向を持った、しかし個人的な意味合いのほうが多分強い仕組であって、これは霊が主であり、身体が従であることを表しているように思います。(199805310241)

多分、弥勒が出現した意味の一つは、「人間意識の時計の針羅針盤」のような意味合いがあるのではないかとも思います。人々が注目し、御自身と比較する事で、意識が進んでるか遅れてるかの位置を比較できる為というのがあるのではないかと思います。時計の針羅針盤のような位置にあるのかも知れません。一般人の、ある種の代表のようなものでしょう。その意味では、今の時代、人が神性を発揮するようになる時代なのだろうと思います。(199711280438)関連発言

今まで、理科系、文科系という捉えかたをしていたのですが、最近、人間的、動物的という捉えかたが近似していると思うようになってます。考える切っ掛けというのが「弥勒」という立場に対する人々の過剰な反応を考察している内に、そのようにも考えるようになりました。

まず、理科系=人間的な人ですが、この種の人に「弥勒」を説明するのは、比較的簡単に行くと予想してます。なぜなら、弥勒が成立する根拠となる数々のシンクロニシティーと、決定打となった一二三神示の該当箇所を引用すれば良いからです。私個人が勝手に決めたり出来るような事柄ではないのです。理科系=人間的な人は、弥勒を弥勒であるとして、客観的に見做すと思うのです。このような人たちに対して「私」という言葉を使っても、いちいちつっかからないでしょうし、名前だけで集団化する危険性も無いでしょう。なぜなら、同じ目的の元には集まるでしょうが、飽くまでも目は「目的」に向いてるのであり、「組織」に向いてるのではないからです。真実に過敏な人(自分で考える人)=理科系=人間的なのでしょう。

一方、文科系=動物的な人ですが、この種の人に「弥勒」を説明するのは、骨が折れると予想してます。なぜなら、これらの人々には、その根拠を説明すればするほど、「聞きたくない」「知りたくない」と、主観的・動物的な要素が彼らを圧倒すると思うのです。この人たちには弥勒の名(だけ)の下に集まる危険(なぜ、T一教会は、昨年36(ミロク)万組、今年360万組の合同結婚式をするのでしょうか? 弥勒を信者に対して暗示[明示?]するのなら、その根拠を公開すべきであり、名前だけで引き付け、日本を主な資金源とすべきではないと思う)や、弥勒の名を殊更に無視する危険があると思います。客観性が無くなるというのが特徴でしょう。権威(組織)に過敏な人=文科系=動物的と、こんな風に対比してますが。(199711070352)

それと、私のこのような立場は、まさに神の御意志の中にあるのですが、私個人の気持ちについて疑惑があるような気がするので、述べておきます。私は以前、NIFTY-serveのフォーラムFMISTYのデータライブラリーのUFO関連資料室の中に、以前、自費で出版しました「世紀末研究」という本を登録しましたが、読んで頂くと分かりますが、危機意識のようなものがあり、もし、悲惨な未来が回避出来るならば、一身を捧げてでも、なんとか役に立ちたいという気持ちが強くありました。これは私の「やりたいこと」とは言えない事柄です。「命を死滅させない」という願いは、嗜好やら願望のようなものではなく、生命の根元に誰もが持っている傾向だからです。命には、「命を守りたい」という強い気持ちが潜在しています。それは個人の段階を凌駕しているのです。私は以前から、この危機意識につき動かされて「宇宙人は地球に来ている」というチラシを配ったりしていました。そのベースの上での今の、仕組の型としての立場は、私個人としては、確かに光栄の至りであり、また、そのような性格にフィットしており、自分の天職というか、「やりたいこと」と表現することも可能でしょう。その奥には「自分にしか出来ない、自分がやるべきである」という、個人を凌駕した思いがあり、その気持ちは、「気持ち」には違いないでしょうし、ある種「やりたいこと」には違いないでしょうが、個人的なものでは明確にないのです。それは、逆に言えば、「真にやりたいこと」とも言えるでしょう。だから、個人的・人間的な観点からは、「義務」として立ち現れる事になるのでしょうね。ただ、それは同時に個人を否定するものでもない訳です。そのような意味で、私「個人」には「(一般的な意味で)“やりたい事”というものがない」と簡単に言っておりました。まあ、危機意識とか言ってますが、これは私個人の中での捉え方というだけの話であり「客観的な何事か」という断定を含ませてるつもりはありませんので。

このことについて、私の場合の傾向をまとめると、以下の2点だろうと思います。

1:社会的認知欲求を満たすことが第一の目的ではない。
2:言葉の使い方として、事実をなるべく正確に伝える。

私が自分で自分の事を弥勒であると述べている事については、これは、言わないままでいるわけには行かない事だし、また、表立って述べてゆく訳にも行かない事柄である。その間に私は居ます。「自分で自分をまつり上げる」という行為は、多分、ほとんどの人が問題だと感じるだろうと思います。私が「社会を目指していたならば」ですけどね。でも、私は組織・社会を作ろうと思わないし、社会的認知を目指しているわけでもないのである。まずほとんどの人が、その潜在意識に「社会的認知を目指す」性向があると思われます。ほとんど無意識に、その「社会的認知欲求」に突き動かされています。だから、人はそのように見えて仕方がないのだろうと思います。その「見えかた」があるから、私を問題視したくなるのだろうと思われます。例えば、あなたの友人が缶ジュースをおごってくれました。その友人は、実は1000円札をくずしたかっただけなのですが、あなたにはその行為が彼の「我は善良なり」行為に見えてしまう、というような事柄です。だからと言って、私は別に注意して人には見せないようにしていようという発想も今はありません。そのような発想は、まだ社会的認知欲求に捕らわれた考え方です。ただ、思い付くまま、気の向くままに、自由に表現をしているだけです。

次に、言葉の使い方ですが、私としては、「嘘をつかない」というのが柱にあり、事実をなるべく正確に伝える、という使い方をしています。その為、他の人との関係性という感覚的なものを考慮せずに、伝達しようとする事実を伝えようとします。そのようなハッキリした態度の私に対して、人は自身の問題を投影しているのだろうと思われます。それは例えば、「さっき、彼に缶ジュースをおごってくれたのは誰?」と人から聞かれた時に単にその事実を答える意図で、損得とは無関係の発想で「はい、私です」と答えるのを見て、でしゃばっているように見える、というような事です。どのように見えても、実際は違うんだから、堂々とそのように行動すりゃーいいじゃん、と思うのです。

以上のような、「認識のズレ」が人によっては、かなり大きな反発として出てくるような気がしますので、ここで述べておきました。

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